8-78 跳梁12
目の前で起こった事が信じられずにトロイアが呆けた表情で呟く。
「…………ネネ?」
トロイアは自身も崩れ落ちるように跪きネネを抱き起こしたが、背中に回した手がぬるりと滑り、背中から飛び出た鏃がその指に触れた。
「ネネ…………ネネ、ネネ! ネネーーーーーッ!!!」
トロイアの絶叫がテルニラの空に吸い込まれていき――トロイアの手の中のネネが薄く目を開いた。
「……トロイア、様……煩い、ですよ…………近所、迷惑……です……」
「ネネ!?」
こんな時でも普段と同じ様に毒を吐くネネだったが、その声はか細く、今にも消えてしまいそうに弱々しかった。
「……時間が無い、ので、言いたい事を、言わせて……コフッ、も、貰います……。い、一度、しか……言いません、から、よく聞いて、下さ……ゴホッ!」
咳き込むネネの口から血が吐き出され、トロイアの服を赤く染めた。戦いを生業としていないトロイアでも理解せざるを得ない、死の色であった。
「も、もう喋るな!! こんな傷、治療すればすぐに――」
「いいから聞いて!!!」
命がけで声を張り上げたネネにトロイアは強制的に黙らされた。これがネネの最後の頼みであるのなら、聞かない訳にはいかなかった。
「……お耳を、こちらに……」
「トロイア殿、こっちはいい、ネネの話を聞いてやってくれ」
「ユウさん……」
追いついて来た悠がネネを抱き止め、トロイアは頷いて更にか細くなったネネの声を拾う為に目を閉じ、耳をネネの口に寄せた。
浅く呼吸を繰り返すネネの吐息がトロイアの耳をくすぐるが、やがてネネが意を決して話し始めた。
「……ずっと、お慕い申し上げて……おりました。……ネネは、ずっと、ずっと……トロイア様と……一緒に、い、居たいです……。5年前の、あの日から……ネネは……ネネが、将来を共にする、のは……トロイア様と、き、決めて、ゲホッ!!」
顔を背け、血を吐き出すネネの言葉を聞いてトロイアの閉じた目から涙が溢れた。
いつしか妹の様に、姉の様に、そして家族の様に接していた少女の顔を瞼の裏に思い浮かべると、この8年の月日が走馬灯の様に脳裏を駆け巡っていた。
ずっとネネが何を考えているのかが分からなかった。過剰な忠誠心と相反する言動にトロイアはいつも振り回されっぱなしだった気がしたが、ネネは一度もトロイアに対して好悪を口にした事が無かったのだ。思えば、それは自分の感情を悟られない為の精一杯の強がりだったのかもしれない。
「お、おへん、じ、を……」
今にも止まりそうなネネの意識を繋ぎ止める為に、そして己の心の奥底から湧き上がる感情そのままにトロイアは言った。……恐らくは、最期に掛ける事になるであろう言葉を。
「……俺と、ずっと一緒に居てくれ、ネネ。お前が支えてくれたから、俺は俺の生きたいように生きて来れたんだ。……だから……死ぬな!!!」
トロイアの愛の告白にネネは僅かに微笑んだ。
「……若干、洗練さに、欠けていますが……まぁ、オマケで、許して……あげましょう……ふふ……」
ネネの瞼が閉じていく。
「はぁ……眠い……ちょっと、だけ…………休ま、せ…………」
体から一切の力が抜け、ネネから命の輝きが失われていく。
「ネネ、寝るな、ネネッ!!! ……くっ、クソおおおおおおおおおッッッ!!!」
最愛の者を失う恐怖がトロイアの心を砕きかけ――別の場所から静かな声が告げられた。
「鏃の破片の除去完了、『再生』」
ネネの傷口に添えられた悠の手から、赤い靄がネネの傷口に吸い込まれていく。しかし、トロイアはそれに気付かず泣きながらネネを強く揺さぶった。
「ネネ、目を開けてくれ!!! ネネ、ネネッ!!!」
しばらくガクガクと揺すられていたネネだったが、俄かにカッと目を開くと体を起こし、トロイアの顔面にヘッドバッドを敢行した。
