7α-52 多忙な日々25
教室へ戻りオランジェからの話を聞いた後は自由時間・・・という訳では無い。家から通っている人間はともかく、寮暮らししている生徒は午後六時から夕食である。タダで衣食住が振舞われるなどこの世界の通念からすれば有り得ない事であり、特に困窮していない家庭であっても子供を寮暮らしさせている者が殆どであった。子供一人分の負担が減るだけでも貧しい者達にとっては非常に大きいものだ。
「あー腹減った。とっとと帰ってメシだメシ」
「アルト、お前は通いか? それとも寮に入るのかよ?」
「どうだろう? 朝は急いでたから、そこまで詳しく聞いてないんだよね。とりあえず一回家に帰って父様に――」
聞いて来る、と言おうとしたアルトだったが、教室から出て行ったはずのオランジェが戻って来てアルトに告げた。
「アルト君! 理事長室で理事長がお待ちだよ! 今すぐ来てくれないか?」
「はい、分かりました。ごめん、先に帰ってていいよ」
「まだメシまで少し時間があるから気にすんな」
「行って来な、俺とジェイは外で待ってるぜ」
案外と律儀な2人に笑い掛けて、アルトはオランジェについて行った。
「初日からご苦労様だったね、アルト君。どうだい、学校の印象は?」
「思っていたより楽しかったです。オランジェ先生の歴史の授業も新鮮でしたし・・・」
「それは嬉しいな。私はこれしか能の無い人間なのでね、唯一の得意分野が褒められるのはとても心が躍るよ。今まではとても声高に語れる事でもなかったし、私が受け持つ生徒が一人でも多く歴史の意義を学んでくれるならそれは幸せな事だよ。・・・でもアルト君、良い事ばかりでは無かっただろう?」
オランジェは少し顔を引き締めてアルトに問い掛けた。その意味する所はアルトも巻き込まれた諸々のいざこざについてであろう事は言わずとも伝わる話である。
「・・・正直、貴族がこの学校に通う事が正しいのかどうか僕には分かりません。父様・・・フェルゼニアス理事長の言葉から察するに、今日起こった諍いの大部分は貴族絡みだった様ですし、まかり間違えば死人が出てもおかしくありませんでした。未だに自分達の特権を無制限に信じている貴族の多い事といったら・・・。あっ、す、済みません、先生も貴族の出身でしたね。口が過ぎました!」
謝ろうとするアルトをオランジェは押し留めた。
「いいんだよアルト君。私も貴族とは名ばかりの放蕩者だからね。・・・歴史を学んでいるとよく目にする事なんだが、強大な権力を得る前は素晴らしい功績や人品で賞賛されていた人物が権力を握った途端おかしくなるのはままあるんだ。私見だけど、権力は多数の人間にとって途方も無く甘美で、同時に体ではなく精神を蝕む猛毒なのだろう。何をしても許されるという状況は人を堕落させる近道であり、腐敗の温床だ。一度腐ってしまった人間が元に戻れるのかは私には分からないが、少なくとも私は見た事が無い。まだ若い内であれば何とかなるはずだと自分に言い聞かせているのが現状だね」
「僕はいくつになってもきっと立ち直れると思っています。本人にその気があるならば、ですが・・・」
アルトが思い浮かべているのは剣の師匠でもあるバローの事であった。ある時バローは悠に出会った時の事を話してくれたが、それはバローを敬愛するアルトですら一瞬許し難い怒りを覚える内容だったのだ。幾つも問い質したい事が頭に浮かんだアルトだったが、同時にバローが高みを目指して日々努力している事もまた理解していた。バローは事実を述べるだけで一切の言い訳は口にせず、ただアルトの言葉を待っていた。
迷った末にアルトはバローに問う事を止めた。バローへの恩は両手の指では数え切れないほどであるし、今のバローと昔のバローは違うと感じたからだ。罪を犯してしまった人間はいくら償っても許されないのだろうか? 本気で後悔し、贖罪を重ねる事が無意味だとはアルトには思えなかったのだ。そして、この事でバローを詰る権利があるのは当事者である他の子供達であってアルトではない。そして今を持って共に生活を続けているという事は彼らの間で既に決着している事なのだ。ならばこの件に関してアルトに言うべき言葉は見当たらなかった。
泣きそうな顔で立ち尽くすアルトの頭をバローは普段の乱雑な仕草ではなく、優しく撫でた。その手は大きく、そして温かかったのだ。
「・・・そうだね、結局は本人次第だ。いくら環境を整えても彼らが旧来の貴族としての性質を捨てられないのなら、彼らに将来は無い。アルト君、我々も肝に銘じよう。いつか権力の毒に呑まれてしまわぬように」
