7-114 求めるべき強さ4
「……どこだろう、ここ……」
目を覚ましたアルトの目に飛び込んで来たのは抜ける様な青空であった。どうやら草の上で寝ていたようで、暖かなそよ風がアルトの頬を撫でて行く。
「おかしいな、確か僕はドラゴンと相打ちになって、それでユウ先生の治療を受けていたはずなのに……」
今自分が寝ている場所にも全く身に覚えが無かった。いや、どこか安心出来る奇妙な既視感を感じる場所ではあったが、とにかく記憶には無い場所である。
ミーノスがいくら温暖な地域と言ってもまだこんなに暖かい場所は無いはずだ。とするとここはミーノスでは無いのだろうかと考えたアルトは自分の体がどこも痛まない事に気が付いた。
上半身を起こしてみると、アルトの様子を窺っていた小動物が驚いて後退していく。
サラサラという音は近くに川でも流れているのだろうか? アルトは気を取り直して立ち上がると、一気に視界が開けた。
「わぁ……綺麗な場所だな……」
どこまでも続く大平原に色とりどりの花が咲き乱れ、元気よく野生動物が駆けていく。立ち止まっている者は多分食事中なのだろう。呑気そうにもしゃもしゃと咀嚼を繰り返す様はのどかを絵に描いた様な光景であった。
「ん~……もしかしてこれって夢なのかな? 匂いも音も暖かさもちゃんと感じるけど、僕こんな場所は知らないし……」
何より傷が無いのが不可解であった。ならばもう一度眠れば良いのだろうか? そう思ったアルトの耳に聞き慣れない音が微かに届いた。
「声? ……いや、歌、かな?」
ふとその音に従って背後を振り返ると、そこには森が存在していた。この森が最初からこうしてあったのか、アルトには確信が持てなかったが、音はその森の奥から響いて来るようであった。
この場でぼーっと突っ立っていても始まらないと考えたアルトは意を決して森の中に踏み込んでいく。
踏み込んでみて分かったのだが、森の中は案外明るく、樹木の密度として言えば林という方が相応しいかもしれない。お陰で歩くのに不便が無いのは助かったので、アルトは今やはっきり歌と認識出来る声を頼りに奥へ奥へと進んで行った。
草むらの向こうが声の発信源だと当たりをつけたアルトはそっと草を掻き分け、誰が歌っているのかを確かめようと首を伸ばす。
草むらの向こうは湖になっていて――アルトはそこに居る人物に目を奪われた。
一糸纏わぬ女性が、それも滅多にお目に掛かれないほど美しい女性が水と戯れながら歌っていたのだ。燃える様に赤い髪は長く、腰まで浸かっている水面から更に水を赤く染めるようにゆらりと広がっていた。
その顔つきは凛々しく、切れ長の目は深い思慮を感じさせた。張り出した胸は重力に逆らってその立体を主張し、背から腰に至る曲線は引き締まりつつも大人の女性らしい母性に溢れている。嫋やかな腕が水を掬い、体に掛けると水滴が玉となって肌の上を滑り落ちて行った。
――不意に、歌が止む。
「……興味のある年頃だとは思うけど、覗き見はあまり感心出来ないわよ、アルト?」
突然名前を呼ばれたから……では無く、アルトは自分の不行状に今更の様に気付き、咄嗟に謝るしかなかった。
「あ……ご、ごめんなさい!!! そんなつもりじゃ無かったんです!!!」
そのまま地面に跪くと、アルトは速やかに土下座に移行した。あまりに綺麗で見惚れていたなどというのは何の言い訳にもならないだろう。そんな事で許してくれる女性が居るのなら世の中に覗き魔などと呼ばれる男は居ないはずだ。
だが、目の前の赤い髪の女性は稀有な精神の持ち主らしかった。
「ま、いいけどね。別に減るもんじゃないし。それに、どうせすぐ忘れるわ」
