7-88 新しい自分8
「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
悠とクリストファーが話している間に、ソフィアローゼは外で鍛練をする子供達に混じってひたすら歩く練習を行っていた。もう寝ている必要は無いが、まだ走る事は出来ないので体力作りと筋肉を鍛える為である。
こっそりと飲ませているドラゴンの血のお陰とは気付かず、ソフィアローゼは歩き続けられる事に喜びを感じていた。
(ただ歩いてるだけなのに、何だか楽しいな。健康な体ってこんなに心が浮き立つものなんだ……)
最後に外を出歩いた記憶などもう色褪せてよく思い出せないほどなのだ。こうして日の光の下、誰の手も借りずに動き回れるという事の有り難さをソフィアローゼは噛み締めるように一歩一歩足跡を刻んでいった。
(それにしても、皆凄いなぁ……メイちゃんみたいな小さい子まで戦えるんだ……。しかも良く分からないけど強いみたいだし。ケイさんが私を軽々と抱えられる訳だわ……)
武術の心得どころか運動の心得すら無いソフィアローゼの目では皆の体の動きに目がついていかないので、何となく凄いという感想しか抱けなかった。
(私もこれからここで剣とか習うのかな? そうしたら私もケイさんを持ち上げられるようになるのかも……ふふっ)
そう考えると額から汗を流しながらも自然と笑みが浮かんで来た。せっかく健康な体を手に入れたのだ。女の子としてはどうかと思うが、今度は少し体を鍛えてみるのも悪くないかもしれない。
歩けるギリギリまで歩いてソフィアローゼは足を止めた。これは悠がソフィアローゼに課したリハビリの一環であり、昼までに屋敷を10周するというのが今日の内容である。
外には雪があるが、敷地内には雪は無いのでソフィアローゼはその場に腰を下ろした。どういう訳か、朝起きた時には無かったはずの雪が朝食を終えたら降り積もっていたのである。他の者に聞こうとしたが、すぐに鍛練の時間になってしまって聞きそびれてしまっていた。相変わらずこの屋敷には謎が多過ぎる。
風が運んで来る涼気がソフィアローゼの額を撫でる。汗を拭き、ケイから渡されている水を飲んで一息つくと、思考が運動から悠の事に切り替わった。
「そういえば動けるようになったけど、まだ殴ってないな……」
ふとソフィアローゼはそんな啖呵を切った事を思い出していた。正直、自分の体の事で手一杯で今の今まで忘れていたのだ。
「それもこれもあの人がいけないのよ。毎日毎日私が何も考えられなくなるくらい運動させるからそんな暇が無いんじゃない。……まぁ、終わった後に体を揉んでくれるのが気持ち良過ぎて何も考えられなくなるのもあるけど……。ううん、もう少し、もう少し体が動くようになってからじゃないと避けられちゃうかもしれないし! その内絶対殴るし!!」
慌てたように気合を入れ直すソフィアローゼ自身は気が付いていないが、日に日に悠への蟠りは薄れていっているのだった。口は悪いが悠はソフィアローゼの体力をギリギリで見切っているようで、絶対に出来ないという事はさせないのだ。そして常にソフィアローゼの体調には気を使っている事も、ソフィアローゼは恵に言われて以来気が付くようになっていた。
今も話せば憎まれ口の応酬になるが、それはもう半ば意地に近いものである。悠に感謝の気持ちはあっても、それを表に出す事はソフィアローゼの中では何かに負けた気持ちになるのだった。
(そう言えば私、お薬のお金もご飯のお金も払ってない……どうしよう、何かお手伝いすればお金って稼げるのかな? 金貨10枚くらいあれば流石に足りるよね?)
