7-90 新しい自分10
しばらくは高鳴る胸を静めるのに必死だったソフィアローゼだったが、やがて意を決して口を開いた。
「……ユウさん、私を治すのにいくら掛かったのか教えて頂けませんか? 私、一生掛かってもお支払したいんです」
「それはまかりならん。事後承諾で金銭を要求するなど悪徳医者のする事だ。それに、何度も言っているがソフィアローゼを治療したのはロッテローゼとの約束事、たとえソフィアローゼが今金を持っているとしても受け取らんぞ」
「でも……金貨数百枚は間違いなく……」
「金の多寡では無い。それに……そうだな、ソフィアローゼにもそろそろちゃんと話すべきか」
悠は懐から自分の冒険者証を取り出した。
「ソフィアローゼ、これが何だか分かるか?」
「これは……冒険者証? 冒険者の身分証明書ですか?」
「そうだ、俺はⅨ(ナインス)の冒険者をやっている。冒険者はランクで報酬が異なるが、Ⅸともなれば通常の報酬だけでも金貨数枚から数十枚、途中で手に入る品も換金すれば金貨千枚を超える報酬になる事もある。だから金に困っている訳ではないんだ」
悠の告げる言葉にソフィアローゼは瞠目した。バローに聞いてから悠がかなりの資産を持っているとは思っていたが、どうやらその資金力は貴族と比べても遜色ないほどのものらしい。
「それに俺が冒険者をやっているのはただ金を稼ぎたいからでは無い。……全てを話さねば理解しがたいか……。ソフィアローゼ、『異邦人』は知っているな?」
「はい、知っています」
アライアットの人間で『異邦人』を知らない者は居ない。何しろ自国を滅ぼそうとする敵の精鋭部隊である。『異邦人』とは、アライアットで最も忌み嫌われている存在なのだ。
「だが、ノースハイアがどうやって『異邦人』を集めていたかは知らんはずだ。それは秘匿されていたからな。結論から言えば、俺も子供達も皆『異邦人』なのだよ。今からその経緯をソフィアローゼに語ろうと思う。……聞いてくれるか?」
悠の語る内容はソフィアローゼに衝撃を与え続けていたが、悠がこれから大切な話をしようとしている事を感じ取り、神妙に頷いた。
「ありがとう。少し、ほんの少し長い話になる。まずは俺の世界の話から始めようか……」
そして悠の物語が始まった。
「……遅い……」
「蒼凪、そろそろご飯食べたら? お腹減ったでしょ?」
「いい、私は悠先生が来たら食べるから」
昼食の時間になっても悠とソフィアローゼが広間に姿を現す事はなかった。悠が万一にでもソフィアローゼとどうにかなるとは思っていない蒼凪であるが、問題はそんな事では無いのだ。悠が自分じゃない誰かと2人っきりで過ごしている、それが問題なのである。
「もう、そんな事言ってると何時になるか分からないよ? それに、こうなったらちゃんと話し合って貰おうって言い出したのは蒼凪じゃないの」
「……悠先生が誤解されたままなのは嫌だから。でも、今は食べたくない……」
人の心が、人格が100%単一であるはずがない。悠を誤解されたくない気持ち、ソフィアローゼを思いやる気持ち、そしてそれとは別に悠と一緒に別の人間が時間を共有している事への嫉妬、全て蒼凪の心の中に存在する偽らざる気持ちなのだ。
「気持ちは分かるけどね……」
注意を促す樹里亜とてそれは例外ではない。ソフィアローゼの回復を願う心もあれば、悠を独占している妬みも存在する事を樹里亜も自覚していた。
「でも、だからって蒼凪が食べなかったらまた後で悠先生が困るのよ? それは悠先生を一番見続けている蒼凪なら分かってるんじゃないかな?」
「……うん」
「なら、無理にでも詰め込みなさい。強くなって、悠先生と一緒に行きたいと思っているなら尚更ね。空腹でこなせるほど、この家の鍛練は甘くないんだから」
「…………分かった、食べる」
何度も促され、ようやく蒼凪は食事に手を付け始め、それを見た樹里亜もやれやれと苦笑する。大胆に見えて繊細な年頃なのは自分も一緒なんだけどな、などと考えながら。
