8-74 跳梁8
夜間だからと言ってテルニラの街は外出禁止令が敷かれている訳では無い。それも考えれば当然の事で、唯一の出入り口である正門が『死兵』によって塞がれているのだ。街から逃げようにも逃げられる場所などどこにも無いのである。しかも、場合によっては叩き起こされ、その家はバリケードの材料にされてしまうのだから、住人達はおちおち寝てもいられなかった。
そんなテルニラにまるで深夜の時津波の様に、静かに、しかし確実に住民達の間に避難の情報が広まっていた。
「なぁ、本当にこの街から出られるのか?」
「100%の保証なんかあるもんか。だが、ここでぼんやり日が昇るのを待ってたって死ぬだけだ。なら、行くだけ行ってみてもいいだろう?」
「……そうだな、こんな所に居ちゃ命が幾つあっても足りねぇや。一応行ってみるか?」
誰も彼もが半信半疑ではあったが、住人達にとって縋れる物は藁にでも縋りたい状況であり、ガセであろうとも確認くらいはしたいという思いがその足を噂の城壁に向かわせた。
よくよく目を凝らしてみれば、周囲に幾つもの黒影が見え隠れしており、噂があながち嘘では無いのではないかという希望が生まれてくる。単なる集団心理による錯覚で薄弱な土台の上に辛うじて成立しているのだと分かってはいても、溺れている時に板の切れ端があれば人は掴んでしまうものなのだ。
だが、薄氷を踏む状況とは容易く悪化し得るからこそ薄氷と言うのである。
「貴様ら、一体どこに向かっている!?」
「あ……い、いえ、我々は、その……ぜ、前線のお手伝いを……」
突如として現れた兵士に答えた市民の対応も悪かった。ごく自然に切り出せば疑われる事も無かったものを、心構えが無く口ごもってしまったが為に猜疑心の強い兵士の疑念を呼んでしまったのだ。更に悪い事にこの兵士達はノルツァー家の家臣団に当たるエリートで、説得など出来る相手では無かった。
「……怪しいな、何か良からぬ企みをしているのでは無いのか? おい、こいつらを縛り上げろ!!」
このまま捕縛を許せば住民達の避難に支障を来した事は間違い無い所であったが、背後の兵士達が動く前に状況は決していた。
「がっ!?」
「うぐっ!!」
「ごわっ!?」
小さく上がる悲鳴を最後に兵士達が意識を失って倒れ伏し、隊長の男が狼狽した様子で剣を引き抜こうとした。
「な……何がっ!?」
だが半ばまで剣を抜いた所で闇から伸びた影が神速でその首を掴み、一瞬で気道と頸動脈を強力に絞め上げて意識を刈り取った。
「かっ……」
「事が終わるまで寝ていろ。そこの者達よ、今の内に避難するんだ」
「あ、ありがとうございます!」
足早に去っていく民を見送り、人影は絞めていた手を放した。
「ネネの言う通りこの道が一番兵士が多いな。通り沿いに味方に付けた者達を配備して民を密かに守らせている甲斐がある」
「前線に向かうにはこの通りが一番近道ですから。ここを注視しておけばまず問題はありません」
「それにしても鮮やかなお手際。流石はⅨ(ナインス)の冒険者ですな。10人からなる兵士を瞬きするほどの間で打ち倒してしまわれるとは……」
その人影――悠は絞め落とした兵士を路地に叩き込み周囲の状況を探った。
「いや、先に民では無く兵を説得に回ろうというネネの策が嵌ったお陰だ。それに、兵を説得するに足るトロイア殿の人徳であろうよ」
「恐縮です」
「ハハ、この戦乱の世では何の役にも立たん事と思っていましたが、お役に立てたなら幸いです」
街を回るに当たって、トロイアは危険度の高い場所へと漠然と考えていたが、そこにネネが注進したのだ。
「トロイア様、何よりもまず兵士の方々を味方に引き入れましょう。特にこの近くの詰め所の兵士の方々は普段から懇意にしております。いくらユウさんが強くても体は一つ、揉め事が起こっては対処し切れません。ユウさん、一度にどの程度なら相手に出来ますか?」
「100でも1000でも問題は無いが?」
「……えと、それはもう何人でも大丈夫だと受け取っていいのでしょうか?」
「ああ、既にギルドでは600人ほど連続で叩き伏せた事がある。乱戦なら逆に楽だ」
せめて二桁と思っていたネネは基準が狂って深く考えるのを諦めた。これまでの経緯から自分の実力を過大に喧伝するような人物では無いと信じ、ネネは先を続けた。
「詰め所には前線に近い為、まだ50程度は兵が居るはずです。万一説得に失敗したら制圧して頂きたいのですが……」
「分かった、請け負おう」
特に気負う事も無く引き受けた悠に頷き、ネネはトロイアに向き直った。
「トロイア様は説得をお願いします。多分、トロイア様が話せば皆さん分かって下さると思いますので」
