7α-20 Ⅸ(ナインス)試験と奈落の申し子20
重い話が続いていましたので、前半は少し甘酸っぱい話を。
他の場所で何が起こっていようと分からないのは悠も同じだった。それに正直それどころではない。
(また一杯怪我しちゃったわね。その右手、部分的に骨までいってるわよ。それに落石からヒストリアを守った時に負った打撲と裂傷も。早く戻って治さなきゃ)
悠は落下するヒストリアに追いつく為に少なからず犠牲を払っていた。30メートル足らずのロープで100キロにもなる加速のついた2人分の重量を右手一本で支えるには悠であっても相当強く握り締めなければならず、かと言って本気を出せば急制動によってヒストリアに負担が掛かり過ぎる。結果として悠の手の平は削り取られ、ロープを赤く染めていた。
ヒストリアも遅まきながらそれに気付いたらしい。
「ゆー、酷い怪我だぞ!」
「大丈夫だ、この程度の怪我は慣れている。ヒストリアこそ怪我は無いか?」
「ひーは何ともない。だけどその怪我では・・・」
ロープを登れないのではないかと考えたヒストリアだったが、不意に悠がヒストリアに顔を寄せた。
「え!?」
突然悠の顔が迫って来るのを見たヒストリアは体を強ばらせ、ギュッと目を閉じる。書物から得た知識では確かそれが作法だったはずだ。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・?
予測していた感触が得られなくてチラリと片目を開けたヒストリアの前に悠の顔は無かった。
「どうしたヒストリア? 早く俺の首に手を回してくれ。左手が使えればすぐに登れるぞ?」
自分が重大な勘違いをしていたと察したヒストリアの顔がみるみる赤く染まったが、ヒストリアはそれを誤魔化す為に強く悠にしがみついた。
「い、今しようと思っていたのだ!」
「そうだ、それでいい。放すなよ」
血で滑るロープを悠は手の力だけで登って行く。抉れた右手から新たな血が溢れるが、まだ人目がある中で大っぴらに『再生』を使うのも憚られたので、『簡易治癒』で応急処置を施す。
「・・・」
ヒストリアの心臓は破れそうなほど高鳴っていた。そもそも人と触れ合う事を諦めていたヒストリアがこうして誰かと密着する事など実に22年ぶりの事である。正直に言えば大変恥ずかしい。
しかしその羞恥の感情とは全く異なる所でヒストリアは離れ難く感じていた。身体年齢が10歳前後であろうとも、精神的には27歳のヒストリアである。長らく錆び付いていた乙女回路が軋みながらも動き出したのだ。
内面に存在する大人のヒストリアは囁く。このドサクサに紛れて礼とでも称してサラッと口に接吻の一つもくれてやれと。そして「これで貸し借りは無しね」と悪戯っぽくクールに言い放つのだ。これこそ大人の対応であると。
しかし子供のヒストリアは叫ぶ。そんな事は出来はしないと。今でさえガチガチに硬直しているのだ。これ以上何かすれば自分は恥ずかしくて死んでしまう。出来もしない妄想はやめろと。
意気地なし! 見栄っ張り! 内面で取っ組み合いする大人と子供の自分にヒストリアは途方に暮れた。書物は知識は与えてくれるが、経験は自分で積むしかないという事だろう。
そんなヒストリアの内面も知らず、悠は気にせず黙々とロープを登っている。こんなに色々な事があったのに、自分だけが右往左往している事が気に食わなくて、ヒストリアの大人の心に火を付けた。
(く、口にしようとするから緊張するのだ! 幸い揺れているし、事故を装ってほっぺに触れるか触れないかくらいなら・・・)
恥ずかしいと主張する子供の心も汲み、折衷案としてそうする事にした。
(む、向こう側に揺れた時を狙って・・・・・・いち、にの、さん!!!)
ヒストリアが揺れに合わせてグッと悠の顔に首を伸ばした。恥ずかしいのでしっかりと目は閉じられている為、加減は無い。
その時、ヒストリアを常に気にかけていた悠がふとヒストリアの動く気配を感じてそちらを向いた。
カチン!