ソフィアローゼは外に出れなかったせいで世間知らずであり、相場という物を理解していなかった。ロッテローゼがどれだけの金銭を用いてソフィアローゼを治療していたのかを端的に表すならば、屋敷に殆ど使用人を置く事が出来ないほどなのである。ロッテローゼはその事をソフィアローゼに伝える事は無かったし、ソフィアローゼもそれを鵜呑みにして漠然とお金が掛かるとしか考えていなかったのだ。
であるので、ソフィアローゼの中で大金とは金貨を指す言葉だ。それが10枚もあれば十分に足りると考えたのだ。
……ソフィアローゼにそれを教え、全ての思惑を台無しにする使者は塀を乗り越えてやってくるのだった。
腰を下ろして休憩し、始の育てた花を愛でるソフィアローゼの耳にどこかから足音が聞こえてきた。それは真っ直ぐにこの屋敷に近付いてくるようだ。
「アオイ! 俺だって分かるだろ!! 入れてくれ!!」
その声と共に葵の結界が解かれ、塀の縁に何者かの手が掛かった。一瞬驚いたソフィアローゼだったが、葵が進入を許可したという事は、少なくとも悪人ではないはずだと思い直し、じっと状況の推移を見守った。
「よっと」
引っ掛けた手の力だけでソフィアローゼの身長の倍はあろうかという塀を軽々と乗り越え、裏庭に着地した人物はすぐにソフィアローゼに気付いたようだ。
「おっと、先客か? ……ああ、見慣れない顔だと思ったら、おまえさんがロッテローゼの妹のソフィアローゼか?」
「そう、ですけど……あの、どちら様ですか?」
多少警戒しつつ問い返すソフィアローゼに、顎に髭を生やした男はニッと野性味のある笑顔で答えた。
「そう警戒しなさんなよ、クリスから聞いてるだろ? 俺はベロウ。ベロウ・ノワールだ。一応この領地の領主でノースハイアの侯爵なんぞをやらせて貰ってるモンだが、堅苦しいのは好きじゃなくてね、気楽にバローって呼んでくれ」
「バロー、さん?」
「おう。……しっかしまた随分と早く回復したモンだな。死にかけでここに運ばれてきたって聞いた時は随分心配したぜ? クリスは自分の方が死人みてぇなツラしてっしよ。ま、あの無愛想野郎が出来もしねぇ事を請け負うとは思わねぇが」
クリストファーの名前が出た事でソフィアローゼも警戒を解く気になった。それに、無愛想野郎とは間違いなく悠の事だろう。屋敷で悠をそんな風に呼ぶ人間は居なかったので、ソフィアローゼはバローに親近感を覚えたのだった。
正直に言えばノースハイアの貴族に何も蟠りが無いとは言えないが、本で読んだ話では昔はアライアットこそが侵略者だったのであり、更には他国の人間であるにも関わらずアライアットの者達を保護してくれているバローに対してぞんざいな対応をするのはソフィアローゼにはいかにも偏狭な事に思えた。しかも、その保護されている者達の中にはダーリングベル家の兵も居るのだ。姉が居ない今、たとえ当主ではなくてもソフィアローゼは彼らの今の生活を守らなくてはならなかった。
「……あの、バロー様……」
そう切り出したソフィアローゼにバローは渋面で割り込んだ。
「おいおいおい、何で様付けになっちまうんだよ。……ははぁ、何か子供の癖にメンドクセェ事考えてんな? ユウも言ってたと思うが、そんな遠慮いらねぇよ。俺達はそうしたいと思ったからそうしただけだ。……むしろこっちこそロッテローゼの事を助けられなくて悪かった。この通りだ」
ざっくばらんな人物かと思っていたバローが丁寧にソフィアローゼに頭を下げて来た事でソフィアローゼの中の僅かな蟠りはどこかに飛んでいってしまった。
「あ、頭を上げて下さい! ……悪いのは姉を騙していたあのガルファです。むしろこちらこそバロー様……、いえ、バローさんにはご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした!」
「止してくれ。これ以上は謝り合戦になっちまうから、おあいこって事にしようや。隣、いいか?」
「あ、はい……」
