8-94 終戦5
結局、その日の夜はルビナンテの屋敷に泊まったが、智樹とルビナンテが出会う事は無かった。前人未到の200人抜きを達成した智樹がルビナンテの屋敷を訪れた時には屋敷内の人間は殆ど出来上がっており、素面のアルトに聞いてバルコニーも覗いてみたが、そこには誰も居なかった。既に遅い時刻であり、女性の部屋を訪ねるのも憚られるので、残念ながら明日にしようと智樹は階下に戻ったのだった。
ダリオやモカには明日の出立を伝えると散々引き留められ、その説得にも智樹は骨を折っていた。
「水臭いぜ兄貴!! もう俺っちと兄貴は兄弟みてぇなモンじゃねぇか!! ずっとここに居てくれよ!!!」
「そうだぜ!! こんな急に居なくなっちまうなんてヒデェや!!!」
「どうしても出て行くってんなら俺っち達を全員倒してから行ってくれ!!!」
申し訳無いとは思いながらも智樹は食い下がるダリオ達を全員腕相撲で下し、最終的には全員に泣かれてしまったが、何とか納得を勝ち取ったのだった。
「大変だったけど、楽しかったな……」
智樹は元々は暗い訳では無いが内向的なタイプで、積極的に野外活動に精を出して来た記憶は無かった。何となく皆に頼られたりはするがそれも主に頭脳労働の分野で、運動神経はお世辞にもいいとは言えなかったからだ。しかし、こうして肉体強化系の能力を得て鍛えてみると、楽しそうに運動に青春を掛けていた友人達の気持ちが理解出来た。どんどん上達を実感出来るならば、体を動かす事はこの上なく楽しかったのだ。
智樹の将来の目標は医者であるが、その夢は体を鍛えるようになってから多少変化していた。ただ患者が来るのを待つ医者では無く、災害時などに身軽に患者の下へ駆け付ける事が出来る医者になりたいと思い始めていたのだ。自分の能力が元の世界でも有効かどうかは分からないが、悠に鍛えられた身体能力は失われないはずで、人間の限界を超越しているのは間違い無い。ならば、人の役に立つ事は可能であろう。
そんな事をつらつらと考えている内に、智樹は眠りに落ちていった。
智樹が起こされたのは未明の事だ。
「トモキさん、ちょっといいですか?」
「……ん……? アルト、君?」
軽く揺すられ、智樹は目を覚ました。寝坊したかなと思ったが、まだ外は暗く、何事かのトラブルかと智樹は頭を切り替えた。
「何かあったの?」
「いえ、そういう訳ではありませんが、ルビナンテさんがどうしても出立前に智樹さんにお会いしたいと」
「え……? それって……朝になってからじゃ駄目なのかな?」
ルビナンテに挨拶も無しに街を出るほど薄情ではないつもりの智樹はわざわざこんな時間を指定して来た事を不思議に思ったが、アルトは首を振った。
「どうしても今じゃないと駄目なんだそうです。トモキさんと一対一で会いたいんだそうですよ」
「ふぅん? 何の用だろう……ちょっと待って、すぐ準備するよ」
「ルビナンテさんは屋敷の最上階のバルコニーにいらっしゃるそうです。なるべく急いであげて下さいね」
それだけ告げるとアルトは智樹の部屋を後にした。どこか切羽詰まったようなアルトの様子に智樹は割と重要な話なのかもしれないと思い、急いで身支度を整えて最上階を目指す。
「何だろう、これからの事についてかな……」
戦争が終わり、アライアットはこれから改革の波に晒されるだろう。貴族も大勢死に、人材も払底している。王都の近くに領地を持つルビナンテは父であるゾアントに代わりこの領地を運営して行かねばならず、しばらくは寝る間も無いかもしれない。
(僕も手伝えればいいんだけど、領地運営の知識なんて無いしなぁ。相談する相手ならアルト君の方がいいんじゃないかな? ……あ、でも、そういう話ならもうアルト君としているだろうし、やっぱり全然違う話なのかも……)
それ以上は智樹には見当も付かなかった。智樹が出来る事と言えばあとは少々力仕事が達者だという事くらいだ。しかし、ヘネティアは今回の戦争での被害は極めて軽微であり、智樹に手伝える事などありそうになかった。
そんな風に悩んでいる間に智樹は最上階に辿り着き、ルビナンテが居るというバルコニーへと歩を進めて行った。既に外は薄明るくなって来ており、未明というより夜明けというべき時間帯になりつつある。
サロンの外に人影を見つけ、智樹はそちらに近付いて行った。
「ルビナンテ……さん?」
「トモキ……」
バルコニーの扉を開けた瞬間、朝日が人影を照らし出した。ルビナンテ以外居ないと知りつつも智樹が一瞬戸惑った原因はルビナンテの服装が普段とは全く異なるものだったからだ。
