7-165 優等生の……3
少し冷めかけた料理をテーブルに置き、酒瓶から酒を注いでいるアリアンロッドにジェイは先に口を開いた。
「いいのかよ? あんな事言って、ウチに対する風当たりがキツくならねぇか?」
「バカ言ってんじゃないよ。メロウズがそんな小さい男なら最初から親分だなんて認めちゃいないさ。幼なじみだからってなあなあで済ませるほどアタシは耄碌しちゃいないよ」
随分と手厳しい事を言っていたアリアンロッドのメロウズ評にジェイは眉を顰めた。
「何だよ、認めてるんじゃねぇか。だったら何で……」
「それとこれとは話が別さ。言ったろ、アタシにはもうとっくに一番は居るんだよ。それに、メロウズは今が正念場なんだよ。女にかまけてる場合じゃ無いの。今度の戦争が終わればまた人の出入りが活発になるし、中にも外にも睨みを利かせておかないとね」
アリアンロッドは冷静であった。今だけでなく、既に先の事まで見据えているのだ。だが、ジェイが気になったのは話の前半部分であった。
「……知らなかったぜ、お袋が目をつけてる男が居たなんてよ。何処の何奴だ?」
「はぁ? 何をすっとぼけた事言ってんのさ? そんなの、アンタの親父に決まってるじゃないか。アタシはこう見えて一途なんだよ」
「親父? ……冗談だろ? だって親父はとっくに……」
「くたばってるね。だから何?」
軽く即答されてジェイは咄嗟に思い付くままに反論した。
「そんなの不毛だろ? もう居ない人間の事をいつまで――」
その反論を言い切る事は出来なかった。何故なら今、他ならぬ自分が居なくなった人間に拘っているのだという事に気付いたからだ。
「不毛? はて、そんな風に考えた事は無いねえ」
酒で喉を湿し、アリアンロッドは言った。
「不毛かどうかはアタシが感じる事であって、他の人間が決めるこっちゃないし。むしろ、無かった事にして別の男で代替しようって考える方がアタシにはおかしいと思うけど? 指摘されない限り反論もしないけどさ」
そう言い切るアリアンロッドは確かに不毛な想いに囚われた不幸な気配は微塵も無く、自分の生き方に対する自負が見て取れた。
「人間の感情がそう簡単に切ったり貼ったり出来るもんかい。それに、過去に囚われる事と過去を大切にする事を混同しちゃいけないよ。そりゃたまには人肌が恋しくなる夜もあるけどさ、アタシには……」
コップを置き、アリアンロッドは立ち上がると、座ったまま自分を見上げるジェイの頭を抱き締めた。
「お、おい!」
「アタシにはアンタが居るもん。だからあの人は特別として、アンタが今のアタシの一番かもね?」
「……何言ってんだよ、バーカ」
「いいじゃない、もうこんな風にアンタを抱き締める事なんて無いかもしれないんだから、たまには好きにさせなさいよ」
その口調が思いの外真に迫っていて、ジェイは振り解こうとした手を止めた。
アリアンロッドは強い女性で強い母親だとジェイは思っていたし、事実強い自律心を持っているが、鋼で出来ている訳では無いのだ。たまには誰かに凭れ掛かりたくなる時もあるだろう。
今アリアンロッドがそういう気分になったのはメロウズの事が無関係だとはジェイには思えなかった。きっと、アリアンロッドはメロウズの事は一番では無くても、それに近い感情は抱いているのでは無いかとジェイには思えた。ジェイを抱き締める事で己の感情を再確認している気がしたのだ。……その考えが合っているかどうかは尋ねる事は出来なかったが。
だから、代わりにジェイもアリアンロッドに心情を吐露する気になった。
いつ以来か分からないほど久しぶりに、ジェイは自分を抱き締めるアリアンロッドの背に手を回し、グッと力を込めた。
「ジェイ?」
