5-84 修練の日々10
~~~~~~~~
優しく揺すられる感覚に恵の意識が徐々に覚醒を促されていく。
(ん~~~・・・だれぇ・・・おかあさん・・・?)
「・・・、・・・くれ、・・」
(まだ眠いよ・・・もうちょっとだけ寝かせてお母さん・・・)
恵は目を閉じたまま自分を揺すぶる手を掴み、自分の胸に引き寄せた。こうすると母は「しょうがないわねえ」と言って自分の頭を撫で、5分間の猶予をくれるのだ。恵はその僅かな心安らぐ時間が大好きだった。
やがていつもの様に母の手が自分の額に触れ、乱れた髪を指で梳いてくれた。その優しい指使いに恵の顔が緩んだが、一方で違和感も感じ取っていた。
母の手はこんなに大きかっただろうか? 指もゴツゴツとして堅くなっているし、一本一本が太い気がしたが、きっと日頃の家事や仕事で手が荒れているのだろうと恵は思い、もう少し家の手伝いを頑張ろうと寝ぼけた頭で考えた。
やがて指は額から顔の輪郭をなぞりながら頬に滑り下りてきた。加えて顔の上の光が翳り、「ああ、そろそろ本格的に起こされちゃうな」と思った恵はそれに先んじて目を開け、不意打ちで母に朝の挨拶を言った。
「おはよっ、お母さ――」
だが、最後まで言い切る事無く恵の口は凍り付いた。何故ならそこに居たのは母では無く・・・
「おはよう、恵」
「ゆ、悠・・・さん・・・!?」
恵の顔を覗き込んでいるのは母の咲では無く、悠であった。
咄嗟に声を上げそうになったが、悠の指が恵の唇の上に置かれ、吐き出されかけた言葉を止めた。
「静かに、子供達が起きてしまう」
そう言われて自分の状況を思い出した恵は必死に声を飲み込んだ。言葉を止めると自然と体も動かず、恵の胸に押し当てられた悠の手に恵の心臓の鼓動が伝わっていく。
悠が指を外しても恵の口から漏れるのは浅い呼吸だけで、2人はそのまま無言で見つめ合った。
近くで見る悠の目に自分の姿が映っている事に恵の胸は更に鼓動を速め、自然と目が悠の唇に吸い寄せられる。
恵の視線に気付いた悠が薄く笑って恵の顎に手をやり、そのまま2人の距離は限り無く0へと・・・
~~~~~~~~
「恵、起きろ、恵」
「・・・ほへ?」
いつまでも届かない唇の感触を今か今かと待ち構える恵の耳に聞き慣れた悠の声が届き、恵が目を開けると悠は特に恵に覆い被さるでもなく恵に声を掛け続けていた。夢と同じ所と言えば、恵が悠の手をしっかりと握り締めて自分の胸に押し付けている所だけだ。
「そろそろ起きてくれ。・・・それと、手を離してくれると嬉しいのだが・・・」
「・・・・・・は、ひ、ひ、ひ、ひゃい!!! すすすすみませんですた!!!」
瞬時に覚醒した恵が手を離して一瞬でベッドの上で土下座へと移行した。何故土下座なのかと尋ねても恵にだって分かりはしないのだが、恐らく謝りながら顔を隠せる姿勢を本能が選択したのだろう。
「謝らなくていい。疲れている所を済まんが、下拵えは出来ているから料理を始めてくれるか?」
「あ、りょ、料理ですね!! はい、やります!! すぐやります!!」
「先に行っているから身支度を整えてから来てくれ」
焦ってハイテンションで答える恵から離れ、悠は足音をさせずに部屋から出て行った。
「・・・・・・はぁ・・・ビックリした・・・わ、私ったら、何てはしたない事を・・・」
自分の胸に触れる悠の手の感触を思い出した恵の体が再び熱を帯び、恵は慌てて頭を振ったが、その時自分を見つめる一対の目と視線が合った。
「・・・オハヨウ、恵。・・・上手くやったね・・・フフ、フフフ・・・」
「ひぃっ!?」」
瞬き一つせずに恵を見つめていたのは蒼凪であった。口調は穏やかなのに声のトーンは平坦で、何より目が笑っていないのが恐ろしい。
「フフフ・・・自分の武器を存分に生かして篭絡しようとするなんて、恵は案外策士だったんだね・・・フフフ、ああおかしい、ウフフフフ・・・」
蒼凪は自分の貧しい胸部の余った布をギリギリと握り締めながら笑い続けているが、相変わらず感情が篭っていなかった。
「ち、違うの! こ、これは事故なのよ!? 私は寝ぼけてお母さんだと思って・・・」
「フーン・・・恵は毎朝お母さんにおっぱい揉んで貰ってたんだ・・・だから大きいのかな? 今日からは悠先生に揉んで貰うの? ねぇ、どうなの恵?」
「ち、違うよぉ・・・わ、私っ、お料理しなくちゃいけないから行くね!!」
握り締めた胸部の余り布がミチミチと嫌な音を立て、蒼凪の目が爛々と妖しい光を放ち始めるに当たり、恵は居たたまれなくなって飛び起き、替えの服を引っ付かんで部屋から逃げ出した。
「・・・はっ、やり過ぎちゃった・・・」
恵が居なくなって少し冷静になった蒼凪が握っていた手を放した時には既に蒼凪の襟元は伸びきり、ダラリと鳩尾の辺りまで肌が覗いてしまっていた。
「・・・ん~・・・、もう起きる時間で・・・ファッ!? ふげっ!?」」