「ぐはっ!?」
「煩いですね、眠いと言っているのが聞こえないのですか!?」
「ね、ネネ!? ……お、お、おま、お前……傷は!? 体は大丈夫なのか!?」
トロイアの言葉に小首を傾げ、ネネは自分の服に空いた穴の下に指を入れ傷口を確認したが、そこには血がついてはいても傷口は無く、つるりとした感触が伝わって来た。
「……傷が有りません……どうして……」
ネネとトロイアは同時に第三者に視線を向けた。その問い質したげな視線を受け、悠は淡々と告げる。
「治した。では脱出しようか」
「「いやいやいや!」」
主従からのツッコミがハモる。一世一代のやり取りがまるで茶番のように成り下がってしまい、行き場の無い感情が憤りとなって吐き出されたのだった。
「そ、そんな簡単に死にかけていた人間が治せてたまるか!!!」
「そ、そうですよ!!! この居たたまれなさをどうしてくれるんですか!?」
「知らんよ、それは2人の問題であって俺の問題では無いからな。俺は最初から治療に入っていたし、ネネの意識を保たせる為にトロイア殿に話させていただけだ。ネネは想いを告げ、トロイア殿はそれを受け入れた。一体何の文句が? ……まさか、口から出任せだと逃げ口上でも打つつもりか?」
そう言われては2人に反論など出来ようはずも無かった。ネネは羞恥と遠慮ゆえに、トロイアは鈍感ゆえに進展が無かったのだが、2人の言葉に偽りは無いのだから。
トロイアは若干状況に流された感は否めないが、ネネが誰よりも大切だという事は真実だ。
「傷は治せても失った血液はそうもいかん。まだ動くのは辛いだろう。トロイア殿、愛する女を背負うのは男の義務だと俺は思うが?」
「…………そうだな、分かった」
トロイアは覚悟を決め、しゃがんでネネに背中を向けた。
「ネネ、来なさい」
「……今なら前言を撤回しても怒りませんよ。私は本心から言いましたが、トロイア様は……」
「いいや」
ネネの言葉にトロイアは首を振った。
「俺のような男に付いて来てくれる女が他に居るとは思えないし、お前を失いかけて初めて俺も自分の本心が分かったよ。口では好きな所に行っていいと言いながら、俺は真剣にお前の行き先を探そうとしなかった。今にして思えば、お前と離れたくなかったんだ。…………と、思う」
「最後の台詞が余計です。……言っておきますが、私は怖い女ですよ? 浮気などしたら烈火の如く怒り狂いトロイア様を二度と立ち上がれなくなるくらい打ちのめしますが、それでも決心は変わりませんか?」
「……ちょっと考えさせて貰ってもいいか?」
「許しません」
怖気付きそうになったトロイアをネネは背中からギュっと抱き締めた。
「末永く、お側に置いて下さい。私の事を一番に愛してくれるなら側女くらいは許してあげます」
「俺がそんなに器用な男じゃ無いのはネネが一番よく知っているだろう? 俺の両手はネネ一人で一杯一杯だ、他の誰かを抱き止める余裕なんてあるものか」
「それはそれは、不器用な事ですね」
甘い雰囲気に包まれる空気を平坦な声が切り裂いた。
《……ねえ、サッサと行ってくれない? そういうのは2人だけの時にして欲しいんだけど?》
「え? あ、ああ、済まん。その……済まん……」
きつく言われると反論が出ないのはネネの調教の成果かもしれない。
「そうですね、続きはまたに致しましょう。……ユウさん、レイラさん、このご恩は一生忘れません」
「俺も礼を言わせてくれ。ネネを助けてくれて感謝する。この礼は必ず返させて貰おう」
「協力者を助けただけの事、気にしなくていい。行くぞ」
背後を一瞥し、3人は今度こそテルニラの街を後にしたのだった。
尻に敷かれるのは確定。




