5-75 修練の日々1
まだ夜が明け切っていない薄暗い街中を悠は一人歩いていた。そろそろ朝の鐘(午前6時)が鳴る事もあって、早くから仕込みに掛かる者達は動き出してはいたが、それもまだまばらである。
《遂にこの日が来たわね、ユウ》
「ああ。・・・俺にどれだけの事が出来るかは分からんが、せめて全員合わせて俺と多少は戦える程度にはなって欲しいと思っている。その鍵を握っているのは恐らく・・・」
《子供達の中で一番強いカンナ?》
レイラの言葉に悠は否定を返した。
「神奈は普通に鍛錬を積むだけで普通の者が太刀打ち出来ない強さになるだろうが、それは全体の強さでは無く個人の強さだな」
《じゃあ誰なの、それは?》
「それは・・・」
悠が答えようとした時、街に朝の鐘の音が鳴り響いた。
「もうこんな時間か。レイラ、話は後にしよう」
《分かったわ》
悠は鐘の音の中を早足にフェルゼニアス家に向けて急いだ。
「おはよう御座います、ユウさん」
門の前で悠を待っていたのはミレニアであった。
「おはよう、ミレニア。アルトの準備は出来ているか?」
「ええ、今参りますわ」
そのミレニアの言葉通り、鞄を一つ手に持ったアルトが屋敷の扉を開くと、悠に気付いて駆け寄って来た。アルトの格好は普段の良家のお坊ちゃま然とした服装では無く、動き易い様に余計な飾りを排除した質素にも見える物だ。だがアルト自身の美貌(?)を隠す事は出来ず、お忍びの著名人の様に見えた。
「おはよう御座います、ユウ先生!!」
「ああ、おはようアルト。・・・心身の準備は整っているか?」
「はい! 本日より本格的なご指導ご鞭撻をよろしくお願いします」
アルトは踵を揃えてしっかりと悠に頭を下げた。今日からはこれまでの様な軽い修行では無いと覚悟を決めているアルトの顔は真剣である。
「より良き自分になれる様に頑張れ。俺から言えるのはそれだけだ」
「はい!!」
「やれやれ、アルトはすっかりユウに懐いてしまったね。父親としては寂しい限りだよ」
「本当で御座います、爺の胸は張り裂けそうですぞォ・・・」
そこにローランとアランもやって来て、アルトの身内は双子の赤子以外全員が揃ったのだった。
「ローラン、アラン、ミレニア、今日よりアルトを預かる。立派な男になる様に祈っていてくれ」
「いやいや、それは違うよ、ユウ。私達が祈るのはアルトの健康だけさ。・・・アルト、立派な男にはお前が自分でなって見せてくれ。私達は祈るのではなく、それを応援しているよ?」
「アルト、途中で諦めても私達はあなたをこの家に上げたりはしてあげません。フェルゼニアスの男は絶対にあきらめてはならないのです、いいですね?」
「若様・・・どうか、お体にだけはお気を付け下さい。爺は元気な若様がお帰りになるのをずっと待っております・・・」
「父さま・・・母さま・・・アラン・・・」
ローランはアルトに覚悟を促し、ミレニアはあえてアルトを突き放した。そしてアランはただただアルトの無事を祈願している。三者三様の言葉に、アルトは正面から答えて見せた。
「今日より修行を終えて帰るその日まで、アルト・フェルゼニアスは死んだとお思い下さい!! そして無事に帰りましたら改めてこの家の男として相応しいかご検分を!! その時まで・・・さらばです、父さま、母さま、アラ、ン・・・くっ!」
堂々と口上を述べるアルトであったが、最後の最後で目の奥の熱さに言葉を濁した。それでも涙は流すまいと必死に歯を食い縛り、顔を上げ、踵を返した。
「・・・行きましょう、ユウ先生・・・」
「・・・ああ、ではな」
アルトと悠は並んで歩き出し、フェルゼニアス家の門を離れていく。その後ろでは堪え切れなくなったミレニアがアルトの名を呼びそうになって自分の口を必死に抑え、代わりに目から大粒の涙を流し、ローランの胸に顔を押し付けた。ローランは嗚咽を噛み殺すミレニアの頭をそっと撫で、遠ざかるアルトの背を見守り、その隣ではアランの握り締められた手袋がその強さに耐え兼ねてピリピリと破れていく。それでも長年の執事としての矜持か、その顔は能面の様に表情を読み取る事は出来なかった。
