1-57 出発前日5
「志津香様、覚悟をお決め下さい」
「しゅ、朱理?」
朱理は志津香に近づくと、諭す様に言い放った。ただならぬ朱理の気配に押されて志津香の顔に疑念が生じる。
「もう猶予はありません、今日、いえ、今!何も言えないのなら神崎先輩の事は諦めて下さい。朱理が代わりの人間を紹介します」
「な、何故そのような事を言うの、朱理!」
「甘えるのもいい加減になさいませ、志津香様」
志津香の反駁を朱理は一言の元に切って捨てた。ふざけた雰囲気などまるで無い、本気の気配だ。
「神崎先輩を慕う者は沢山おります。それを分かっていながら志津香様はこれまで直接的な行動に出られませんでした。今日の手料理を振る舞っている時に言えれば良かったのですが、出来なかったようですし・・・」
「うっ・・・そ、それは、周りにまだ皆が・・・」
「・・・正直に言いましょう。志津香様、ここに居る者達全員、志津香様のお気持ちは分かっております」
「え?う、うそ?私は一度も言った事は無いですわ!!」
「態度で丸分かりです、志津香様」
「そ、そんな・・・」
「ついでに、私はここに居る者達全員、と言いました。当然、神崎先輩も志津香様のお気持ちは存じておりますので」
「・・・」
その言葉に志津香は恥ずかしさのあまり失神しそうになったが、そんな場合ではないと気を持ち直した。
「ですので、存分に想いを告げられなさいませ。今夜以降、その機会はありません」
「で、でも、私・・・私・・・」
「・・・・・・これから神崎先輩を残して男性陣は帰られます。私もナナナ様と一緒に部屋に戻ります。後はお好きになさいませ。そのまま放っておけば、神崎先輩もじきに帰りましょう。機会を無駄にするも有意義にするも、志津香様のお心のままにございます。では失礼します」
それを最後に、朱理は踵を返してナナナの元へ行ってしまった。一人残された志津香は呆然とその背中を見送る事しか出来なかった。
いや、本当は待ってと手を伸ばしたかった。一緒に手伝ってとお願いしたかった。しかし、今の話を聞いた後でそれをするのはとてもとても情けない事に思われた。何より、朱理を失望させてしまうだろう。
(私は、いつまでも朱理に頼っていては駄目なのだわ!言い訳は一杯あっても、それを誰に聞かせるの?結局それは自分を慰める役にしか立ちませんわ。私が一人でやらないといけないのです。ああ、それなのに・・・足が震えて・・・顔が強張っているのが分かります・・・怖い・・・怖いわ・・・)
覚悟を決めようとしても、体がそれを裏切ってしまう。足の震えは心の震えになり、顔の強張りは心の強張りになった。・・・本気で人と相対するという事はとても恐ろしい事だったのだ。
遠くからその様子を見た雪人もその気持ちが痛いほどに分かった。その内容は違えど、つい数日前に悠に自らの長年の懸念を伝える時も、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかったのだ。あれに比べたら、単騎で龍に突撃する方が遥かにましだった。
だから、一度だけ。一度だけ志津香を助ける事にした。
「さて、そろそろ帰るか。真のやつ、結局潰れたまま起きなかったからな。せめて俺が連れて帰ってやろう。防人教官、お手伝い願えますかな?」
「心得た。しかし真はいつも貧乏くじを引いている気がするな・・・」
「こいつにしか出来ん役目ですよ、何、そのうち役得をくれてやります」
「雪人、帰るのか?・・ではそろそろ俺も暇しよう」
「馬鹿者、お前は最後に陛下にちゃんとご挨拶をせんか。・・・陛下、我らはこれにて失礼します。悠だけ残して行きますので、話し相手になってやって下さい。では」
「今日はお疲れ様でした。失礼します」
そう言って真を担ぐと、足早に部屋を出て行った。匠もそれに続いて悠の横を通り過ぎ、その際に一瞥だけした視線に意志を込め、そのまま部屋を出た。
「私もナナナ様をお部屋にお連れしてきます。神様もアルコールは効くんですね?」
そう言ってソファーに横になってすやすやと眠るナナナをお姫様だっこして、部屋を出て行った。最後まで志津香とは視線を合わさぬままに。
そして部屋には二人だけが残されたのだった。
(言う・・・言うの・・・言わないと・・・言ってしまわないと・・・)
来賓室の外のテラスに二人は出て来ていた。志津香が外に誘ったのだ。場を変えれば意識も変わるかもしれないと思ったのと、熱くなった頭を冷まそうと思ったからだ。
しかし、その場凌ぎはその場凌ぎでしか無く、結局口は固く閉ざされたままだ。
