7-128 抗議13
日が暮れる前に悠達は再びソリューシャの街に出ていた。出立を急いだのは、あえて人目につくようにであり、今もどこかで『影刃衆』が見張っているに違いないからだ。
事実、この時『影刃衆』の上層部、とりわけキリギスは自分を抑えるのに必死であった。
「こ、ここに居たのかバローッ!! まさか、ノースハイアの貴族だったとは……!!」
以前の戦闘で散々虚仮にしてくれたバローは、キリギスにとって宿敵と言っていいほど憎悪する相手であった。一瞬、策略や手順など全て放棄して短剣を手に駆け出したい衝動に駆られたキリギスであったが、血気に逸る部下を諫める頭目という立場がキリギスの暴走に歯止めをかけた。
だが、それで全てを飲み込めるほどキリギスは冷静にはなれなかった。……だからこそキリギスはミロの右腕以上にはなれないのだという事に、キリギスが気付く事は無かった。
「……何人か街に忍ばせておけ。どうやら奴ら、またユウの魔道具の屋敷に行くらしいが、あちらに襲撃を掛けると同時に此方の屋敷にも襲撃を掛けるぞ。奴の妹を捕らえて目の前で辱め、生きていた事を後悔するほどの絶望を与えてやる!! その後、街に火を放ち、奴の大切にして来た全てを悉く灰燼に帰せしめるのだ!!!」
この命令を血気盛んな若い『影刃衆』達は喜びを持って受け入れた。ミロの禁欲的な組織運営とは異なり、被害を拡大させる事も厭わないキリギスはある意味では彼らにとって破壊衝動や殺戮衝動を満たす事の出来る理想的な上司であった。古参の幹部には組織の変質に戸惑う者も居たが、彼らは彼らで自分で考えずにミロに長く従って来ていた為に建設的な、或いは理性的な解決を求める事は出来なかった。
「流動的に人員を入れ替えて監視を続け、奴らが寝静まったら襲撃を仕掛けるぞ。……ミロ様、どうか我らを見守っていて下さい!!」
結局、キリギスどこまでもミロの右腕としての自分のままでしか動く事は出来ず、その影から逃れる事は叶わなかったのである。
一方、悠の屋敷では予想以上にアルトが早く目を覚ましていた。一応の備えとしてアルトの部屋に詰めていた恵があやすとアルトは大人しくして暴れる事は無かったが、やはり悠の姿が見えない事が悲しいのか、盛んに「パパ、パパ」と呼び続けていた。
「もう少しだけ待っていてね。夜にはパパも帰って来るから」
「ウー……パパ、かえ、ゆ?」
「わ、凄い、もう喋れるんだ! アルトちゃんは頭いいんだね!」
恵に頭を撫でられるとアルトも気持ちいいのか目を細めて喉を鳴らした。ドラゴンの学習能力の高さと『家事』による相乗効果でアルトは急速に知識を増大させつつあったのだ。
それから恵は様々な事柄をアルトに教え、アルトはオウム返しにそれらの知識を吸収していった。その知識を根付かせる為か、或いは幼い為かは定かでは無いが途中で長い昼寝を挟み、夜になる前にまた起き出したアルトと恵は今度は絵を描いて過ごした。
「……うぃ、でき、た!」
「あっ、これは悠さんだね?」
「パパ、こえ、パパ!!」
「うん、とっても上手だよ、アルトちゃん」
すぐに絵を描くという事を覚えたアルトが早速描いたのはやはり悠であった。初めてとは思えないくらいにその絵は上手く特徴を捉えており、身内の欲目では無くアルトの学習能力の高さに恵は本気で感心していた。
アルトはそのまま楽しそうにお絵描きを続け、悠の隣に小さな自分を描き、「あうと、こえ、あうと!」と言ってはしゃいだかと思うと、更にその隣にもう一人人物を描き加えた。
「ん!」
「ん? これってもしかして……私?」
恵に胸を張って提示するその絵には確かに恵と思われる人物が描かれていたのだ。
「うん!」
「ありがとうアルトちゃん! ……でも、この絵だとまるで私がママみたい……」
アルトを挟んで悠と並んでいる恵の絵はまるで親子のようで、恵はこっそりと顔を赤らめた。だが、独り言をしっかりと聞き取っていたアルトが恵を指差して繰り返し始めた。
「ママ!! パパ、あうと、ママ!!」
「や、ちょ、ちょっと待ってアルトちゃん!」
「やー! ママ、ママ!!」
母親という認識が固まってしまうのを慌てて訂正しようとした恵であったが、アルトは頑なに恵をママと呼び続けた。
「こ、困ったな……でも……」
悠とその子供とそして自分が並んでいる絵をしばし眺め、恵は顔を緩めた。
「えへへ、ママかぁ……」
ゾクリ。
幸せな妄想に浸る恵の背中に冷水を垂らしたかのような悪寒が走った。これはまたいつもの「アレ」かと恐る恐るドアを振り返る恵であったが、そこはしっかりと閉じられていて誰も見ている者は居ない。
思わずホッと恵は胸を撫で下ろした。危ない危ない、こんな所を見られては、また責められていたかもしれない。もう半ば条件反射になってしまっているなと苦笑した恵の目が、ふとベッドの下に向けられた。