特に怒りも無くそう言うと、水音が徐々にアルトの方に近付いていた。そしてそのまま水から上がる音がするにあたり、アルトは土下座のまま体を強張らせた。水の滴る音からして、女性はまだ衣服を身に纏っていないはずである。それが何の躊躇いも無く自分に近付いて来るのだから、アルトとしては大いに慌てる所である。だが、頭を上げる事もまた出来ないので、アルトに出来るのは精々体を強張らせる事だけなのであった。
「ここはいい所ね。これだけ美しく、命に溢れた世界はあまり見た事が無いわ。思わず楽しんじゃった」
「そ、そうですか……」
「ええ、自慢していいわよ」
そう言って、アルトにとっては恐るべき事に赤髪の女性はアルトの横に腰を下ろした。視界の端に張りのある濡れた太腿が目に入り、アルトは慌てて首を90°逆側に回転させた。
「あ、あの、色々聞きたい事はありますが、その、ふ、服など召されては如何でしょうか!?」
「服、ねぇ……残念ながら持ってないの。まぁ、別に誰か来る訳じゃないんだから別にいいでしょ。それより、もっと聞くべき事があるんじゃないの?」
全然良くないよ!!! と心の中で叫んでからアルトは聞くべき事を頭の中から探したが、残念ながら急に馬鹿になってしまったらしく、浮かび上がるのは先ほどの赤髪の女性の艶めかしい肢体であった。
何となく、大声で叫びながら湖に突貫したくなった。
「あぅ……」
「あら、頭が真っ白? その程度の精神力じゃ試練を乗り越える事は出来ないわよ。もっと気合を入れなさいな」
「そ、そうは言いましても……試練?」
「そう、試練。飛び切り痛くて苦しくて大変な試練よ。ちょっと記憶が曖昧になってて覚えていないのかもしれないわね。その様子だと、私が誰なのかも分からないみたいだし。何故私がアルトの事を知っているのかも、今言ってもしょうがないわ。それに、ここでの事は起きたら忘れちゃうし。ここから持ち出せる物は何も無いの。ただ、これが試練を乗り越える前の最後の安息の時間というだけの話なんだから」
アルトの質問の完全解答では無かったが、やはりここは夢の世界の様なものらしい。そして、向こうは自分の事をよく知っているようだ。だが、この赤髪の女性の事はアルトの中では知っている誰にも繋がらなかった。いや、正確に言えばその者の事は知っていても姿を知らない様な、そんな奇妙な感覚だ。
赤髪の女性は立ち上がると、アルトの背後に回り、そっとアルトを後ろから抱き締めた。アルトの背中に大きな弾力に富んだ何かがグッと押し付けられる。
「ななな何を!?」
「……うん、相性は良さそう。後はアルトが頑張れるかどうかね」
アルトの首筋の匂いを嗅ぎながら赤髪の女性は理解不能な感想を漏らした。というより行動自体が理解不能であり、そろそろ本気で水の中に飛び込もうかとアルトは真剣に考えた。
だが赤髪の女性はとことんアルトの葛藤には付き合ってくれないらしい。納得した様にアルトを解放すると、再び湖に向かって歩き出しながら謎かけの様に語った。
「もう会う事も無いし、また会う事もあるでしょうけど、無事に試練を乗り越えられる事を祈っているわ。それはもう私にはどうしようもない事だから。だからさよならは言わない。またね、アルト」
そのまま赤髪の女性は湖の奥へと歩み去って行く。足が、腰が、胸が、そして首が水没し、最後に一度振り返り、「頑張ってね」と言うと、その言葉を最後にトプンと水の中に没して行った。
「あっ……」
思わず追い掛けようとして腰を浮かせたアルトは強烈な睡魔に膝を付いた。もしかして本物の妖精だったのだろうかと考えたアルトの視界が赤い闇に満たされて行く。
(もう一度、会えるのかな……?)
そんな名残惜しさを感じながら、アルトの意識は闇に溶けて行ったのだった。
閑話に近い話になりました。曖昧模糊としていますが、赤髪の女性が誰なのかは言わなくても伝わると思います。