「ちょっとこのまま話を聞いてくれ。……アルトが、大怪我をしたんだ。この前の野外実習で、俺達を庇ってよ……」
手が震えないように、声が震えないように、手と声に力を込めてジェイは訥々と語り出した。だが、その込められた力の強さがアリアンロッドにジェイの動揺を如実に伝えていた。
「相手は……ドラゴンだった。怪我人も何人も居たし、俺達とそいつらを無事に逃がす時間稼ぎを出来るのはアルトしか居なかった……。アルトのお陰で俺達は無事だったし、ユウ先生が間に合ったからアルトも死ななかったって聞いたけど……俺は、冷静ぶって逃げたんだ……。俺達じゃ足手纏いになるし、怪我人を逃がすのがアルトの望みだったけど、だけどよ!! どう言葉を取り繕っても俺は心の何処かでドラゴンにビビってたんだよ!! だからアルトが時間稼ぎをしてくれるって言った時、俺は、俺は……!」
ちょっとだけ、ホッとしたんだとジェイは掠れる声で告げた。
「元々短期留学だったアルトはもう帰って来ないかもしれねぇけど……どの道俺はアルトに合わせる顔がねぇよ……。俺自身が俺の事を汚ねえって感じてんだ。お袋、俺はどうしたらいいんだ?」
抑えようとする力を超えて震えるジェイの頭をアリアンロッドはそっと撫でた。
「……ふふ、ジェイがアタシにそんなに素直に相談するなんて初めてだねぇ……なんか、母親だなって実感が湧いてくるよ……」
震えるジェイを落ち着ける様に、アリアンロッドはジェイの頭を撫でながら言った。
「アンタ、アルトの事がそんなに大切になってたんだね……。アタシはアンタの考え方が汚いとは思わないよ。人間、死ぬかもしれない時に何の恐怖も感じないはずが無いじゃないか。残ると決めたアルトだって、心の何処かじゃ馬鹿な事言ったなって後悔する気持ちもあっただろうさ。ジェイ、小さい方の感情にばかり目を向けるのはやめな。本当はアンタ、死ぬかもしれなくてもアルトとその場に残りたかったんだろ? 大きい方の感情通りに動けなかったからこそ、そんなにも後悔してるんじゃ無いのかい?」
アリアンロッドの腕の中で、ジェイは小さく頷いた。
あの場面での自分の行動は合理的に見て適切だったとジェイは判断していたが、感情は激しく間違いを叫び、ジェイを苛んでいたのだった。
「アンタは頭も回るし度胸もあるけど……まだ経験が足りないんだよ。アタシはアンタが間違った行動をしたとは思えないし、アルトには無事にジェイを返してくれてありがとうって言いたい。ただね、アンタの間違いは……」
アリアンロッドはジェイの頬を両手で挟み、強引に引き上げて額と額を合わせて向かい合った。
「どうしてすぐアタシに言わなかったんだい!? 息子の命を助けられておいて礼も言わないほどアタシは恩知らずじゃ無いよ!!」
ジェイも目元を濡らしていたが、アリアンロッドもまた泣いていた。アリアンロッドがこんなに取り乱している姿を見た記憶はジェイにも無く、自分が悩む以前に手酷く手順を間違えていたとようやく悟った。
だから、素直に言うべき言葉が出た。
「…………ごめん、お袋……」
ジェイは立ち上がり、先ほど自分がされた様にアリアンロッドの頭を抱き締めた。傷付けてしまった事が、先ほど殴られた時よりもずっと深刻にジェイに痛みを訴えていた。
アリアンロッドはジェイの生存を確かめる様に、涙が止まるまでジェイを離さなかった。
「……よし、行くよジェイ」
「行くって何処にだよ?」
「決まってるだろ、フェルゼニアス公爵の所だよ! 知った以上、すぐ詫びを入れに行くのは当然だろ!?」
そう言ってアリアンロッドは目元の涙の残滓を拭き取ると、ジェイを待たずに自分達の居住スペースである離れへと歩いて行った。
「今からかよ!?」
「今からよ!! アンタも身なりを整えな!! アタシも15分で準備するから!!」