「・・・ふっ・・・ふぐっ・・・っ・・・」
アルトは決して振り返ろうとはしなかった。今振り返ったら自分はきっと温かな3人の輪の中に舞い戻ってしまうと分かっていたし、何より、こんなグチャグチャの顔を見られる訳には絶対にいかないのだ。フェルゼニアスの男は一度決めたら初志貫徹するまでは振り返る事は無いのだから。
それでもアルトは両目から流れ出る熱い感情を留める事は出来ずに、全身の力を込めて声と体を制御していた。一歩、また一歩と屋敷から離れるにつれて、悲しみと不安がアルトの足を止めようとするが、隣に居る悠の揺ぎ無い足取りがアルトに自分が目指すべき者の姿を教えてくれている様に思え、アルトは必死に足を動かし続けた。
やがて街の入り口が見え、そこで悠とアルトを待っていたのは警備隊長のシロンだった。
「・・・話は伺っております、どうぞ若様をよろしくお願いします、ユウ殿」
「承った。それとな・・・」
「・・・はい、畏まりました、それではお通りを」
悠はシロンに何事かを耳打ちし、武器を立てて見送るシロンの前を通ってフェルゼンの外に出た。
「・・・」
アルトは無言でフェルゼンを出て、一瞬後ろを振り向きかけて留まり、グッと前を向き直して悠の先に立って歩き出したが、数分も行かずにその足が止まった。
「・・・」
「・・・」
アルトが無言である様に、悠もまた無言でそれを見ていた。アルトは今必死に自分の中で様々な事に折り合いを付けているのだろう、それを急かす様な事を悠はするつもりは無かったのだ。
俯くアルトの前の地面にポツポツと小さな染みが作られていく。アルトは何度もそれを拭ったが、それは途切れる事無く後から後から湧き上がって来て尽きる事が無い。
貴族社会や親元から離れる事を経験した事の無いアルトにとって、それは巨大で漠然とした不安感をもたらし、アルトには経験が無い故にそれとどう向かい合えば良いのかが分からなかった。アルトは今初めて親元から離された『異邦人』の悲哀を知る事が出来たのだ。
(こんなに怖いなんて・・・こんなに悲しいなんて・・・! 僕は馬鹿だ、ずっと父さまと母さま、アランに守られて来てた事に、今、初めて・・・!)
思考がネガティブな方向に落ち込んでいくアルトの頭上が翳ったかと思うと、何かがアルトを柔らかく包み込んだ。疑問に思うアルトに、その何かが告げる。
「子はいつか親の庇護下から飛び立たねばならない。それは人として自然な事なのだ。・・・親が子に求める事は、その子供が立派に生きていく事だと俺は思う。アルト、今すぐ大空を飛翔しろとは言わん。だが、せめて飛び上がってみせろ。俺達大人は喜んでその踏み台になってみせよう」
包み込む悠の手の力に、子供を騙す為では無い真摯な言葉にアルトの中で何かが決壊し、迸った。
「・・・ぅ・・・ユ、ウ、先生・・・ユウ先生・・・ユウ先生! 父さま!! 母さま!! アランッ!! うわあああああああああああああああああッ!!!」
アルトは力一杯悠にしがみ付き、腹に顔を押し当てて絶叫した。溜めに溜めた物を全て流し尽すかの如く、その絶叫は離れたフェルゼンの門に佇むシロンの耳にも届いたが、シロンは静かに目を閉じ、先ほどの悠の言葉を思い出していた。
(もしかすると途中でアルト様が耐え兼ねて声を上げるかもしれんが、聞かなかった事にしてやってくれんか? アルト様にも男の矜持があるのだ、頼む)
悠にそう頼まれたシロンは了承した。だからこそ、最後までその声が途切れるまではここでそれを聞き届けようと思ったのだ。
(ユウ殿・・・若様をお願いします・・・)
今度は声に出さずに、重ねてシロンは目を閉じたまま、深く頭を下げたのだった。
若干、アルトが苦労知らずの面があるので自覚して貰いました。・・・少し心が痛みます;