爛々と輝く瞳が恵を射抜いている……。
「キャアアアアアアッ!!!」
恐怖のあまり絶叫しアルトにしがみつく恵に構わず、ベッドの下からゴロゴロと人間が転がり出た。髪を顔に巻きつけながら出て来るその様はまるでホラーの怪物である。
「……ふぅ、恵は目を離すとすぐに既成事実を作ろうとするから困る。見張っておいて良かった」
「そそそ蒼凪!? い、い、いつからここに居たの!?」
獅子舞の様に頭を振って髪を戻す蒼凪にアルトが本能的に危険を感じて唸り声を上げるが、蒼凪はそれに構わずカッと目を見開き、淡々と語り始めた。
「私はいつでもあなたを見ている……」
「そ、そういう冗談じゃなくて!!」
「ずっとここに居た。アルトを見張るのは私が悠先生に頼まれた仕事。『希薄』の魔法で可能な限り気配を薄めてそれを維持していた。だから、いつから居たのかと言われれば最初から」
恐るべき事に、朝からずっとベッドの下に居たらしい。昼食の時はちゃんと居たが、恵達が出て行ったのを見計らって遅れて出て行き、先に食事を済ませてまたベッドの下に戻ったのだとすれば、呆れた忠誠心と言っていいだろう。
「い、言ってくれたら良かったのに!」
「恵は嘘を吐くのが上手くない。言ったらアルトにバレて暴れるかもしれないから言わなかった」
「うっ……」
確かに、気配に敏いアルトの前で恵がチラチラとベッドの下を見ていたら、恐らくアルトは気付いただろう。恵は自分の性格からして隠し通せなかっただろうなと納得するしか無かった。
「さて、と……」
恵を騙、もとい、説得した蒼凪はベッドの下に戻ると一枚の紙を引っ張り出し、アルトの警戒範囲のギリギリまで寄ると、それを広げてアルトに見せた。
「アルト、そっちは偽物。こっちが本当の姿」
「ヒィッ!?」
蒼凪の広げた紙を見た恵から思わず悲鳴が漏れた。恵には理解不能に近いその絵を強いて解説するならば、そこには頭身と遠近感の狂った悠とアルト、そして蒼凪と(思われる)人物が描かれていて、悠の口と(思われる)場所から飛び出した何かが少し離れた場所に居る蒼凪の顔に吸い込まれているように見える。何故かアルトの頭からは血が噴き出していて、舌を垂らし、感情を感じさせない瞳でそれを見上げていた。それは平面でありながら立体的な狂気を具現化したかのような恐ろしい逸品であった。
「ウアアアアアアアン!!!」
悠と恵以外、近付く者全てに強気だったアルトが号泣した。上手く言葉は通じなくても、この絵の狂気は伝わったらしい。咄嗟に恵はアルトの頭を抱き寄せて視線を遮る。
「だ、ダメ、アルトちゃん、見ちゃダメ!!! 蒼凪、その情操教育に悪い絵を早く仕舞って!!!」
「仕舞わない。意地でも仕舞わない。アルト、この絵から分かる通り私と悠先生はらぶらぶ。きっといつかこんな風に悠先生の方から私の唇を情熱的に奪ってくれるはず。だからママと呼ぶなら私の方」
「やめて!!! 悠さんは色々出来るけど舌は伸びないよ!!! 悠さんを魔物にしないで!!!」
「違う、これは…………そう、比喩表現」
「伸びた舌で顔を突き刺してる妖怪が何の比喩なの!?」
「愛」
「何の躊躇いも無く愛!?」
いい事を言った風に得意な顔をする蒼凪に恵は驚愕を隠せなかった。もう一度良く見ても、やはり悠の舌? が蒼凪の顔に突き刺さっている様にしか見えない。どう考えても殺害か捕食の瞬間である。それも恐らく血液か脳を吸い取る系の魔物に襲われている瞬間だ。
「…………そこは百歩譲って認めるとしても、何でアルトちゃんの頭から血が噴き出しているの?」
「違う、これは両親のらぶシーンを見てびっくりして髪の毛が逆立ってるの。目もまん丸に見開いているじゃない」
「致死量に達して目が虚ろになってる様にしか見えないよ!!! 舌もダランとしてるし!!!」
「もういい、恵は私の絵にケチばかりつける。アルトー、ママですよー」
「フギャアアアアアアアアア!!! パパ、たすけて、パパ!!」
「や、やめて!!! アルトちゃんがおかしくなっちゃう!!!」
どうにかアルトを隠す恵の隙間から自分の絵を見せようと周囲を舞い踊る蒼凪の有様は生贄の周囲で狂乱する悪魔信仰の儀式にしか見えなかったが、アルトと恵にとっては幸いな事にその時外の光景が切り替わった。悠が『虚数拠点』を呼び出したのだ。
「む? 悠先生が帰って来た。お出迎えしなきゃ」
絵を片手に部屋を出ようと蒼凪が踵を返すと、いつの間にか少しだけドアが開いており、そこには意識を失ったオリビアが倒れていた。よほど恐ろしい物を見たのか、顔が恐怖に引き攣っている。
「オリビア、こんな所で寝ちゃダメなのに……壁に立て掛けておこう」
白目を剥くオリビアを壁に立て掛け、蒼凪はもう一度自分の絵を見てニコリと微笑むと、そのまま玄関へと急いだのであった。
前後半の温度差の大きい一話。蒼凪がたまに分からなくなります。