そう言ってバローはソフィアローゼの横に腰掛けた。既に姉の真の仇を知るソフィアローゼはバローに噛みつく事は無く、偉い貴族のはずなのに随分と気さくな人なんだなとソフィアローゼが思っていると、再びバローが口を開く。
「ふぅ……走ってきたら俺も喉が渇いたな。悪いけどその水筒の水を一杯貰えねぇか?」
「ええ、どうぞ。ケイさん特製の飲み物ですよ」
「ケイの? ……ああ、なるほどね」
すぐに中身に感付いたバローはソフィアローゼに注いで貰った水を一気に呷った。
「やっぱケイが作っただけあって美味いな。それに、ドラゴンの血は体力の回復にいいもんだしよ」
「ドラゴンの……血?」
バローの言葉にソフィアローゼが首を傾げながら問い返す。
「おう、その飲み物にはドラゴンの血が薄められて入ってるんだよ。他じゃ中々手に入らない高級品だぜ? 大方、ユウの奴がケイに言ってソフィアローゼ用に用意したんだろ。『万能薬』にしろ『治癒薬』にしろな。ま、そのお陰で助かったんだから、使われた甲斐があるってモンだ」
その言葉にソフィアローゼは内心で激しく動揺した。貴族のバローが高級品というくらいなら、自分の見積もりは甘かったのかもしれないと思ったのだ。そして、それを悠が用意させたという事も同じくらいの動揺を生んでいた。あれはてっきり恵の厚意かとソフィアローゼは考えていたからである。
そんな内面を必死に隠し、ソフィアローゼはなんでもない様な口調を装ってバローにカマを掛けてみた。
「そ、そうですね、とても感謝しています。……あの、ちなみにノースハイアではそれらはどのくらいのお値段でしたでしょうか? アライアットでの値段なら知っているのですが……」
「ん? そうだなぁ……確か『万能薬』は金貨150枚くらいか? 『治癒薬』は何本使ったか知らねぇけど、『高位治癒薬』が金貨50枚くらいだろ。ドラゴンの血の飲み物はケイ特製だから値段はつけられねぇだろうな。流石にアライアットの貴族でもそうそうドラゴンの食材なんて見た事ねぇだろ?」
「は、はい、流石に……」
何とかそう反応するだけでソフィアローゼには精一杯であった。金貨10枚なんてとんでもない。おそらく自分の治療には数百枚単位での金貨が使われたと知ったソフィアローゼはバローが居なければその場でのたうち回りたい気持ちで一杯だった。家も何もかも失ったソフィアローゼに返却の目途はまるでないのだから。
金銭の嵩が恩の嵩と等しい訳ではないが、それが莫大な額であるという事だけはソフィアローゼにも理解が出来た。この時初めてソフィアローゼは悠が自分を救う為に真実骨惜しみも物惜しみもせず全力を尽くしてくれていた事を理解したのだった。
しかし、それでもあの冷たい態度は解せないものだ。もしかしたらロッテローゼとの約束で大金を使わされた腹いせで冷たくされているのだろうかという嫌な方向に思考が進み始めたソフィアローゼに待ったを掛けたのはまたしてもバローだった。
「ま、健康は金には代えられねぇさ。それに、こうやって外で運動してるのもどうせユウの指示なんだろ? 「四の五の言わずにさっさとやれ」とか何とか言ってな。へへへ、今のちょっと似てただろ?」
「え、ええ……でも、どうして分かるんですか?」
まさに同じ事を言われたソフィアローゼが聞き返すと、バローは体感時間でもう1年前になる出来事を思い出して言った。
「今ここに居るガキ共もそうだったからだよ。無茶苦茶としか思えない鍛練をしようとするからユウに恨まれるから止めとけって止めたんだが、「だからどうした」って言って聞かなくてな。自分で言い出した事も出来ないんなら外には出さないし、それで恨まれても構わないってよ。……馬鹿な奴だよ、いつも一番恨まれる立場に立ちやがる。素直に心配だから何とか頑張ってくれくらい言ってやればいいのになぁ。まぁ、そんなユウの気持ちが分かってたからああしてガキ共は全員ユウに懐いてるんだろうけど。それに、ソフィアローゼの様子からしてユウも大分手加減を覚えたみてぇだし。吐いて意識を失うまで走らされたりはしてねぇんだろ?」
「……はい、してません……」
