7-151 抗議36
青年の主張。
悠が住民を輸送し、バローが下級市民を守る中、デミトリーもただ手を拱いて見ていた訳では無かった。
「制止に行った部隊との連絡は?」
「途絶えています。おそらく退けられたと……それに便乗して逃亡を図る者も出ているようです」
「これ以上戦力を分散させるのは下策か……。まずは兵を一カ所に集中する。然る後、逃亡を図った者共を追撃するぞ」
「……『天使』のご助力は願えないでしょうか?」
副官を務めるリエンドラ伯爵の言葉にデミトリーは首を振った。
「『天使』は教主殿の守りについている。ここは兵士達だけで何とかするしかない」
「そうですか……しかし、我らだけではあの数を捕まえるのは……」
「捕まえる必要は無い。殺せ」
「よいのですか? あの者共を殺しては税収や労働力が不足する事になるかと……」
デミトリーもリエンドラ伯爵も民衆に情けを掛け助命しようという気持ちは全く無かった。彼らにとって聖神教など無くても下級市民は奴隷と同義であり、生殺与奪権が自分達にあると信じて疑わなかったからだ。
聖神教が求心力を失うのは構わないが、貴族まで甘く見られては今後に差し支えると考えたデミトリーはここである程度見せしめに殺しておくべきだと心に決めたのである。
「愚かな反抗を鎮めるのも貴族の務めだ。人間など、適当に徴発すればどうとでもなる。そもそも、この王都にあの様な汚らしい輩を住まわせる必要など無いのだ。城壁の外に穴でも掘って住まわせればいいのだよ。近くを歩かれると臭くて敵わん」
「所詮、食って寝て繁殖するしか能のない馬鹿共ですからな。我らが間引いてやれば恐れ入って従うでしょう」
それはおよそ人に対して使う表現では無かったが、2人には何の違和感も無い当たり前の事実であった。イザベラが言う通り、貴族も聖神教も下級市民など家畜も同然の存在だったのだ。イザベラの言葉など支配する側にとってはただの泣き言でしか無く、何の感慨も呼び起こす事は無かったのである。
「兵の総数は二万ほどだが、現状ではまともに動けるのはその半分という所であろう。集まった一万の内五千は王都の治安維持に当て、残る五千で奴らを攻めるぞ」
デミトリーは人品はどうあれ軍の統率者としては優秀であり、今出来る中で最大限の方策をまとめ上げ、逃亡者の追撃を開始したのであった。
「……来やがったな……」
整然と行進する兵士を見て、バローはハリハリに尋ねた。
「ハリハリ、非難状況は?」
「ユウ殿が全力で行っていますが、まだ2往復は必要ですね。つまり、30分は稼がなければなりません」
「30分か……」
口調が苦くなるのをバローは抑える事が出来なかった。向こうも混乱している様でかなり時間は稼げたのだが、相手にも優秀な指揮官は居るらしく、今こちらに向かってくる兵士達に動揺は見られない。
「何とか交渉で時間を稼げねぇかな?」
「もう敵対する覚悟を決めているなら聞く耳を持たないかもしれません。むしろバロー殿が前に出て来れば討ち取って戦意向上を図るのでは無いかと思われます。いくらバロー殿でも五千は居るであろう兵士と正面から斬り合っては怪我では済みませんよ。ただでさえ多数の非戦闘員を抱えているのです、この上バロー殿が離脱するような事があれば集団としての秩序が崩壊してしまいます。せめて、何か気を引ける材料があれば……」
「ならば、その役目を私に任せて貰えないだろうか?」
そう申し出た人物を見て、バローは意外そうに首を傾げた。
「坊ちゃん? お前まだ逃げてなかったのか?」
「脆弱な下級市民の少女ですら聖神教に対して一歩も退かずにあれだけの事を言い放ったのだ。貴族で男の私が先に逃げるなど羞恥の極みであろう!」
「……たまにバカになるよな、お前……」
「ば、バカとは何だ!?」
「いやいや、これでも褒めてんだよ。クズに比べりゃバカの方がずっとマシだぜ?」
肩を叩くバローに腑に落ちない表情を浮かべながらも、パトリオは気を取り直して言葉を続けた。
「……今王都の軍を統べているのは私の父上だ。私が先頭に立てば多少時間は稼げると思う」
「死ぬかもしれんぜ? こっちの戦力は千少々、向こうは五千は居やがる。お前のオヤジは息子だからって手加減してくれるのか?」
「ノルツァーの家の存続の為なら父は躊躇う事無く私を葬るだろう。だが、付き従う兵士は躊躇うはずだ」
「根拠にするにはちと弱いな。……ハリハリ、アライアットの投降兵を集めてくれ、俺は今の内に坊ちゃん……いや、パトリオに時間稼ぎの口車を叩き込む」
「了解しました、期待していますよ、パトリオ殿」
兵の集結をハリハリに任せ、バローは顔では笑いながら、真剣な目をパトリオに向けた。
「とりあえず体の震えは無理矢理だろうと引っ込めな。交渉に必要なのは度胸と余裕だ。安心しろ、いざっていう時の為にとびきりの護衛を付けてやるよ」