「はい、気を付けます」
アルトのしっかりと前を向いた返事にオランジェは目を細めた。
(本当にいい子だ・・・。不良貴族の私なんかがしたり顔で説教する必要なんて無かったか。でもねアルト君、今私が危惧する権力の毒に最も染まり易い場所に居るのは、君の父上なんだ。もし閣下が権力を濫用する様な事があれば、止められるのは君しか居ないんだよ。どうかその心根を曇らせる事無く立派に成長しておくれ。私達教師はそれに応えられるよう尽力するから)
オランジェは言葉にはせず、小さく笑って頷いたのだった。
「そうか・・・ご苦労だったね、アルト。多少強引でもお前を学校に引き込めてよかったよ。特にアルトの関わった2件は非常に危険度の高い物だったけど、お陰で怪我人が多少出た程度で済ませられたし」
「その後彼らはどうしていますか?」
職員室の奥にある理事長室で、ローランとアルトは今日の出来事について情報を交換した。アルトは自分の身の回りの事を、そしてローランはアルトが知覚出来なかった学校全体と反省室送りになった生徒についてだ。
「今日だけで小さな諍いは数知れずだけど、半分ほどは痛い目を見て懲りた様だね。・・・でも残り半分については自分がここまで怒られる事に納得がいっていないみたいだ。まぁ、これまでの貴族であれば何のお咎めも無く許されたはずだからね。私は許さないが」
「あれだけ言われてもですか・・・」
「あれだけ言われても、だよ。彼らには忍耐力や想像力が欠如している。自分の行動に対して取るべき責任感も。恐らくこのままでは彼らはまた問題を起こすだろう。今回は一週間程度の謹慎処分で済ますけれど、次は本当にここから出て行って貰う。己を省みる事が出来ない者に民を任せる訳にはいかないからね」
ここでローランが温情を掛けても彼らは図に乗るばかりで反省などしないであろう。ローランとしては断固とした対応で自分が本気なのだと伝えるしかなかった。
「一体何の為に学校に来てるんでしょうか・・・」
「それは私が彼らに聞きたいくらいだよ。今この国で大きな権力を握っている私が始めた事だから仕方なく通っているというのならさっさと辞めた方がいい。本人にとっても他人にとってもそれは不幸な事だ。学校は様々な事柄を学ぶ場所であって、己を誇る為の場所じゃないんだから」
「父様は将来的には庶民の方でも優秀な人は重職に就けるおつもりなんですか?」
「うん、そのつもりだ。既に官吏の中には下っ端とはいえ庶民は入り込んでいるし、私の副官であるヤールセン君だって半分は庶民の様なものだよ。私は有用な人物であるならば出自は問わないし、その人物が力を発揮するのに相応しい場所を用意しておきたいと考えている。ゆくゆくはこの国の貴族制度自体を改める必要があるね。100年後には貴族とは名ばかりで庶民によって国政が担われる様になるだろう。もしかしたらその頃には貴族制度は必要なくなっているかもしれない。でもそれが世の流れなら受け入れるべきだ。むしろ喜びを持ってね」
ローランはこの教育の行く末を既に覚悟を持って受け入れていた。庶民が学と力を得るという事は能力的に貴族と対等になる事を意味している。そして中には優秀な者も居るだろうし、数の対比からして徐々に貴族はその居場所を失っていくのは必然である。そもそもローランはあまり貴族という生き方が好きではないのだ。何の能力も無く親から受け継いだ地位だけを誇る輩はローランが最も軽蔑する人種であり、自分の父親への確執から勉学に励んで今の職務をこなし得る能力を身に着けたローランにとって貴族の地位などあっても無くても構わないのだった。
「そこまでお考えでしたら、僕はもう何も言いません」
「難しい話はこのくらいにしておこうか。アルト、短い間だけど明日からはどうする? 家から通うかい? それとも寮に?」
少し柔和な雰囲気になってローランはアルトに尋ねた。
「短い間ですけど、寮生活をしようかと思います。幸い友人も出来ましたし、共同生活を送る方がより内部から生徒の内情が窺えると思いますので」
「そうかい、アルトが自分でそう決めたんならいいよ。着替えなんかは寮で受け取れるから体一つで行って来なさい。もうじき夕食の時間だしね」
「分かりました、では失礼します」
そうしてアルトは理事長室を辞したのだった。
付け足ししました。豪雪で帰って来るのが夜中を過ぎてしまい遅くなりましたが。