「……ま、私は私で頑張るか。いつお呼びが掛かっても皆を守れるくらいにはなっておかないとね」
戦闘指揮を任されている樹里亜にはやる事が多いのだ。全員の能力を把握し悠をサポートしなければならない上に自分の能力も磨かなくてはならない。それに、こうした心理面でのサポートも重要な役割であった。
「もし帰れたら自衛官なんかを目指すのもいいかな? 体力も力も男の子にだって負けない自信はあるしね」
なんだか思考が軍人染みて来ていてますます普通の女の子からは外れていく気がしたが、悠と同じ軍人というのも悪い気はせず、樹里亜は一つ伸びをすると気合を入れ直して午後の鍛練に向かうのだった。
とても長い話であった。
本を友としていたソフィアローゼは端折らずに詳細な話を聞きたがり、悠もそれに応えて丁寧に語り続けたからだ。語り始めて3時間を超える頃、ようやく話はソフィアローゼを救出する場所に着地した。
「……それで、地上からの侵入は厳しいと考えた俺達は別の場所からの侵入を試みる事にした。無理やり押し入れば罪のない者にまで被害が出ると考えたからだ。ハリハリの献策に従い、フォロスゼータの遥か下を流れる川を遡上し、川伝いに王都直下までやって来た俺達はヒストリアの手を借りてダーリングベルの敷地まで掘り進んだのだ。屋敷に潜入した時、倒れているソフィアローゼを見つけた時は正直少し肝が冷えたな」
「確か、お水が無くなってどうしようもなくて部屋の外に出たんだと思います。……殆ど覚えてないんですけど……」
「あと少し放置されていたら危なかったな。正体不明の一団が直後にダーリングベル家に侵入していた所だったし、その標的はどう考えてもソフィアローゼだろう。俺はガルファの手の者達ではないかと踏んでいるが……奴には近い内に相応の報いをくれてやる」
ごく自然な口調で語る悠だったが、ソフィアローゼは悠がそれを固く心に誓っているのだと分かった。悠は言葉に嘘がなく、やると口にしたのなら必ずそれを成すだろう。
「そしてソフィアローゼを連れ帰る途中で幽閉されているパトリシア王妃とも交渉を持つ事が出来た。……しかし姿を現さずに話し掛けた俺達の事を『悪魔』だと思っているらしくてな。万一の時に正体を掴まれぬよう、そのまま王妃の中では俺達は『悪魔』という事になっている。アライアットでは怪しげな人物は皆『悪魔』らしいな?」
「も、もう!! それは言わないで下さいって言ったのに!!」
からかうような悠の言葉にソフィアローゼが頬を赤らめて反論したが、その口調にはこれまでのような険は混じってはいなかった。
「そこから先はソフィアローゼも知る通りだ。そして此度のノワール領での戦闘は内戦の体を取りつつも、実質はアライアットによる侵略行為として捉えられるだろう。ノースハイアは拡大政策を取り止めたとはいえ、侵略に対して武力による報復か、最低でもアライアットに抗議に出るはずだ。そうしなければ王としての資質を疑われる。だが抗議したとてアライアットは止まるまい。その先にあるのは全ての大国を巻き込んだ戦争だ」
「みんな馬鹿みたい……結局戦争は止められないんだ……」
「ミーノス、ノースハイアは健全な国としての姿を取り戻しつつある。後はアライアットの聖神教さえ除かれれば、三国による和平交渉も夢ではなかろう。もう少しの辛抱だ、ソフィアローゼ」
「ユウさんも……戦争に参加されるんですか?」
ソフィアローゼは悠に悲しげな顔で尋ねた。戦争となれば、悠は当然ノースハイアに与する事になるだろう。自国の人間を悠が殺して回るのを想像するのはソフィアローゼにとって苦痛であった。
「狂信者に情けを掛けるつもりはない。奴らは『異邦人』を同じ人間とは考えず、獲物を殺す様に楽しんで殺し、慰み者にしていた。子供の首を刈り取り、嬲り、衆目の晒し者にするなど言語道断。善良な者達に仇なすならば俺は一切容赦はせん。が……」
