7-85 新しい自分5
10分も掛かってようやく体を起こしたソフィアローゼは汗だくになりながらもどうだと言わんばかりに悠を見やったが、悠は鼻を鳴らすだけだ。
「何だその得意そうな目は。出来て当然の事が出来たからと誉めて欲しいのか?」
「イチイチ癇に障る事しか言えないの!?」
「そら、もう一度だ」
「あっ!?」
悠が肩をつつくと、それだけでソフィアローゼの上体は抵抗出来ずにベッドに倒れてしまった。
「やれやれ、先が思いやられる事だ。今日はそれを20回出来るまで終わらんのだから早く起きろ。後19回」
今の苦労を後19回と言われたソフィアローゼの目が絶望に歪んだ。単純に計算して、一回やるのに10分掛かったのだから、19回なら190分、3時間以上掛かる計算である。今のソフィアローゼにとって、それは途方もなく大変な作業だ。
弱々しい目で悠を見たソフィアローゼだったが、そんな様子を見ても悠には全く通じなかった。
「五体満足の癖にもうへばったのか? これだから貴族は甘ったれだと言うのだ。ロッテローゼは死にかけても己を貫き通したというのに、その妹はこの程度で音を上げるか?」
鋭く心を抉る悠の言葉にソフィアローゼの目に涙が浮かび、再び四肢に力を与えた。
「んんっ! くっ!!」
それからはソフィアローゼは口も聞かずにその作業を黙々と繰り返した。必死に体を起こしては倒れ、起こしては倒れと繰り返すが、徐々にソフィアローゼは自分が手酷く計算違いをしている事に気が付いたのだった。
(お、お腹がっ、くっ、苦し、い!?)
筋肉は使えば疲労するのが当然である。ソフィアローゼの計算にはその疲労度が含まれていなかったのだ。
一度数をこなす毎にソフィアローゼのペースは目に見えて落ちていった。朝の9時から始めたリハビリは、昼を回る時間になってもようやく15回を数えた所であった。
そこに朝の講義を終えた恵が姿を現す。
「あの、お昼の用意が出来ましたけど……」
その言葉にソフィアローゼは心からの安堵を覚えた。これで少しは休む事が出来るのだから。
だが、悠はソフィアローゼが考えるほど甘くはなかった。
「俺とソフィアローゼの分はソフィアローゼが終わるまで必要無い。他の者は構わずに食ってくれ」
「え……でも……」
汗みずくになっているソフィアローゼを見た恵が目で訴えたが、悠が頼んだのは別の事であった。
「それと、悪いが水だけ持ってきてくれ。脱水症状になっても困るからな」
「……分かりました……」
たとえどう思ってもここで自分の感情を露にするほど恵は直情的では無かったが、それでも恵はソフィアローゼに同情する気持ちが拭えなかった。
16回目に苦戦するソフィアローゼの元に恵が戻って来たのはその数分後の事だ。
「悠さん、水をお持ちしました」
「済まないな」
「いえ……でも悠さん、少しソフィアローゼさんを休ませてあげて下さい。せめて水を飲む間だけでいいですから」
「ふむ……」
従順な恵が悠に翻意を促すのは珍しい事だ。悠はしばし恵の言葉を頭で咀嚼し、やがて頷き返した。
「良かろう、それでは30分休憩を取る。それまでに水分を取って休んでおけよ」
それだけ伝えると、悠はさっさと部屋を後にして出て行ってしまった。その瞬間、ソフィアローゼが力尽きてベッドに身を倒した。
「大丈夫、ソフィアローゼさん? お水を持って来たから飲んで休みましょう?」
「…………ケイ、さん…………ひっ……ヒック……うえぇ……」
微笑み掛ける恵を見たソフィアローゼが安心の為か体を投げ出したまま泣き始めてしまった。恵はハンカチを取り出すと、汗と一緒にソフィアローゼの涙を拭っていく。
「……辛いと思うけど頑張って。悠さんは意味の無い事はさせない人だから……」
恵は悠に言われなくてもこんな状態のソフィアローゼを冷たく突き放す事は出来なかった。女同士の誓いなど関係無く悠の言いつけを破るつもりは無いが、そうでなくても恵にはソフィアローゼに厳しく接する事は出来そうに無い。逆説的に、恵は悠の精神的な強さに慄きを覚えていた。
「……ぐす……ありがとう、ケイさん……それと、その……」