「あたっ!?」
「ん?」
・・・その結果、ヒストリアと悠は正面から衝突する。悠の歯とヒストリアの歯が当たり、痛みでヒストリアが仰け反った。
「大丈夫か、ヒストリア? 揺らすと危ないぞ?」
「ひゃいひょうふ!!!」
バネ仕掛けの様にしてヒストリアは悠の首筋に戻り、くぐもった答えを返した。本当は大丈夫ではない。唇は切れて血の味が滲んでいるし、ヒリヒリしてとても痛い。
しかし自分は大丈夫だ、歯が当たる前の刹那、唇に感じた感触が夢ではないとこの痛みが教えてくれるから。だから、大丈夫なのだ。
最早ゆでだこの様に顔を朱に染めながらも、ヒストリアは悠に抱き付く手に一層力を込めたのだった。
そのまま悠達は手を繋いで外へと出た。言葉にすれば一言であるが、高速で駆け抜けて来た道のりを引き返すのに30分ほど時間を要していた。
手を繋いでいるのは足場に上がった時にヒストリアが悠の手を取ったからである。人と触れ合える事を実感したいのだろうと思った悠はヒストリアの好きにさせたが、当のヒストリアは道中では俯いたまま口を開かず、沈黙し続けたのだった。
一階層の迷宮から悠達を出迎えたのは統括代理のオルネッタだ。
「ご苦労様、ユウ。そしてヒストリア。もう結果は言うまでも無いけど伝えておくわ。・・・昇格よ」
「そうか」
「・・・もうちょっと喜んでくれると私も嬉しいんだけど・・・」
不平を顔に出したオルネッタだったが、悠は別の事に注目していた。役員室周辺には武装した職員が集まり、誰かを連行していたからだ。
「何かあったか?」
「・・・ええ、色々と。そしてもう終わったの。試験を妨害しようとした者や非業の円環を作っていた者達も判明したし、首謀者も・・・」
「・・・おるねー、てぃーは・・・?」
ヒストリアの問いにオルネッタは黙って首を振った。それだけでヒストリアは全てを察し、また俯いた。
「・・・てぃーはいつもニコニコしてひーの事を見ていた。ひーが悩みを打ち明けた時も真剣に話を聞いてくれた。今回で最後にしたいと言ったひーに非業の円環をくれたのもてぃーだ。自分では助けてあげられないからって。せめて世話になった礼を言いたかった・・・」
「その言葉を言って貰えただけで、ティーワは満足してるわよ。やり方には賛成出来ないけどね。これは彼からの伝言。・・・幸せになってって・・・」
「・・・」
ヒストリアはオルネッタから悠へと体の向きを変え、その腹に顔を埋めた。味方の少ないヒストリアにとってティーワは数少ない慰めだったのだ。それは他の全てを切り捨てた結果であったとしても動かしがたい事実である。時折漏れる不穏な言動から危うさを感じ取ってはいたが、ヒストリアにはそれを冷たくあしらう以外の選択肢は取り得なかった。
「・・・いつかのてぃーは言っていた。「逃げたくは無いかい?」って。ひーは「別に」って答えた。そうしなければてぃーはひーを連れて本気で逃げ出すつもりだと思ったから。非業の円環をくれた時も同じ目をしていた。・・・ひーではてぃーは止められなかった・・・」
「止められなかった罪は私にもあるわ。私は協力的で人望も厚く、何より悪意の無いティーワを疑いもしなかった。『慧眼』が聞いて呆れる・・・。私はもっと私自身の生の目で人を見なければならなかったのに・・・」
互いの後悔を吐露する2人に悠は言った。
「事情は知らんが、後悔は今すべき事ではあるまい。そんな物は夜に一人にでもなった後に存分にすればいい。オルネッタ、ヒストリアはまだ広い世界を知らん。俺が預かってもいいか?」
「そうね・・・ようやくヒストリアを上回る人間に巡り合えた。これでヒストリアはあなたが後ろ盾となれば外の世界に出る事が出来る。でも気を付けて、2人とも。ヒストリアが外で何か犯罪を起こせば、それはユウにも責任が問われるという事を」
「全て承知している。では連れて行っても?」
「待って、今日はとてもじゃないけどそこまで手が回らないの。書類の準備が出来るまでこの街に滞在してて。ヒストリアの禁忌指定限定解除にⅨ(ナインス)の認定書の作成、ティーワの残した記録の調査、ホーロとザマランの後釜に誰を据えるか、とにかく課題が山積みなのよ」
やならければならない事の多さにオルネッタが額を押さえた。特に役員に関しては急に半分になってしまったのだ。早く誰かを見つけないとギルドは早晩身動き出来ない様になってしまうだろう。
「あまりこの街に長居も出来ん。・・・そうだ、困った事があればミーノスのルーファウス様かフェルゼニアス宰相閣下のお力を借りるといい。ちょっと待っていろ」
悠は塔の隣の控室に走り、自分の『冒険鞄』から2人の連名で綴られた書類を取り出して戻って来た。
「この通り、俺はお2人とは懇意にさせて頂いている。何か伝言があれば言付かってもいいぞ」
「え!? ちょっと見せて!!! ・・・本物だわ・・・。ユウ、あなたこの書類の価値が分かってる? これは単なる身分証明じゃ無いわ、殆ど全権委任状よ!? こんなの、金貨10000枚出したって買えないのよ!? あなた一体何者なのよ!!!」
自身も冒険者ギルド本部を司る者としてオルネッタは唾を飛ばして力説したが、悠の共感は得られなかった。
「俺はⅨの冒険者ユウだ。・・・詳しい事が知りたいならコロッサスにでも聞いてくれ。今はこれ以上話している時間は無いだろう」
熱くなるオルネッタの両肩が後ろから叩かれた。
「オルネッタ殿、そろそろお戻りを。・・・お初にお目に掛かる、ユウ殿。私は外交統括官のロンフォスだ。是非貴殿とはいつか酒でも酌み交わしたいと思っている。考えておいてくれ」
「はぁい、ユウ。Ⅸ試験突破おめでとう。その時は私も混ぜて頂戴ね? ほら、行くわよ、統括代理が居ないと皆が動けないでしょ!」
「あ、ちょっと!? ・・・もう、仕方ないわね・・・。ユウ、近い内に連絡するからこの街に居てね!! 特にまだヒストリアを気軽に連れまわしちゃ駄目よ!!」
「分かっている、またな」
「おるねー、ろんほー、りれーず、長らく世話になった。ひーはゆーに付いて行く。またな・・・」
悠の隣で頭を下げるヒストリアにオルネッタは笑みを浮かべ、ロンフォスとリレイズは驚いた。頭を下げるヒストリアなど今まで一度も見た事がなかったからだ。
「・・・幸せになるのよ、ヒストリア。またね!」
下げた頭を上げる前にヒストリアは踵を返し、表情を隠して大きく背後に手を振ったのだった。




