8-31 進軍18
「これから私達はどうすればいいんだろうか……」
一人の流民の漏らした呟きは他の全ての流民の心の内を代弁していた。そして、それに続く言葉も口には出さなくても皆同じであった。
どうにもなるはずがない。住む場所を奪われ、食糧を奪われ、未来を奪われたのだ。空腹を抱えて彷徨う彼らの行く先は死への一本道であった。
ここに至って神に祈る者など誰一人居なかった。他ならぬ神の使徒に彼らは全てを奪われたのだ。着の身着のまま放り出されて尚信仰を捨てないほど、現実の苦難は生易しいものでは有り得なかった。
空腹、寒気、疲労、諦観……あらゆるネガティブな感情が彼らの信仰心を根こそぎ刈り取り、それでも生まれ育った町や村へと足を進めるのは、どうせ死ぬなら故郷で死にたいと願う暗い懐郷心からだったのかもしれない。
「……ああ、あたしゃもう歩けないよ……」
老婆が遅々とした歩みすら止め、道の端に蹲った。息子夫婦もそれを見て足を止め、老婆の下に駆け寄る。
「母さん、こんな所に居たらすぐに動けなくなっちまうよ。ほら、もう半日も歩けば俺達の村じゃないか。帰ってゆっくり休もう?」
「そうですよお義母さん、もう少しすれば戦争も終わって暮らし易くなるに決まってます」
自分でも信じていない言葉で説得する息子夫婦の言葉に老婆は力無く首を振った。
「帰っても腹を満たすもんなんか残ってるもんかい。あの人でなし共が何もかも持って行っちまったさ……。あたしの事はいいから、あんたらはお帰り。年寄り一人分でも、食い扶持が減る方が助かるはずだよ」
「さ、寂しい事言うなよ!! 母さん一人残して行けるはずが無いだろう!?」
「いいんだよ……あたしゃ疲れた……。きっと、これは報いなのさ。あたしら年寄りは聖神教がおかしいと思っても我が身可愛さで声を上げなかった。きっと、聖神なんていう紛い物じゃ無い、本当の神様があたしらに怒って罰をお与えになったんだ。……若いあんたらまで巻き添えになる事は無い、何とか生き延びておくれ……」
「そうじゃな……今更生き延びようなどとは虫が良過ぎるんじゃろうな……」
「働けもしない年寄りに出来る事はこのくらいかね……」
その言葉を聞いた周囲の老人達は残った家族を見やると、次々と道の端に腰を下ろし始めた。緩慢な死の気配に最も敏感に反応したのは老人達だったのだ。
「どうせ聖神教が無くなっても、次はノースハイアが支配する事になるしの……」
「今より厳しい暮らしになればどうせワシらは生きては行けんじゃろう。いいから行きなさい」
「そ、そんな事……!」
「ねぇ、おばあちゃんは行かないの? ぼく、はやくおうちでごはんがたべたいよ」
「ごめんねぇ…………おばあちゃんはちょっとここで休んでから行くから先にお行き。父さんと母さんの言う事をよく聞くんだよ……」
お腹が減ったとぐずる子供を見て、父親の顔に深い苦悩の皺が刻まれた。持っていたなけなしの食糧はとうの昔に腹に納められ、消化されてしまっている。今後も、とても家族全員を賄えるほどの食糧など手には入らないだろう。正直に言えば年寄り一人でも食い扶持が減るのは有り難いのだ。……それが有り難いなどと考えた自分の醜さに怖気が走り、父親は天を仰いだ。
「この世に神はいらっしゃらないのか……!」
やるせなさが涙となって父親の頬を伝った。残酷な選択肢しか残されていない上、最善の選択肢を選んでも遠くない将来に殆どの人間は死に絶えるだろう。世界の無常を呪っても、それに応える者は居なかった。
そこに追い打ちを掛ける様に鋭い警告が放たれた。
「で、出た!!! 連合軍だ!!!」
遠く見える馬影に流民達の間に緊張が走った。故郷で死ぬかここで殺されるか、選択肢は更に過酷に制限され、流民達の命は風前の灯火であるかと思われた。
列が乱れ、今にも崩壊しそうな流民を押し留めたのは拡声の魔道具を通して届けられた女性の呼び掛けの声であった。
「待って下さい!! 我々は敵ではありません!! 皆さんの避難場所をご用意しています!! そこには食糧も大量にあります!!」
威圧的では無い言葉のニュアンスとその内容に流民達の足が止まった。勿論すぐに信じた訳では無いが、近付いて来た兵士達は誰も武器に手を掛けておらず、流民達を刺激しないように馬から降りて歩み寄って来た。