しばらくそうしてソフィアローゼをあやしていた恵にソフィアローゼは礼を言い、更にもじもじと何かを言いたそうに上目遣いに恵を見た。それだけでこの3日、ソフィアローゼの日常の世話をして来た恵には何が言いたいのか分かったようだ。
「ああ、そう言えばそろそろそんな時間だものね。いいわ、行きましょう」
「はい……」
そう言うと恵はソフィアローゼの体を横抱きに抱え上げた。恵とてこの家で鍛えている身であり、女の子一人を抱えるのに難儀するほど弱々しくは無いのだ。
「ケイさん、力持ちですね」
「う~ん……女の子としては嬉しいような、悲しいような……すぐにソフィアローゼさんもこのくらいは出来る様になるからね」
「……嬉しいような、悲しいような、ですね」
「でしょう? ふふふ」
ようやく少し笑顔を見せたソフィアローゼに恵も笑顔を返す。そして向かう先はお手洗いである。これは流石に悠にやって貰うにはあまりに恥ずかし過ぎたのだ。……勿論ソフィアローゼが、である。
恵に抱えられて小用を済ませたソフィアローゼは部屋について水を飲むとようやく人心地がついたようだった。
「はぁ……」
「どうかな? また頑張れそう?」
「……やるしかないし……出来ないと、あの人がまた私の事を馬鹿にするから……」
飲み干したコップを見つめながら、ソフィアローゼはふと疑問に思った事を口に出した。
「なんでケイさんはあの人と一緒に居るの? ケイさんみたいないい人ならもっといい場所に居れるのに……」
思わず反論してしまいそうになる口をグッと抑え、恵は逆にソフィアローゼに問い掛けた。
「ソフィアローゼさんは悠さんの事が嫌い?」
「……だって、あの人はいつも酷い事を言うもの……全然優しくないし。……助けて貰った事は感謝してます。それでも……」
「……それはちょっと違うと思うな」
「え?」
ソフィアローゼの愚痴に、恵は頭を捻りながら答えた。
「優しいって何かな? ソフィアローゼさんの言う事を何でも聞いてあげて、辛い事なんて一切させないで、何もしなくても楽しく生きていける事なのかな? それがソフィアローゼさんにとって優しいっていう事なのかな?」
「……」
口調は優しいが、恵の問いはソフィアローゼに自分自身を省みさせるものであった。
「それは優しさとは違うと私は思うの。それを許すのは優しさじゃなくて甘さだよ。私達だってダラダラと怠けていたら悠さんに怒られるし、厳しい事も言われるよ? でも悠さんは私達に理不尽な事をさせた事は無いわ。悠さんが厳しいのは、ソフィアローゼさんがちゃんと一人でも生きていけるようにしてあげたいから。それをロッテローゼさんにお願いされたから。そして、ソフィアローゼさんが自分で生きる事を選んだからなんだよ。だから、厳しいとか、口調が悪いっていう事だけで悠さんを判断しないで欲しいと思うの。本当に悠さんがやり過ぎだと思うなら私達が止めるから。ね?」
恵の誠意を込めた言葉にソフィアローゼはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……ケイさんがそう言うなら、もう少し頑張ってみる……」
「うん、頑張ってみて。はい、元気が出る水だからもう一杯どうぞ」
恵はソフィアローゼの手からコップを取り上げると、そこにもう一杯水を注いだ。
「ありがとうございます。……でも不思議……ケイさんのお水を飲むと本当に元気が出るみたい……」
「ふふ、それは特別なお水だからね」
「ふぅん?」
恵の言っている意味がよく分からなかったソフィアローゼだったが、確かにその水は喉が渇いている事を差し引いても大変美味しく、ほんのりとした甘みが体に活力を与えてくれるような気がした。
ソフィアローゼは知らない事であるが、勿論その水は悠の指示で与えられている、普段より希釈したベリッサ謹製で恵改良のドラゴンの血のジュース、通称『龍水』であった。
かなり厳しく見えますが、以前書いた修練の日々の初日はもっと阿鼻叫喚だったと思います。
あの時頑張った蒼凪からすれば、今のソフィアローゼくらいはやって当然と思うでしょうね。
家の中ではやはり恵が最強っぽいです。