「ソーナなんかは最初の頃は殆ど歩くぐらいしか出来なかったのに吐くまで走ってブッ倒れて、起きたらまた走って吐いてブッ倒れてを繰り返してたからなぁ……普通の奴なら耐えられねぇよ。止めようとしたミリーなんて逆にソーナに邪魔するなって怒られたって言ってたしよ。ようやく手加減ってモンを覚えてくれて良かったな」
蒼凪の名が出てソフィアローゼは蒼凪の事を思い浮かべた。他の皆とは違い、あまりソフィアローゼの近くに寄って来ないし言葉も交わさない人という印象しかソフィアローゼには無いが、どうやら悠に心酔しているらしく、悠に反感を持つソフィアローゼの事があまり好きではないのだと思っていた。いつも澄ました様子の蒼凪からはそんな醜態は想像出来ないし、それを課したはずの悠に心酔しているのもソフィアローゼには理解出来なかったが……。
「嫌われても誰かが言わなきゃならない事ってのもあるんだよ。だから、その、あんまりアイツの事を嫌わないでやってくれよな。ソフィアローゼにキツイ事を言ってるとしても、絶対にソフィアローゼが嫌いだからとかそんな小さい事でイジメる様な奴じゃねぇから……どうした?」
バローに明かされた数々の事実にソフィアローゼの顔色は蒼白になっていた。
自分はなんと愚かだったのだろうか。沢山苦労させ、沢山お金を使わせ、体を治して貰ったのに文句を言い、あまつさえ冷たいのは無駄金を使わされたからなどという下衆な理由を想像してしまっていた。厳しいと思っていたリハビリは他の者がこなして来た物に比べれば温過ぎるレベルでしかなく、ただの泣き言でしか無かった。蒼凪が嫌うのも当然である。努力もせずに口だけ達者な子供など好意に値するはずがない。
青い顔のままソフィアローゼは立ち上がった。
「ご、ごめんなさいバローさん! 私、行かなきゃ……」
「おう、邪魔して悪かったな。早く元気になれよ!」
そう言って執務から逃げ出して来たバローはうたた寝に移行したのだった。
――安眠は拘束によって破られた。
「うげっ!?」
「捕獲完了。……あの、もういい?」
「いいわよ始、ありがとうね」
「な、何だよ一体!?」
うつらうつらとしていたバローの体を植物の根がガッチリと縛り上げていた。これは始が樹里亜達に頼まれて行使した魔法の効果である。
「何だよ、ねぇ……バロー先生、ソフィアローゼさんに何を吹き込んだんですか?」
一切の嘘を許さぬ瞳で問い詰めて来る樹里亜にバローの喉がゴクリと鳴る。
「ご、誤解だ!! 俺は別に変な事は言ってねぇぞ!!!」
「じゃあ何の話を?」
嘘を言ってもすぐバレると悟り、バローは全て正直に話す事に決めて口を割った。
「世間話だよ!! 今飲んでた物の効果とか、お前らが最初どんな事してたとか、ユウがキツイ事言ってるだろうけどワザとだろうから嫌わないでやってくれとか、そんな事だけだぞ!?」
それを聞いた樹里亜は思わず天を仰ぎ、恵は目を手で覆って俯いた。ハリハリが両手を上に向けて大仰に肩を竦め、蒼凪が手にした棍をしっかりと握り直してバローの正面に仁王立ちになる。
「……待て、何で正直に言ったのにそんな反応なんだよ!?」
「残念だけど、あなたは正直に生きても罪を重ねる哀しい宿命がある。でも大丈夫、私がこれで祓ってあげる。だから安心して身を委ねるといい」
「や、止めろ!! 冤罪だ! 無実だ!! 陰謀だーーーーーッ!!!」
「えい」
「ゴペッ!?」
振り下ろされた棍の衝撃によってバローは意識を刈り取られ、それきり静かになった。
「少し酷な気もしますが、後でユウ殿に折檻されるよりマシでしょう」
「迂闊だったわ、こんな所に漏洩口が開いてるとは……」
「大丈夫かな、ソフィアローゼさん……」
「後はユウ殿にお任せするしかありませんね。まぁ、ユウ殿でしたら上手くやってくれますよ。我々に事前に相談しなかったユウ殿にも瑕疵はあるのですから、このバロー殿を見れば納得してくれるのではないでしょうかね」
そんな風に締め括るハリハリの横で蒼凪はボソッと呟いた。
「一本、取ったどー……」
紛う事無く反則である。
バレました。良かれと思ってやった事なんですけど報われませんねぇ……
最後の蒼凪が割と酷いです。