その時、折悪しく話し声で僅かに覚醒したアルトが目を擦りながら蒼凪を直視してしまい、驚きでバランスを崩してベッドの縁に頭をぶつけ、そのままズルズルとベッドに崩れ落ちていった。
「・・・夢だと思ってくれるかな・・・そうしよう・・・」
蒼凪はそう決めて再びベッドで眠りについたのだった。
「う~、ハラ減った・・・」
「終わったばかりの時はご飯なんて食べられないと思ってたけど、一眠りしたら減っちゃったわね」
「だから皆を一眠りさせたんだと思うわよ、ユウ兄さんは」
「なんでだろ・・・頭にコブが・・・」
見れば広間に集まった者達は皆かなりの空腹を感じているらしく、テーブルに突っ伏している者や腹をさすったりして空腹を慰めていた。
「せなかの皮とおなかの皮がくっつきそう~・・・」
「・・・今日だけはわたしも同じ気持ちだわ・・・」
「ひ、昼をもっと食べときゃよかった・・・」
「おなかがギュルギュルなってる・・・」
「ごはんー、ごはんー!」
特に年少組は蓄えられているカロリーが少ないせいか、精神的に幼いせいかは定かでは無いが、空腹感が耐え難いようだ。・・・神楽は人一倍食べているはずなので後者だろうが。
「肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉・・・」
ひたすら肉を想う事で空腹を紛らわしている小雪は案外タフなのかもしれない。
皆の我慢が限度に達した時、遂に広間に福音が轟いた。
「みんなー、出来たわよー!!」
その声を聞いた者達はバッと椅子から立ち上がって厨房へ駆け出した。当然一番速かったのは神楽である。
「ごはん!!!」
「ふふ、ちゃんとあるから慌てないで。はい、神楽ちゃんの分よ」
「ふおぉ・・・おいしそ~!!」
夕食は待つ者達も納得の品々が並んでいた。肉料理だけでも2つも用意されているし、サラダも色鮮やかに目を楽しませ、スープからは芳醇な香りが漂ってくる。
「今日からのご飯は皆の体に必要な分をそれぞれ一つずつ作ってるから、ちゃんと残さず食べるのよ?」
「「「はーい!!」」」
元より残すつもりなど一切無かった子供達は恵の言葉に元気良く返した。恵の言った通り、一人一人分量が微妙に異なっており、ベリッサのメモを元にした恵渾身の一食である。
皆が配膳を受け取った後、席に付いて夕食が始まった。
「何だろ、このお肉・・・鳥でも豚でも牛でも無い・・・オーク(豚鬼)とも違うし、鹿でも猪でも熊でも無い・・・鰐・・・鯨・・・どれも違う・・・む~・・・」
「・・・肉ソムリエの小雪ちゃんにも分からないって事は、これは魔物の肉ですか、悠先生?」
「ああ、ドラゴンの肉だ」
「へぇ、これが・・・もっと野性味があるのかと思っていましたけど、変にクセが無くて美味しいですね。歯応えもいいですし」
ドラゴンには余分な脂肪が無いので肉が脂ぎっているという事も無く、かと言って噛み切れない訳でも無い絶妙な歯応えを有していた。噛むほどに肉の繊維の奥からコクが染み出して来て飽きる事が無い。
「ドラゴンの肉は筋力増強に効果があるらしいから、小さい子達と女の人の皿は少なめなの。その代わり、もう一つの肉料理とサラダは多めにしてあるわ」
「・・・フーン、ドラゴンの肉ってな確かに今まで食べた肉の中でも相当美味いけど、貴族連中が大枚積んで買おうとするほどじゃねぇと思うんだがなぁ・・・滅多に手に入らねぇから珍重されてんのかな?」
バローもドラゴンの肉を食べた事が無かったので楽しみにしていたのだが、予想した以上の味では無くて少々肩透かしを食らった気分であった。
だが、それは当然なのだ。
「実は・・・そのドラゴンの肉、かなり美味しく「無くなる」様に調理してあるんです・・・」
「「「はぁ?」」」
恵の言葉に全員の顔に疑問符が浮かんだが、当の恵からその理由が説明された。
「ベリッサさんによると、ドラゴンの肉はそのまま普通に調理すると美味し過ぎて他の食材と調和しない上、皆そればかり食べる事にしか頭が働かなくなるらしいです。なので、ベリッサさんは苦労の末、ドラゴンの肉の旨みを抑える方法を編み出したんです。茹でこぼして旨みを何度も抜いて、香草で味を調えて・・スープはその煮出した物を使ってるんですよ」
「そ、それでもこんなに美味いのか!? じゃあ美味しく料理したらどのくらい美味くなるんだよ・・・」
その味を想像して食事中にも関わらず皆の喉がゴクリと鳴った。
「ふむ・・・ならばこの一月を全員が頑張り通したなら、恵に本当に美味いドラゴンの肉料理を作って貰うか」
悠がそう宣言すると、全員の目が輝き出した。特に食に煩い神楽と肉に煩い小雪は敬虔な信者が神の御使いに崇敬なる文言を授かったかの様な崇拝に近い表情が浮かんでいる。
「うおっし! 楽しみになって来たぞ!!」
「く~~~~っ、待ちきれねぇな!! おいガキ共、途中でへばるなよ!!」
「今日みたいな事をしてたらへばるのはバロー殿だと思いますです。ヤハハ」
ハリハリの言葉に広間に笑い声が広がっていき、悠達は無事初日の訓練を終えたのだった。