「それは勿論構わないが……ネネが話した方がいいかもしれないぞ? 俺はあまり接客向きの顔じゃ無いし、可愛い女の子が話した方が向こうも聞く気になるんじゃないか?」
「っ!? む、無自覚にこの人は……!」
「え?」
視線をトロイアから外し顔を赤らめたネネを見てトロイアはまた何か失言してネネを怒らせたのかと戦々恐々とした。
《この朴念仁……》
しまいには自分を罵る幻聴まで聞こえ、キョロキョロと首を巡らすトロイアにネネは若干温度の下がった声で告げた。
「……トロイア様は考えなくて結構です。いいから言う通りにしなさい」
「め、命令形……わ、分かったから怒るな、俺も女に任せて後ろに引っ込んでいるつもりは無いぞ?」
「結構です、では参りましょう」
ネネの言っている意味がいまいちピンと来ないトロイアであったが、その疑問は詰め所を訪れた時に氷解した。
「夜分遅くに失礼する」
「ん? ……ああ、トロイアさんじゃないか。いつもお世話になってるね」
「店は大丈夫かい? 何とかあの辺りまでは敵を進めないように誘導してるから安心して下さいよ」
「トロイアさんが来てるのか? ここも安全とは言い難い、誰か護衛に付いて送って差し上げろ」
「あ、いや、護衛を頼みたい訳じゃ無くてだね……ね、ネネ、どういう事だ?」
何故か厚遇を受け戸惑うトロイアの問いにネネは小声で答えた。
「この近辺の兵士の方々はうちのお得意様です。うちは薄利多売ですから、お金の無い方々はよくご利用下さっていますし、週に一度、詰め所に差し入れも行っていますから。トロイア様の馬鹿な価格設定もたまには役に立つという事です」
「……そうか……」
釈然としないながらもトロイアは隊長格の男を呼び寄せた。
「済まんがちょっといいかな?」
「はい、構いませんが?」
近付いてきた兵士にトロイアは単刀直入に小声で告げた。
「この街から逃げ出そうと思う。そこで、君達にも協力を仰ぎたい」
心臓を握り潰されるような緊張を感じながら、トロイアは相手の反応を待った。
「……本気で言ってますか? 我々はテルニラの兵士です、本気なら我々はあなたを捕縛しなければならないのですが?」
案の定、兵士の表情が厳しいものに変わり、しかしトロイアも死を覚悟して先を続けた。
「勿論分かっているが、ノルツァー公に民衆を慮る気が無いのは先ほどの策からも明らかだ。あの方は自分達が助かるためなら平気で民衆も兵士も犠牲にするだろう。結局死ぬのは君達兵士、そして民衆ばかりだ。……君達に事を隠して行動すれば民衆は逃がせただろうが、心無い領主に従って君達が死ぬのは馬鹿げている。それに今知った事だが……」
トロイアは緊張を解き、少し困ったように笑って言った。
「数少ないお得意様を失うのは潰れかけのうちにとって痛手なんだ。一緒に逃げてはくれないか?」
「……」
息の詰まる沈黙であったが、トロイアは清々しさを感じていた。言うべき事は言ったし、自分に恥じる所はないと信じられる清々しさであった。
じっと兵士の反応を見ていたトロイアであったが、不意に兵士が吹き出した。
「…………プッ、アッハッハッハッハッ!! ま、全くトロイアさんらしい物言いだよ、アッハッハッハッハッ!!」
急に笑い出した兵士にトロイアの困惑は深まったが、トロイアが訪ねる前に兵士は他の兵士に呼び掛けた。
「おい皆!! 俺はトロイアさん達とこの街を出るぞ!! 庶民を省みないノルツァーの親子にはうんざりだ!! 一緒に来る奴は居るか!?」
「ちょ、ちょっと隊長、不味いんじゃないですか!?」
補佐を務めていた兵士が隊長を宥めに掛かるが、その檄に周囲の兵士達は強く反応した。
「……俺は隊長について行くぜ!! このまま使い潰されるのは真っ平だ!!」
「俺もだ!! 兵士も街の住人も使い捨てにするノルツァーなんぞに従ってられるか!!」
「そ、それなら俺も……!」
「俺もだ!! 大した金も寄越さずに人を扱き使いやがって!!」
次々と参加を表明する者達が現れ、呆気に取られるトロイアに隊長は笑い掛けた。
「そういう事でよろしく頼むよトロイアさん。ネネちゃんがトロイアさんを止めないって事は、ちゃんと逃げる方法は考えてあるんだろ?」
「え? あ、ああ、それは大丈夫だ」
どうやらノルツァー親子は相当兵士達に憎まれていたらしい。僅かにこの反乱を止めようとした兵士も居たが、悠が気配無くその背後に忍び寄り、意識を奪っていた。
「街の左側の城壁に穴が開いていますので、そこから外に出られます。ですが、皆さんにはまだ少し頼みたい事があるんです」
こうして闇と混乱に紛れた脱走劇は本格化して行ったのである。
情けは人の為ならず。無自覚なトロイアはこの他にも色々してます。……ネネに対してのようにマイナス面もあります。




