8-73 跳梁7
「それで、早速逃げ出すのか?」
「いえ、そういう訳には参りませんね。皆さんにもご協力頂きたい事があるんです」
トロイアの質問を受け、ハリハリは周囲にも呼び掛けた。
「皆さんもこの街で懇意にしていらっしゃる方々がおいででしょう? その方々にも避難を呼び掛けて欲しいのですよ。我々だけでは数に限りがありますからね」
「なるほど……皆、そういう事だが協力してくれるか?」
トロイアの呼び掛けに周囲の者達は賛意を示したが、そこにネネが待ったをかけた。
「お待ち下さい、まだ避難の方法や期間、避難場所を伺っておりません。ハリハリさん、その辺りをお聞かせ願えますか?」
「ヤハハ、しっかりしたお嬢さんですねえ、まだお若いのに」
「はい、よく言われます」
「……中々神経もお太いようで頼もしいです、ハイ」
謙遜ではなく肯定が返ってきてハリハリも少々返答に詰まったが、気を取り直してネネの質問に答えた。
「避難の方法として、街の左側の城壁にこっそり穴を空けさせて貰いました。皆さんにはそこから脱出して頂きます。場所は街の郊外に案内しますので、明日の夕刻くらいまではそちらに居て頂きたいですね」
「明日の夕刻? ……まさか、たった1日足らずでこの状況を終息させるおつもりですか?」
「そのつもりですよ。実際、フォロスゼータを陥落させるのに有した時間がそのくらいでしたし。更に規模が小さくて正門すら無く、兵力にも劣る街一つに時間を掛ける道理がありません」
事実なのでハリハリは自信を持って言い切り、周囲の者達を唸らせた。
「そこまで仰るのであればその言葉を信じましょう。……ですが、最後に一つ伺ってよろしいですか?」
「ええ、何なりと」
「いえ、あなたではありません。そこのユウさんにです」
「俺か? 構わないが……」
急に矛先を変えたネネが間髪入れずに質問をぶつけたのは悠を試す意味が大きかった。ハリハリと違い寡黙に見える悠ならば答えに窮するのでは無いかと考えたのだ。
「ユウさんは既に並ぶ者無き栄誉をお持ちのご様子、それなのに何故こんな辺境と言って差し支えない場所までやって来たのですか? こんな危険を冒さなくても十分に懐は潤っているはずです。失礼ですが、他国に比べて貧しいアライアットの貴族が莫大な報酬を簡単に用意出来たとは思えません。Ⅸの相場はものによりますが、確か金貨で最低100枚以上は掛かるはず。こんな所に来るよりもっと効率のいい、手軽な依頼があったはずですが?」
自分の領主を捕まえて貧乏と称するネネの言葉ははっきりと不敬極まりないが、報酬額を聞いて周囲の者達も納得の表情を浮かべた。自分達の救出にそんな大金を積むとは思えなかったのだ。
だが、ネネは悠の生き方を知らなかった。
「ここに困っている民が居ると知ったからやって来た」
沈黙。
「…………あの、それだけですか?」
悠の言葉に続きがあるのでは無いかと思って待っていたネネだったが、悠がそれ以上話そうとしないので自分から尋ねるが、悠の言葉に変化は無かった。
「それだけだ」
「……納得出来ません。報酬の為では無く、名誉の為でも無いのだとしたら、あなたはとんでもないお人好しです。そんな人間が居るはずが――」
「君は金にもならず名誉にもならないと知ったら誰も助けないのか?」
「え?」
理解不能と言った様子で悠を睨んでいたネネは、逆に悠に質問されて口ごもってしまった。
「人が人を助けようとするのがそんなにおかしいのか? ならば君の主人は何故この人達を匿ったのだ? 君の理屈で言うならば、俺よりもトロイア殿の方が先に詰問されて然るべきだと思うが?」
「そ、それは……」
全く反論の余地の無い正論を突き付けられて、ネネは心理的圧迫感から一歩後ずさった。
「金が要らんとは言わんよ、俺も養う者が居る身だからな。だからと言って金や名誉の為だけに冒険者をやっている訳では無い。助けられる者が居て、助けを求める者が居る。ただそれだけだ」
悠の「それだけ」という言葉に込められた意味に室内の者達は言葉を失った。それは特別な理由では無かったが、だからこそ言うに易く、行うに難いという事が想像出来たのだった。