そこで一旦悠は言葉を切った。そして改めてソフィアローゼと視線を交わし、言葉を続ける。
「敵対する意志の無い者まで殺そうとは思わない。聖神教に嫌々ながら従っている者も居るだろう。だから俺はアライアット兵と戦う前に先に聖神教を粉砕してやろうと考えている。狂信者共が最も堪えるのは己の神を完膚なきまでに否定される事だ。教団の教主、幹部、その他悪名高い者共は衆目の前で処刑させる。悪しき神の加護など有り得ないと見ている全ての人間に理解出来るように。因果は巡り、必ずや報いがあるのだと思い知らせる為に。……ロッテローゼの様な純粋な者が二度と利用される事の無い様にな……」
ロッテローゼの心に触れた悠はロッテローゼが昔は純粋な愛国心を持つ少女だったと知っていた。全てを狂わせたのは戦争であり、それを助長したのは聖神教である。人はどうしようもない事が身に降りかかると、目に見えぬ存在に救いを求めるものだ。そんな弱った心に付け込む様な腐った宗教はもはや宗教ではなく詐欺師集団と断ずるべきものであり、悠にとって根絶すべき対象である。
悠の思いに打たれ、ソフィアローゼはじっとその言葉に耳を傾けた。
ソフィアローゼは殆ど外に出られなかった為、アライアットの兵士を知らなかった。そんなおぞましい行為が自分の国で行われているなど信じたくは無かった。しかし、悠とアライアットを天秤に掛ければ、即座に悠の側に沈み込むくらいにはソフィアローゼは悠の事を信じていた。こういう人だから姉も信じて妹の事を託したのだろうと思うと誇らしい気持ちが湧き上がってきた。
「さて、本当に長い話になったな……ソフィアローゼ、最後に君に聞いておきたい事がある」
「はい、私に答えられる事でしたら」
悠は話の締め括りにソフィアローゼに問うた。
「君は生きて行く為の健康な体を手に入れた。じきに走り回る事も出来るようになるだろう。そうなれば、もう君に俺は必要ないと思う」
その言葉がこの日一番強くソフィアローゼの心に突き刺さった。それは別れの予兆であった。
「君には幾つかの選択肢がある。一つはバローの家でほとぼりが冷めるまで暮らし、戦争が終わったらフォロスゼータに帰る道。バローの領地はアライアットと接しているが、そこまで戦火は及ぶまい。そしてもう一つはミーノスにある学校に行く道だ。そこでは先ほど話したように、貴族も庶民も同じ学び舎で学ぶ事が出来るし、寮があるので住む所も心配要らないぞ。ミーノスの言葉で書かれた本も読んでいるソフィアローゼであれば言葉に不自由する事もなかろう」
違う、違うのだ。自分が望む選択肢はその中には無いのだと、ソフィアローゼは痛む胸を握り締めながら悠の言葉に続きがある事を信じて待ちわびた。返答しないソフィアローゼの訴えかけるような視線に、悠は何と言うべきか考えた。
悠の沈思黙考を否定的に捉えたソフィアローゼが俯き、か細い声で言葉を紡ぐ。
「……ユウさんが出て行けと仰るなら、出て行きます。お世話になりました……」
「待て、そういう意味ではない。話をよく聞かんのはアライアットの人間の悪い所だぞ」
それでも俯いたままのソフィアローゼに悠は目を閉じて語り掛けた。
「……言っておくがここは君が考えているほど安全でもない。結界はあるが永続的ではないし、実際ならず者やドラゴンに襲われた事もある。知っての通り俺は甘やかす事は出来んし、客扱いもしてやれん」
悠が何を言わんとしているかを悟ったソフィアローゼが驚きを込めて顔を上げた。
「それって……!」
「それでもいいなら、ソフィアローゼがアライアットに帰るまでの間、ここに居てもいい。これが第3の選択肢だ。……どうする?」
返答は感極まったソフィアローゼの抱擁という形でなされたのは言うまでもない事であった。
ソフィアローゼ加入。一時的かずっとかはまだ分かりませんけどね。




