閑話2 少しだけ、しょっぱいスープ
「さ、皆、蒼凪にはまだ休みが必要だ。休ませてやってくれ」
「「「はいっ!!!」」」
そう言ってぞろぞろと子供達は部屋から出て行った。その表情は明るく、これからの生活に何の不安も感じていないかのようだ。
「でも、外から見てても悠先生が怪我をしたのなんて、あたし気付きませんでした」
「いや、厳密には怪我では無いからな」
そうだな・・・と悠は一度間を置いてから答えた。
「例えば、酸っぱいと分かっている食べ物があるとする。それは食べると唾液が一杯出るだろう?次にその食べ物を見た時、自然と唾液が分泌されたりしないか?」
「あ、あります!!考えただけで出て来ます!!」
神奈は自分の世界の酸っぱい食べ物を思い出して、酸っぱそうな顔をした。
「その様に、人間の知識や思い込みは、時として人間の肉体にまで影響を与えたりする。焼けた鉄の棒だと言って押しつけると、押しつけられた人間が火傷をした、などど言う話があるくらいだ。実際に押しつけたのは単なる鉄の棒であってもな。だから、目に見える傷だけで無く、精神のケアが必要なのだ。」
悠は子供達に分かるような簡単な例をあげつつ説明していく。
「蒼凪にしてもそうだ。辛い体験が君から生きる気力を奪っていた。心が生きる事を望まなければ、体も徐々に朽ちていく。蒼凪はもうそれを知っているな?」
「はい・・・」
蒼凪はこれまでの人生を振り返って悠に答えた。
「今も・・・人と話すのは・・・ちょっと、怖いです。・・・男の人も・・・怖い、です・・・かんざ・・・悠、先生と・・・明ちゃんは・・・平気です、けど」
蒼凪の口調は途切れがちで、精神世界ほど流暢では無かった。これは、先ほどとは逆に、衰えた肉体が精神を蝕んでいるせいで思っている事を十全に伝えられない現象だった。
「心と体はバランスが取れていなければ、どちらも上手く動かない。お前達は特に傷付いた4人だ。だからこそ、健やかに育って欲しいと俺は思う」
《私としてはもう少しユウにも自分の体を労わって欲しいんですけどね?》
「え!?・・・だ、誰?」
突然聞こえて来たレイラの声に蒼凪が目を丸くしている。そういえば、蒼凪はまだ何も事情を知らないのだったなと思った悠は、これまでの経緯を掻い摘んで蒼凪に語る事にした。
「蒼凪にも少し説明しなければならないな」
と、悠が言った所でドアがノックされ、恵が暖かい食事を持って来た。
「失礼します。他の皆も朝ごはんを食べ損ねたみたいですから持って来ました」
「やった!ありがとう恵!悠先生が心配でご飯食べられなかったんだ!」
「ありがとう恵。私も明日からは手伝うから」
「ありがとうございます、恵さん」
そう言って3人は恵から食事を受け取り、恵は最後に蒼凪の前にやって来た。
「初めまして、蒼凪さん。私は小鳥遊 恵です。明の姉です。戦う事は出来ないので、皆のご飯や身の回りのお世話をしています。これからはよろしくね」
「明ちゃん、の・・・あり、ありがとう・・・明ちゃんは、・・・とても・・・良い子・・・」
「ふふ、ありがとうございます。明を連れて行った悠さんの目に狂いは無かったみたいで、私も嬉しいです。さ、温かいスープをどうぞ。まずはスープで体を慣らしていきましょう?」
そう言ってスープを器によそうと、恵は蒼凪にその器を差し出した。
蒼凪は恐る恐るそのスープを骨ばった手で受け取ると、スプーンを入れて一口掬いとり、そして固まった。
「どうした、蒼凪?」
悠がどこか途方に暮れている様子の蒼凪に声を掛けると、蒼凪は戸惑った様に答えた。
「・・・しばらく・・・何も、食べて・・・無かったから。・・・食べ方を・・・一瞬・・・忘れて、ました」
蒼凪は病院でも最低限の水分以外は何も口にせず、医師らが薬で寝ている蒼凪に高カロリーの点滴を施してその生命を繋いでいた。それでも育ち盛りの体を維持するにはまるで足りず、途中で蒼凪が目覚めたりすると点滴を引き抜いてしまったりして、思う様な効果は上げていなかったが。
「大丈夫?食べさせてあげようか?」
心配そうな恵の申し出に、蒼凪は小さく首を横に振った。
「ううん・・・大丈、夫。・・・思い、出した・・・から」
蒼凪はゆっくりとスプーンを口に運び、その中身を一口啜った。
それをじっと恵が見つめていると、不意に蒼凪の目から涙がポロポロとこぼれ出し、恵は慌てて蒼凪に尋ねた。
「ど、どうしたの蒼凪ちゃん!?ご、ごめんね、おいしくなかった?吐き出してもいいよ!!!」
恵の慌てたセリフに何度も首を振り、蒼凪は涙を流しながら答えた。
「ち、がう・・・の。・・・ちがうの」
蒼凪は言葉にならない思いに溢れる胸を抑えて涙を流し続けている。
「どどどうしましょう!どうしましょう!悠さん!!」
「落ち着け恵」
恵は自分の作ったスープか自分の行動が何か蒼凪を傷つけたのではないかとオロオロしていたが、悠は蒼凪の涙がそのような理由によるものではないだろうと思い、恵を諫めた。
「で、でも!!」
「ご、ごめん、なさい・・・恵、さんの・・・せいじゃ、無いの・・・」
蒼凪は涙を拭って答えた。
「あったかい・・・美味しい・・・とても、久しぶり・・・あ、ありがとう・・・ありがとう・・・」
蒼凪はもう一年以上温かい食事を取った記憶が無かった。それはただ温度が冷たい冷めきった食事というだけの話ではなく、温かい人間関係の中で食事を取れなかったという事も含まれていたのだ。
何度もお礼を言って涙を流す蒼凪に、恵も貰い泣きしながら手を振った。
「いいの、いいのよ蒼凪ちゃん!沢山食べて、早く元気になってね!」
蒼凪はスープを繰り返し掬っては、それを口に運んだ。
涙で少しだけしょっぱくなったスープは、それでも蒼凪にはこれ以上無いくらいのご馳走に感じられたのだった。