誰もが悠やトロイアのようには真っすぐは生きられない。それ故に、ごく自然に有言実行をする者に対して人は畏敬の念を抱くのだろう。
その沈黙を破ったのは悠と行いを同じくするトロイアであった。
「……ネネ、もういい。お前は俺の為にこの方々を疑っているのだろうが、俺はこの方々を信じる事に決めたのだ。俺の為にこれ以上憎まれ役などしなくていい」
「トロイア様……」
「我が家の者が失礼した。しかし、悪気あっての事では無く、この家を案じての事なのだ。どうか許されよ」
小さくネネが「家の為ではありません……」とぼやいたが、その声を拾えたのは悠とハリハリだけであった。
「気にしていませんよ、ワタクシもユウ殿もね。それより、逃げるなら早い方がいいと思います。皆さん、出来る限り多くの方に声を掛けて下さい。伝えるべきは街の左側の城壁から逃げられる事、その期間は長くはないという事です。よろしいですね?」
「途中で兵士に見咎められたらどうすれば?」
「ならば兵士も巻き込んで逃げてしまえばいいんですよ。兵士と言っても大半は庶民の方々でしょう? ならばノルツァー父子のやり方に反感を抱いている者も多いはず。他領の兵士であれば街の防衛の手伝いに行く所だとでも言えばこの非常時ですから詮索している暇はありませんよ。夜で状況確認もままなりませんしね。説得の言葉に困ったら連合軍の脅威を持ち出すのも効果的です。戦に疎い皆さんだって、1万少々の軍勢で6万の軍勢を防ぎ切れるとは思えなかったでしょう?」
立て板に水の如く、次々と策を捻り出すハリハリに民衆は引き込まれていた。誰も具体的な方策が無いからこそ途方に暮れていたのだが、こうして希望を見せられると動く気力も湧いてこようというものである。
「ユウ殿、ワタクシは城壁の近くで待ちますので、街の方々をそれとなく手助けして貰えませんか? 中には耳を貸さない兵士や市民も居るでしょうし、そういう方々は仕方ありません、避難が終わるまで眠っていて貰いましょう」
「分かった、こちらは任せておけ」
役割分担を決めると、ハリハリはすぐに城壁に向かって走り去った。
「それでは行動を開始しよう。それと、明らかに悪評が先立つ者には声を掛けなくていいぞ。他人を陥れる事で栄達した者や悪辣な商人などに割いている時間は無いからな。俺は善男善女は助けたいとは思うが、全ての者を分け隔て無く救おうなどと考える博愛主義者では無い」
時間が限られている中、それは当然の事である。因果は巡り、報いを受ける時が来たのだ。全てを救うと言い出されるよりもその言葉は民衆にとって受け入れ易い事であった。
「その基準は任せる。誰にも声を掛けられないのならばそれは本人の生き方に問題があったという事だ」
誰にも声を掛けられない人間はそれ相応の扱いしかされないのだ。他人を貶め、権力や財力、暴力を背景に世の中を渡って来た人間をこの極限状態で助けたいと思う者は皆無であった。逆に、誰か一人でも声を掛けてくれる人間が居るという事はその人間に救われる価値があると言える。仏教における蜘蛛の糸の故事がいい例となるかもしれない。……もっとも、あの故事では誰も救われないのだが。
「俺はトロイア殿と同行しよう。済まんがこの街の事は詳しく知らんのでな」
「分かった、護衛付きという事なら俺は危険度の高い地域を回ろう。ネネ、お前は――」
他の者と一緒に行けと言おうとしたトロイアの服の裾がネネによって強く握り締められた。
「私はトロイア様の使用人です、お側を離れる事はありません」
「あのな……今はそういう事を言っている場合では……」
「たとえ如何なる状況下でもです。どうしてもと仰るのなら両腕を斬り落として行って下さい。……いえ、口が残っていれば噛み付いてでも一緒に行きますので、首をお刎ねになるとよろしいかと」
つまり、生きている限り絶対に離れないという不退転の決意にトロイアは折れざるを得なかった。
「……分かったからもう怖い事を言うな……お前が居なかったら俺は帳簿がどこにあるのかすら分からんのだ」
「ご理解頂けて助かります。それでは参りましょう」
心温まる(?)主従のやり取りを合図に、部屋に集まっていた者達は一斉に行動を開始したのだった。
闇と共に去りぬ。




