8-68 跳梁2
本日2話目。ここからパニックホラー風味、駆け足進行。
ぎこちない動きの兵士が歩いていてもそれを咎める者は居なかった。そもそもが形だけの対立であり、まともな警戒網など敷かれていないのだ。多少夜中に歩き回っていても不審には思われず、更には動きがおかしいのも酒が入っているからという理由でまかり通ってしまった。
そのまま兵士は自分が割り当てられているテントに戻ると、寝静まっている同僚を感情の籠もらぬ瞳で見下ろした。
しばし後、兵士の瞳がせり出し、眼球がべちゃりと地面に落ちる。虚ろな穴と化した眼窩から代わりにまろび出るのは先ほど兵士の中に流し込まれた黒い触手の群れであった。
黒い触手は目だけで無く、兵士の顔にあるあらゆる穴から溢れ出し、眠っている兵士の鼻や口、耳の穴から体内へと潜り込んでいった。瞬間兵士達が仰け反り、短い痙攣を経て一切の動きを止めた。
テントの中の全ての兵士が動きを止めたのを確認すると、黒い触手は巻き戻し画像のように最初の兵士の中に戻っていき、兵士は落ちている眼球を拾って適当に眼窩に嵌め込み、次のテントへと移って同じ作業を繰り返すのだった……。
野営と言ってもリエンドラの扱いは他の兵士達とは桁違いに豪華であった。寒さを遮断するために倍の布を用いたテントは広く、薄い毛布に寝転ぶのでは無くわざわざ組み立て式のベッドを持ち込んで就寝しているのである。極めつけにはその傍らに裸の女性が小さく寝息を立てており、戦争中の緊張感など欠片も無い有様であった。
そんなリエンドラ専用のテントに兵士の一群が現れたのは未明近くになってからの事である。
「……ん? なんだ貴様らは? ここはリエンドラ様のテントだ、下級兵が近付いていい場所では無いぞ!」
見張りに立っていた兵士2人が厳しい口調で手にした槍を突き付け、兵士達を追い散らそうと試みるが、兵士達は焦点の合わない瞳でゆらゆらと体を揺らし、聞いているのかいないのかすら判然としなかった。
「なんなんだこいつら……」
「お、おい、周りを見ろ! どんどん増えてくるぞ!」
もう一人の見張りの警告通り、いつの間にかテントの周囲には大勢の兵士が集まっており、その全てが虚ろにゆらゆらと揺れている様はまるで幽鬼の集団のようで、見張りの兵士達を戦慄させた。
「こ、この……!」
リエンドラ直属という事で他の兵士より大きな権限を与えられていた見張りの兵士は緊急事態と判断し、先頭の兵士の体に槍を突き立てた。
「これ以上近付くのなら容赦せ……な、何っ!?」
恫喝の言葉は目の前で起こった異常事態に遮られた。突き刺した槍など関係無いと言わんばかりに腹を突かれた兵士がその槍を握り締め、更に自分を深く貫かせながら手繰り寄せたのだ。慌てて引き抜こうとしたが兵士の足も前に進んでおり、すぐに見張りの兵士に到達し、見張りの両肩を掴んだ。
「は、放せ、放さんか!! ヒッ!?」
槍から手を放して抵抗するも、眼前の兵士の顔から眼球が落ち、目や鼻や口から黒い触手が湧き出して来たのを見た見張りの兵士が悲鳴をあげた。
「う、うわああああああああああっ!!! こ、こいつら、人間じゃない!!!」
「だ、誰か!! 誰か応援を!!!」
もう一人が周囲を見回して叫んでも、どこからも助けは現れなかった。まるで正常な人間が世界で2人だけになったような状況が見張りの兵士の錯乱を呼ぶが、事態は刻一刻と悪化していった。
「ぐげっ!?」
黒い触手が押さえ付けられた見張りの顔の穴から潜り込み、見る者の精神を狂わせていく。
「あ……ああ……」
ビクビクと痙攣する見張りの顔の中に触手が入り込み、送り元の兵士から千切れてずるりと内部に飲み込まれて行く。数秒後には見張りの兵士は他の兵士と同じく虚ろな目でゆらゆらと揺れる一員となっていた。
言葉も無いもう一人の見張りの兵士の手が、肩が、足が掴まれる。背後に居るのは勿論虚ろな兵士達であった。
「り、リエンドラ様!!! お助け下さ――」
悲鳴も遺言も、全て黒い触手に飲み込まれて行った。
「……む……騒がしいな……」
外の騒ぎにリエンドラが目を覚まし、テントの隙間から外の時間を推察した。この暗さからしてまだ未明であろうと思われ、騒ぐ兵士達に大いに気分を害した。
「う、ん……どうなさったんですかぁ?」
「バカな兵士どもが騒いでいるようだ。ちょっと見張りの兵士に言って黙らせて来い」
「はぁい……ふぁぁ……」
リエンドラに言われ、娼婦は裸体に毛布だけを巻き付けて入り口へと向かった。一晩で金貨を必要とする高級娼婦だけあってその体は扇情的で、リエンドラは腰のラインにニヤリと相好を崩す。
娼婦がテントから頭だけを出して見張りの兵士に声を掛けるのを尻目に、リエンドラはサイドテーブルに置いてあった酒をコップに注ぎ、視線を戻すと娼婦が消えていた。
「……? おい、そんな格好で外に出るな! ……全く、娼婦というのは恥じらいが無くていかんな」
静かにはなったが、せっかく目が覚めたのに娼婦が居ないのでは仕方がないと、リエンドラはガウンを羽織り、テントから出た。
「おい、早く戻れ……な、何だ!?」
それは異様な光景だった。無言の兵士達がテントを包囲し、ゆらゆらと体を揺らす中に見張りの兵士や裸体の娼婦が混じっているのを見たリエンドラは慌ててテントの中に引き返した。
「何だ、何が起こった!?」
敵襲と考えるにはあまりに異常な様子にリエンドラは混乱の極みにあったが、何とか剣を手に取るとそれを一息に引き抜いた。
次の瞬間、テント全体が大きく波打った。外の兵士達が一斉に包囲を狭めてきたのだ。
「くっ、聖神教の仕業か!?」
唯一内部に侵入出来る入り口から入ってきた兵士の首筋に刃を走らせ、その首を斬り飛ばしたリエンドラだったが、その首を見て慄然として震えた。
斬り飛ばした兵士の首の断面や口から黒い触手が漏れ出し、昆虫の足のように歩き始めたからだ。胴体が人間の頭の蜘蛛という生理的嫌悪感をそそる姿にリエンドラは必死に悲鳴を押し殺していたが、次々と兵士達は入り口から侵入して来た。
「き、貴様ら、私を誰だと思っている!? わ、私はデミトリー様の右腕、リエンドラだぞ!? ち、近寄るな!!!」
無茶苦茶に振り回すリエンドラの剣は時折兵士達を捉えたが、兵士達な一向に堪えた様子も無くリエンドラににじり寄って包囲を狭めてくる。
「おのれっ!! これでも食らえ!!」
リエンドラは最終手段である剣を構え、切っ先を兵士に向けて魔力を流し込んだ。すると、柄に嵌った魔道具が反応し、『炎の矢』を発生させて兵士を打った。
「は、ははは!!! ど、どうだ!?」
燃え上がる兵士に笑みを浮かべたリエンドラだったが、その笑いもすぐに凍り付いた。
燃え上がっても兵士は無表情で接近して来たからだ。肉の焼ける臭いと生命を冒涜する光景に、リエンドラは必死に剣に魔力を流し込み続けた。
時折的を外した『炎の矢』がテントにも燃え移るが、今のリエンドラにそんな事は関係がない事だ。とにかく侵入者の排除をと無理矢理魔道具を酷使するリエンドラだったが、特に鍛えてもいないリエンドラの魔力はすぐに枯渇し、炎と兵士にリエンドラは完全に包囲された。
「わ、私がこんな場所で死んでいいはずが無い!! 私は貴族なのだ!! お、お前達のような虫ケラとは命の価値が違うのだ!!!」
リエンドラの言葉を否定する者も肯定する者も居なかったが、たとえ居たとしても結果には何の影響も与えなかっただろう。人間はどれだけ偉かろうが金持ちだろうが死ぬ時がくれば死ぬのだ。死は、人間に残された貴賤無き最後の平等であった。
リエンドラが兵士の群れに押し倒され、のし掛かった兵士の重みで身動きを封じられると、首だけの兵士が触手を動かしてリエンドラに近寄って来た。
「く、来るな……来るなあああああっ!!!」
燃え上がるテントにリエンドラの影絵が踊り――テントの中に生きている人間は誰も居なくなった。