いつもは逆立てている髪は結い上げられ上品に纏まっており、紅を引いた唇は強く視線を引きつけた。袖の長いドレスも赤く、切れ込んだ胸の谷間はどこまでも蠱惑的で、まるで絢爛豪華な薔薇の大輪が擬人化したかのように智樹には感じられ、続く言葉が出て来なかった。
そんな智樹を見てルビナンテが自嘲気味に微笑む。
「……ハハ、似合わないだろ? オヤジがどうしても一着くらい作っておけって言うからさ……今まで一度も袖を通した事なんて無かったけどな」
「……いえ……」
否定の言葉が自然と湧き上がって来た智樹は無意識にそれを口に出していた。
「凄く、綺麗です……。とても、びっくりしました……」
「ば、バカ、お世辞なんて言うなっての」
「お世辞じゃありません。お世辞だったらもっと色々言います。……でも、今のルビナンテさんを言い表す言葉は僕には思い付きません……」
「……バカ……」
今のルビナンテが頬を染めているのが怒りでは無く羞恥である事は智樹にも理解出来た。ルビナンテの視線と智樹の視線が絡み合い、つと、ルビナンテが視線を逸らした。
「ヘヘ……ちょっと驚かしてやろうと思ったのさ。トモキにはやられっぱなしだったからな。オレだってこう見えて貴族なんだぜ?」
「見縊ってましたよ。そんなに貴族の令嬢を知っている訳じゃありませんが、今のルビナンテさんはどこから見ても立派な貴族の御令嬢です。……言葉遣い以外は、ですけど」
「言ったなぁ?」
ルビナンテが手を伸ばし、智樹の背後に回って首を絞めた。本気で無いのはその強さからも明らかだ。
その時、階下から音楽が聞こえた。まだ誰かが起きて宴会の続きを楽しんでいるのかもしれない。
ルビナンテはふと思い付き、智樹の耳元で囁いた。
「……トモキ、踊れるか?」
「多少は先生方に教わりましたよ?」
「じゃあ、踊ろう。本式のは無理だから、簡単な奴な」
むしろルビナンテにそんな作法の心得があったのかと智樹は驚いたが、貴族なのだから全く無いという事も無いのかもしれないと思い直す。しかし、今日のルビナンテには驚かされてばかりだ。もう眠気など完全に吹き飛んでしまっていた。
ルビナンテが智樹を解放し、その正面で微笑む。ドレスの裾を摘み、優雅に一礼し、智樹も胸に手を当てて頭を下げた。
ルビナンテから差し出された手を智樹が取り、ルビナンテの手が智樹の背中に、智樹の手がルビナンテの腰に添えられ、空いている手を2人は重ねた。
「……実は、こうして身内以外と踊るのはルビナンテさんが初めてです。不作法があったらお許し下さい」
「フッ、何を隠そう、オレも男と踊るのなんざトモキが初めてだよ。いいじゃねぇか、初めて同士、堅苦しい事は気にせず楽しもうぜ」
「はい」
2人はそのまま音楽に身を任せた。体を寄せ合い、同じ流れに身を任せていると、自然とお互いの気持ちが通じ合う様な気が智樹にはしていた。
一体何の用事でここに呼ばれたかなどという疑問は既に智樹の中には無い。こうしてルビナンテが着飾り、智樹と共に踊っている、それだけで良かったのだ。
今のルビナンテは普段のルビナンテでは無く、女性としての輝きに満ちていた。目には慈愛があり、顔には笑みがある。それが自分に向けられている事は鈍感な智樹にも理解出来た。
「オレは……ここを離れられない……」
答えを求めぬ独り言のようにルビナンテが囁く。
「トモキも……ここには残れない……」
ルビナンテの瞳から一筋の涙が伝う。
「だからこれは……夢だ。朝靄が見せた、ほんの僅かな間の夢なんだよ……」
きつく智樹の背中を握り締めるルビナンテに智樹は返す言葉を持っていない。それを言葉にするには、智樹には圧倒的に経験が足りな過ぎた。
取り繕う言葉はいくらでも言う事は出来るだろう。だが、ルビナンテにその場しのぎの言葉を掛ける事が如何に無意味で残酷な事かが分からないほど、智樹は冷淡では無かった。
曲が止まり、2人の動きが止まった。
「……いつか、元の世界に戻る時はここにも挨拶に来いよ!! 何も言わずに帰ったら許さねぇからな!!!」
精一杯笑顔で、しかし両目からは大粒の涙を零し、ルビナンテは智樹から離れ、そのまま走り去って行ってしまった。
残された智樹は追う事も出来ず、よろよろと手すりに寄りかかって空を見上げた。
「……僕は、どうすれば良かったんでしょうか、悠先生……女の人を泣かせたのは、初めてです……」
大きな罪悪感を持て余し、智樹は力では解決出来ない現状に途方に暮れたのだった。
年相応に大人でもあるルビナンテ。年相応に子供でもある智樹。