「マジかよ……」
確かに事件後に1度だけローランに会う事は出来たが、事が事なのでアルト以外の無事を確認するのが精々で、以後は多忙につき面会は叶わなかった。自分達は被害者でアルト以外に負い目は無いと教師達は言ってくれたが、それでもその親には一言詫びを入れるのが筋だろう。家に入るなり服を脱ぎ捨てるアリアンロッドは例え今が真夜中でも行くと決めたら突撃しそうなので、ジェイは自分も急いで支度を整える事にした。
と言ってもジェイにとってフォーマルな服装は当然ながら学校の制服であり、やる事と言えば殴られた傷の跡を冷やしつつ髪を整えるくらいであったが。
裏社会の会合に出る時よりもよほど気合を入れて服を選び化粧を施すアリアンロッドを見て、ジェイも覚悟を決めた。
――30分後、2人の姿は城の前にあった。
「本当にこっちでいいのかい、ジェイ?」
「ああ、最近の学長は忙しくて夜中まで城に居るって聞いたしな。家に行くより確実だと思うぜ。居なかったら家に行きゃいいんだしよ」
「ちょっとはまともに頭が回るようになって来たみたいだね」
ジェイに少し意地の悪い笑みを向け、反論が帰って来る前にアリアンロッドは門番に向けて声を掛けた。
「ちょっとすまないけど、フェルゼニアス宰相はまだこっちにいらっしゃるかね?」
「……宰相閣下はまだ執務中である。それに、面会を希望するような時間では無かろう。また明日来られるがいい」
「だよなぁ……」
二重の意味でジェイの予測通りであった。ローランはまだ城に居る様だが、こんな時間に会わせろと言っても取り次いで貰えるはずが無いのだ。
だがアリアンロッドは簡単には引き下がらなかった。
「どうしても今晩お伝えしたい事があるんだよ。ねぇ、もし伝えた上で会わないって言うなら諦めるからさ、ご子息のアルト様の同級生のジェイが母親と一緒に来てるって伝えてくれないかい? お願いだよ……」
アリアンロッドは門番の手を抱え込む様にして自分の胸に抱き締めると、そこから伝わる極上の柔らかさに門番の忠勤顔にヒビが入った。
「や、やめぬか! そ、そんな事でいちいち宰相閣下のお時間を割く訳には……フォッ!?」
「ねぇ、本当に伝えてくれるだけでいいんだよ。それでもダメなら諦めるからさ……ね?」
門番に顔を寄せ、耳元をくすぐる様に吐息を漏らしながらアリアンロッドは切実に訴えた。更に、門番の腕を抱え込む胸は布が寄ってはっきりと谷間が晒され、篝火に浮かぶ双丘の白さに門番が唾を飲む。
「……わ、分かった!! 分かったから離れてくれ!! こっちは新しい指南役が来てから訓練がキツくてまともに女も抱いて無いんだ!! 頼むから俺を誘惑しないでくれぇ!!!」
悲鳴の様な訴えにアリアンロッドは童女の如き笑みを浮かべ、その頬に軽く口付けして離れた。
「ありがとっ♪ 今度お休みが貰えたらウチの酒場に来なよ、いい思いさせてア・ゲ・ル」
「ぐはっ! お、おい、俺は閣下に伝えて来る!! 怪しい奴が来ないか見ててくれ!!」
「あ、ああ……あの、俺もその時は一緒に行ってもいいですかね?」
「勿論よ、待ってるわ」
「うおおおおおおっ!!!」
アリアンロッドのウィンクを見た門番は一目散に城の中へと走って行った。多分、ストレスやら何やら色々溜まっていたのだろう。
「ようやるわ……」
「アタシもまだまだ現役でイケるわねぇ。罪な女だわ」
自分の母親が他人に色仕掛けするシーンを見せられたジェイはゲンナリとして呟いたのだった。
皆、ジェイに対する評価は高く、ジェイもそれを自覚していますが、まだそれに耐えられる精神力をも備えている訳ではありません。ジェイ自身、すぐに合理的な答えを導き出せる自分を嫌悪している部分もあります。
そして、そういう人間がもう一人。