「皆さんはフォロスゼータから流れて来た方々ですね? 無理矢理連行された上に追い出されてさぞお辛い思いをなさったでしょう。ここに当座の食糧がございますので、これを持ってメルクカッツェ領へ向かって下さい。しばらく暮らして行けるだけの食糧がそこにあります」
「……あ、あんた、連合軍の人間だろ? どうして俺達を助けてくれるんだ?」
背後に家族を庇いながら、父親が恐る恐るといった態度でその理由を尋ねたが、その女性――ステファーは相手の緊張を解すように柔らかく笑い掛けた。
「悪いのは聖神教であって、あなた方ではありません。我々が打倒したいと願うのも聖神教であってアライアットではありません。あなた方には戦後、聖神教の居ないこの国を支えて頂かなくてはならないのですから。……それに……」
ステファーは両手を組んで頭を垂れた。
「聖神などという偽物では無い、本物の神はいらっしゃいます。人が助け合う事はその御心に叶う行いですから」
「聖神教じゃ無い……のか?」
聖職者と言えば聖神教と刷り込まれているアライアットの人間には他の宗教は馴染みの無い物であった。だから自然と警戒心が湧き上がったが、ステファーは恥じる事無くその言葉を肯定した。
「はい、私は静神教徒です。教祖のオリビア様は聖神教と区別される為に静神教と仰る事もありますが、我々は信仰を強要はしません。ただ一つの教義で世界の全てが救われるなどというのは人間の思い上がりですから。人は、自ら信じる物を選ぶべきです」
堂々と信仰を口にするステファーは偽る事無く布教出来る事に喜びを感じていた。聖神教の司教として信者に説法する時などはただ暗記した言葉を繰り返していただけだったが、こうして心から信じられる教義を語るのは、自分自身が誇り高く生きている実感があった。
オリビアは言う。静神教は実践する宗教であると。口だけの救いを並べたてる聖神教と違い、救いたい、助けたいと願うなら、自ら行動するべしと戒め、教祖であるオリビアもそれを実践しているのだ。ステファーが静神教に改宗した最初のきっかけは後が無い状況でオリビアの言葉に感銘を受けたからであるが、今も信じ続けているのはオリビアが誰よりも忠実に教義に従い、生きて行く姿を見たからである。オリビアには自分以外に誰一人静神教を信じなくても自分だけはその教義に従って生きていく覚悟があった。形だけの聖職者であったステファーにとって、その生き方は眩しく映ったのだ。
「さぁ、夜になればまた冷え込みます。順に食糧を受け取ったらメルクカッツェ領のヘネティアへ急いで下さい。戦争が終わればまた故郷に帰る事も出来ますから」
「……」
信じ切れない流民が多い中で、最初に老婆が重い腰を上げて立ち上がった。
「……どれ、それじゃ我儘はこのくらいにして行くとするかね」
「母さん!? 信じるのかい!?」
「いいじゃないか、どうせこのままここに居ても死んじまうだけさ。それに、伊達にあたしも年を食ってる訳じゃ無いんだ。別に何も才能や能力なんか無くたって、その娘さんが嘘を言ってるかどうかくらい目を見れば分かるよ。騙されたってんならあたしの目が腐ってたってだけの事さ」
「信じて頂き、ありがとうございます」
自らの言葉を受け入れてくれた老婆に対し、ステファーは深々と頭を下げた。老婆は遠い昔を見るように目を細め、下げたままのステファーの頭をゆっくりと撫でた。
「そりゃあたしの台詞だよ。ありがとう、お嬢ちゃん」
「……っ」
ステファーはこれまでに数え切れないほどの感謝の言葉を聞いて来たが、これほどまでに温かい感謝の言葉を受け取ったのは初めての事であった。聖神教の司教として聞いた感謝の言葉はどこか空虚で温か味に欠けていたのだ。心を偽って述べた言葉が相手に届くはずも無く、万の偽りよりも、たった一つの真実がステファーの涙腺を緩めた。
まだ雪の残る地面にステファーの涙が点々と落ち、それを見た老婆は素知らぬ風に呟いた。
「おや、雨が降って来たねぇ……でも、この時期に降る雨は春が近い証拠さ。すぐにこの雪も一掃されるだろうねぇ」
声にならぬまま、ステファーは何度も頷き返したのだった。
ステファーもすっかり静神教の宣教師です。