11月にもなると外はそこそこ冷え込んで来る。いつしか体は冷え、緊張とは別の震えが志津香を包んでいた。それが緊張による物と意識が勘違いし、更に緊張してしまう悪循環を生んでいた。
その間、悠は一言も口を挟まなかった。無論、志津香が何を言おうとしているのかは、自意識過剰では無く分かっている。しかし、結局は断らなければならないのだ。自らが促しておいて断るというのは、どうにも残酷に思えた。だが、このままでは、寒空の下、志津香を長く放置してしまう事になる。それもまた残酷だろう。
皇帝の衣服はゆったりとしたローブで、見栄えは良くても防寒効果はさほどでも無い。なので悠はせめてもの助けにと、自分の軍服の上着を脱ぐと、後ろを向いて震える志津香の肩にそっと掛けた。
「あ・・・」
「せめてこれを。皇都も11月ではもう冷えます。お風邪など召されては西城に叱られますので」
悠の掛けた上着は志津香を温めた。それは体では無く心の方だったのだ。
温め、融かされた心の赴くままに、志津香は遂に口を開いた。
「悠様・・・好きです。私と、私と一緒になって頂けませんか?」
悠はその一言に目を閉じた。来るべきものが来たのだ。
「申し訳ありません。お断りさせて下さい」
それでも悠の返答は変わらなかった。ただ、志津香を傷つけるのは少しだけ、辛く思った。
「志津香様は助けられた思い出で自分を美化しているだけです。自分より良い男はこの国にまだ沢山おります。是非このような男に囚われず、良き男をお探し下さい」
「・・・おりませんよ、そのような人は」
志津香は体中のありったけの力を総動員して膝が崩れないように立っていた。
「馬鹿な小娘が助けられた男に恋をする。確かに二流の、安い脚本かもしれません。でもそれはきっかけに過ぎません。私は、神崎 悠という人が生きて、戦って、己を全うする、その姿にこそ心を奪われたのですから・・・」
「志津香様・・・」
「今の私は皇帝でも天津宮の当主でもなんでもありません。ただの志津香です。今だけは、志津香とお呼びになって」
「そのような不遜な真似は」
「お願いします、悠、さん」
先ほどまで真っ赤だった顔は今は月に照らされているせいもあって、蒼く闇夜に浮かび上がっていた。ただその目だけは、強烈な意志を持って悠を見つめていた。
「・・・分かりました・・・いや、分かった、志津香」
悠はその覚悟に敬意を表して志津香を名で呼んだ。決して受け入れるからでは無いが、それくらい叶えてやれないのでは男が廃ると思ったのだ。
「・・・今初めて、悠さんと同じ場所に立っている気がしました。ありがとうございます」
「志津香、俺は戦場しか知らん男だ。間違っても女を幸せに出来る人間じゃない。精々が、背中を合わせて共に戦う事くらいしか、俺には女と一緒に居る自分が想像出来んのだ。だから、志津香の想いには応えられない。すまない」
「いいのです。私も知っていました。悠さんがそう言うだろう事を。それでも今言わなければならなかったのです。悠さんが遠くへ行ってしまう前に」
どこかほっとしたように、そして悲しそうに志津香は笑った。
「何人もの人が私の背中を押してくれました。真田様や防人様、そして朱理。そんな一人一人の手が、今私をこの場に立たせてくれているのです。そして、叶えられました。私は、満足です」
笑顔のまま、すっと頬に一筋の線が流れた。
「悠さんが帰って来るまでに、私はこの世界から龍を駆逐して、平和にしてみせます。もう悠さんが戦わなくてもいい様に。そうしたら、悠さんも安心でしょう?そして、私、必ず悠さんに愛されてみせます!」
志津香は悠に宣言した。これは皇帝にしか出来ない、志津香だけの告白だった。
「・・・・・・くそ、参った。俺の周りに居る女達は強過ぎる・・・」
そう言って悠は改めて志津香を見つめ返した。
「そこまで言うなら、自分はもう止められん。無事帰って来ても、志津香の想いには応えられんと思う。それでも俺を好いてくれるのか?」
「ええ、ええ!弱い私ですが、この想いは誰にも負けない自信があります!!例えお婆ちゃんになったって、私の想い人は全ての世界を合わせたって、貴方だけですもの!!!」
「分かった。・・・志津香、その想いは生涯忘れない。それだけは覚えていれくれ」
「うっ・・・ゆ、ゆうさぁんっ!」
志津香は悠の胸に飛び込んだ。悠のシャツが志津香の涙で濡れていくが、悠は志津香のするがままに任せた。そして、何も言わずにその頭に手を乗せ、自分の胸に押し当てた。
涙が全ての悲しみを流し尽くしてしまう、その時まで。
ようやく次から最終日・・・の前にアレです。閑話の朱理のターンです。