アライアット軍が迫る中、バローの講義が始まった。
「どうやら奴らも素直に従う気は無いようですな」
「武器も防具も無い下級市民を抱えているのだ、下手に従順になられるより話が早くて助かる」
相手の兵も練度の上では互角だが、ならば勝つのは数が上のこちらである。長年軍を率いてきた者として、指揮官の質で負けるつもりはデミトリーには無かった。
さて相手の指揮官はあの貴族だろうかと目を凝らしたデミトリーであったが、そこに居たのは散々自分を悩ませてくれた、自身の息子の一人であった。
「……パトリオだと?」
意外感を拭えないデミトリーに、拡声の魔道具を通してパトリオの声が届けられる。
「デミトリー・ノルツァー!!! 私の前に姿を現す勇気があるのならば出て来るがいい!!! 貴族筆頭でありながら聖神教に与し、国政を壟断した事に申し開きをしてみろ!!! それとも先ほど同様に恐れて後ろに隠れてやり過ごすつもりか!? 臆病者が将軍など笑わせる!!!」
内心では血の気を引かせながらもパトリオは気力を振り絞って弾劾の言葉を言い放った。パトリオにとってここまで正面切ってデミトリーに直截な物言いをするのは初めての事であり、もし馬に乗っていなければ立っていられなかったかもしれないとすら思えた。
だが、パトリオにもプライドがあり、また守らねばならない者が居た。聖神教の司教であったステファーを救うにはどうあっても聖神教には退場して貰わなくてはならないのだ。
その為にここで父親であろうと乗り越えなくてはならないのなら、パトリオの腹は決まった。
「ちょっとは遠くで苦労して頭を冷やせばと思ってわざわざ仕事を用意してやったというのに、どうやら間違いだったようだな、パトリオ。まさか国を裏切り他国の間者に成り果てるとは……」
兵士達の間を通って現れたデミトリーにパトリオは思わず唾を飲み込んだが、本番はこれからだ。
「間違っているのは父上、あなたの方です。聖神教などという輩に好き勝手させておく事があなたの言う正しい貴族のあり方と仰るのか!?」
「聖神教を国教と定め、力を与えているのは王のご意志だ。我々貴族はそのご意志を支えるべきであろうが」
「王が間違った考えを抱いた時にお諫めするのも臣下の務めでありましょう! 父上はその責務から逃げているだけです!!」
パトリオの言葉にデミトリーが眉を顰めた。
「賢しげな口を……一体誰に吹き込まれたのかは知らんが、お前如きが関わる話では無い」
「……父上はいつもそうですな。勝手に自分の中で結論付け、他者を顧みない。私には関係が無い? この国に生きる者で関係が無い者など一人も居りません!! 勇気を出して声を上げたあの少女のように!! ましてや私とて貴族の端くれ、愛する祖国が腐って行く様をただ眺めて居られるはずがありましょうか!?」
青臭いパトリオの意見にデミトリーは叱り飛ばしてやりたかったが、一旦始めた議論を先に降りるのはデミトリーの矜持が許さなかった。
「今まで不平不満を垂れ流すだけだったお前が急に博愛主義にでも目覚めたか? それとも聖神教を首尾よく排除出来た暁にはノルツァー公爵家を継がせてやるとでも言われたか?」
「他者を愛するを知らぬ父上らしい邪推ですが、滅び掛けのノルツァー家などあなたそっくりに育った兄上に進呈致しますよ。どうせあなたは如何に自分が生き残るかしか考えていないのですから。あなたにとってあの下級市民の少女も、ここに居る兵士も、そして私も、等しく価値がない。だからあなたには他人の言葉が響かない。あなたにとって大切なのは自分の言葉だけだから。あなたは……誰も愛してはいないから」
パトリオは一言一句をバローに演技指導されて話している訳では無かった。今話している内容も、己の心の内から湧き上がって来た素直な思いである。バローから教授されたのは決して逆上しない事と、相手が無視出来ない方向へ話を持って行けという事だ。
ステファーという愛する者を得て、この極限状態においてパトリオは自分が何故兄や父に反抗的だったのかという問いの答えを悟っていた。
全く子供染みていて赤面するしかないが、きっと兄や父に構って欲しかったのだ。ちゃんとお前を見ていると注目して欲しかったのだ。……愛していると示して欲しかったのだ。だからこそ自分に愛情を示してくれるステファーに自分も出来る限りの愛情を示したくなったのだ。
愛し愛されるという幸福感にパトリオは心が奮い立つのを感じていた。誰かの為に命を懸ける事がこんなにも尊く、そして泣きたいほどに心を揺さ振るのだと声を大にして叫び出したい気持ちであった。今なら大聖堂の前で切実に訴えたイザベラの気持ちが分かる様な気がした。きっと視線の先に居る父には分からないだろうと思うと、父が急に哀れな中年に見えた。
「愛? 愛か!? これはこれは、全く耳障りのいいお題目を掲げて来たな!! 人を統べる立場にある者が愛などという個人的な感情を全面に出して恥じぬ様では先が知れる!! 我々が居なければ民などとっくに滅ぼされて生きてはおらんと言うのに!! 愛で国が守れるか!? 戦争に勝てるか!? 必要なのは力であって愛などという下らん代物では無いのだ!! 現実を見ろ!!」
「現実を見るのは父上、あなたです。あなたが否定し下らないと断じた民への慈愛がこれだけの人間を動かしたのです!! 美酒に美食、名誉に金銭、あなたは多くの物を手にしていますが、あなたは愛と名のつく物は得られない!! 慈愛も無く、敬愛される事も無く、親愛する者も無い!! 下級市民とて感情のある人間です、どうして慈しみの無い人間に従うでしょうか!? 力で押さえつけ恐怖で縛り、金銭で屈服するのが人間の全てだなどとは思い上がりも甚だしい!!!」
「思い上がっているのは貴様の方だ!! たったそれだけの兵を従えて将軍気取りか!?」
「数など問題では無い!! 聖神教と袂を分かった彼らを私は誇りに思う!! ようやく人としての本道に立ち返る事が出来た彼らの不満に気付かなかったのは将軍であるあなたの不明だ!! 仕えている者の心を置き去りにし、蔑ろにして来たのは他ならぬあなただ!! そちらこそ人の心を慮る事も出来ない癖に将軍を気取らないで頂きたい!!」
真っ向からデミトリーと渡り合うパトリオの言葉は青さが滲んでいたが、だからこそ戦場に居る全ての者の心をざわめかせずにはいられなかった。既に青春の時は過ぎ去った者も、昔はパトリオと同じ青さを持っていたのだ。その青さを人は時間と共に別の何かにすり替えて生きて行く。アライアットの場合、多くの者は諦観と信仰にすり替えたのだが、心は便利に入れ替えが利く箱では無いのだ。心の隅に残った僅かな残骸が熱を持つのを止められず、密かに心が傾くのを自覚する者達も居たのだった。
デミトリーは戦場の気配から自分の旗色が悪い事を自覚せざるを得なかった。貴族同士の言葉の応酬であれば若いパトリオなどに遅れを取る事は無いが、今の状況は兵士と下級市民の聴衆が大多数を占めているのだ。ならば、その心情に寄り添うパトリオの言葉が力を持つのはある意味当然の事であった。
だがデミトリーには今更下級市民に寄り添う事は出来なかった。今下級市民に寄り添う事は聖神教を貶める結果となり、自分の将来は明るい物にはならないだろうとデミトリーには思えたし、そもそも制約が無くても下級市民など自分の影も踏めない存在でしか無く、同じ人間だとは思えなかったのだ。彼らは支配するものであって愛する者では無かった。
ここに至り、デミトリーは自分の矜持を捨てる事を決意した。所詮はどちらが勝ったかなど自己満足でしかないのだ。相手に数倍する兵士が居るのだから、会話を切り上げて蹴散らしてしまえばそれで全ての劣等感は払拭されるはずである。
「……私が将軍に相応しいかそうで無いかをその目に見せてやろう。弓兵構え!! 番え!! 目標、パトリオ!!」
デミトリーの言葉に兵士達は弓に矢を番え、パトリオに狙いを付けた。この距離であればまず外さないであろう、必中の距離で命を狙われてもパトリオは動じなかった。
「結局、言葉で答えられなくて暴力に逃げるのですか? 私が恐ろしいと思っていた父上はどうやら幻想だったようです。今の私は父上より恐ろしいものを沢山知っていますし、その程度で恐れ入る事はありませんよ?」
最初に呼び掛けた時には恐ろしかったはずなのだが、話している内にパトリオの中からはデミトリーに対する恐怖は消え去っていた。思えばもっと人間離れした者達が住まう人外魔境で生活していたのだ。今更ただの人間を恐れる道理が無かったのである。
「それが遺言か? 精々虚勢を張ったまま死ぬがいい!! ……放て!!!」
だが現実としての死はパトリオを貫かんと百を超える矢として殺到した。だが、言うべき事は全て言い切ったと満足してパトリオは目を閉じた。
(どのくらい時間は稼げたのだろうか? せめて1往復分だけでも稼げているといいな……)
「いや、何の為の護衛だと思っているのだ、ぱっち?」
パトリオの観念した風な様子をずっと馬の後ろに乗って待っていた少女が腕を交差し、押し開く。
「『自在奈落』!!」
その声に合わせてパトリオの正面に漆黒の壁が生まれ、放たれた矢は全てその壁に阻まれて消え去ってしまった。
「あ……」
「呆けるな、ぱっち。迂闊に動かなければ、どんな攻撃でもひーが守ってやるぞ」
馬の背後でヒストリアは腕を組み、不敵な笑みを浮かべたのだった。
ぱっちの語りと心情描写に文量を割き過ぎてしまった気がします。お陰でヒストリアはずっとぱっちの背中で待ちぼうけでした。




