2-36 ハート・ブロークン5
一番の不幸少女、蒼凪のエピソードです。
・・・暗いし重いので、子供の悲惨なシーンを見たくない人はちとご注意下さい。
悠と明が玉座の間に足を踏み入れると、部屋に置かれていた篝火が手前から順に点いていった。扉が破られた事でこちらを認識したようだ。
火が灯っているのに、その部屋はまるで温かみを感じさせなかった。
その明りが奥に届くにつれて、徐々に玉座が見える様になって来た。そこには一人の少女が座っており、そして氷漬けになっていた。
「ゆうおにいちゃん・・・」
「ああ・・・あれが蒼凪の心だな」
それを視認した悠と明は、ゆっくりとその玉座へと歩み寄ろうとすると、どこかから声が聞こえた。
《――帰って》
その声に二人は足を止めて周りを見回したが、どこにも人影は無い。であれば、今の声は・・・
「君か、蒼凪」
《何故私の名前を? ・・・いえ、そんな事はどうでもいい。帰って。これ以上、私の心を乱さないで》
そう、この声の主こそが蒼凪であった。
「俺は神崎 悠。君を助けに来た」
「たかなしめいです! たすけにきたよ!!」
悠と明は一歩ずつ蒼凪に近づきながら、蒼凪に訴えかけた。
《帰って。私は誰とも関わりたくないからここに居るの。もう少し、もう少しでそれも終わるから・・・だから、帰って》
「君を待っている者達が居る。そして俺も君を助けたい。だから帰る訳にはいかん」
「おねえちゃんもめいたちとかえろ?」
《嘘よ!! 私を待ってる人なんて居ない!! あの世界でも!!! この世界でも!!!》
蒼凪の声が怒りで大きくなっていた。そしてその声には世界に対する限り無い憎悪が込められていた。
そして近づくにつれて、蒼凪のイメージが悠に逆流して来た。それで悠は蒼凪が何故世界を憎んでいるのかを知ったのだった。
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葛城 蒼凪は生まれてから12歳までは幸せに過ごしていた。優しい母ととある会社の重役を務める父。金銭的にも親の愛にも恵まれていた蒼凪の境遇がひっくり返ったのは、父が会社の金銭を横領していると疑われたのが発端だった。
それは他の重役が仕組んだ罠であったが、その人物は非常に用意周到であり、蒼凪の父の不利になる偽の証拠を既に用意していた。結果、蒼凪の父は告発され、裁判にて有罪を言い渡される。
潔癖な父はその境遇に耐えられず、自ら獄中で死を選んだ。それを聞いた母も元々気の強い人間では無かったせいで、結局精神を病み、病室で果物ナイフで手首を切って夫の後を追った。
13歳になり、一人になった蒼凪を拾ったのは、遠い親戚の夫婦だったが、その夫婦の目的は蒼凪の両親の遺産であり、蒼凪自身には何の愛情も無かった。
継母は露骨に蒼凪に辛く当たり、食事の量も極端に減らした。日に日に痩せこけて元気を失っていく蒼凪から、友人達も一人、また一人と離れて行った。
ここまでの出来事だけでも蒼凪の心は既に崩壊寸前だったが、まだギリギリで踏みとどまっていた。それが決定的に変わったのは、蒼凪の継父が蒼凪の体に興味を持ち始めた時からだった。
美しく成長し始めた蒼凪に、何かにつけて蒼凪の体に触れて来ては二人だけになろうとする継父を蒼凪は心底恐怖した。貞操の危機を感じた事も一度や二度では無かった。
そんな継父を見て、継母は怒り狂った。そしてその矛先は継父では無く、蒼凪へと向かった。
それからしばらくして、蒼凪の体は既に痣だらけになっていた。もう袖の短い服は着る事が出来ないくらいに。
そして、事件は起こった。
俯いて食事をぽつぽつと口に入れていた蒼凪が、途中で急激な吐き気に襲われて、食事を全て戻して床に倒れ伏した。内臓が体に反逆しているかの様な不規則な蠕動運動を繰り返し、胃の中身を押し戻そうとしている。余りの苦しさにのたうち回る蒼凪を、継母が見ていた。笑いながら。
蒼凪の継母は食事に毒を混ぜたのだ。
蒼凪は帰って来てそれを見た継父によって連絡を受けた救急車で緊急搬送され、継母は逮捕された。継父も児童虐待の共犯とみなされて逮捕された。そして一命を取り留めた蒼凪は、また一人になった。
いや、前に一人になった時よりずっと悪かった。毒を盛られて以降、蒼凪は完全に心を閉ざした。そして、固形物を取る事が出来なくなった。
医者に対しても全く心を開かない蒼凪は、その頃には骨と皮ばかりの少女になっていた。14歳になるのに、体重は30キロ前後と、最早生命に関わるレベルでやせ細っていた。
病室に居ると、母の事を思い出して自殺する事ばかり考えていた。しかし、自殺する気力すら沸かなくて、結局緩慢な死を待ちわびる毎日だった。
そんなある日、蒼凪の体を光が包み込んだ。それは召喚の光だった。
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そこで蒼凪の回想が途切れた。いつしか悠と明は氷漬けの蒼凪の前に辿り着いていた。
《私は誰からも必要とされていない。私も誰も必要としていない。だから、帰って!》
「おねえちゃん・・・」
明は自分の見たものが何なのかは意味を理解しては居なかったが、蒼凪がとても深く傷ついている事だけは理解していた。
ぺたぺたと蒼凪を包む氷に手を当てて、蒼凪の顔を覗き込んでいる。
「嘘だな」
悠はその回想を見ても、何の感情も顔には浮かべていなかった。そして蒼凪の言葉を嘘と断じた。
《嘘じゃ無いわ!! 私は誰も愛さないし、必要にしない!!》
「ならば何故君は今泣いているんだ?」
氷漬けの中にいる蒼凪の目からは一筋の涙が流れていた。それは誰かの言葉に傷付いたから涙では無かった。
《こ、これは・・・》
「今君を傷付けているのは、他ならぬ君の言葉だ。君は誰かを愛したいと思っているし、愛されたいと思っている。それを偽るのは、君を傷付けるだけで決して癒しはしない」
《ち、違うわ! 私は、私は・・・!》
その時、ぴしりという音が聞こえた。蒼凪を包む氷から聞こえたその音の場所には、小さなヒビが入っている。
「もう誰も君を一人にはしない。だから、俺達と共に帰ろう。皆が待っている」
《う、う、うるさいうるさいうるさいっ!! 帰って!! 帰ってよ!!!》
蒼凪の感情の爆発と共に、周囲から黒い影が染み出し、小さな蝙蝠のような形になって、悠と明に襲いかかって来た。悠は拳に赤い光を宿すと、明と蒼凪を庇うようにして前に立ち、蝙蝠もどきを打ち落としていくが、それは次から次へと沸き出して来てキリが無い。
「明! 蒼凪への呼びかけを続けてくれ。お前達は俺が守る!」
「うん!!」
明の目には怯えの色は一切無かった。そして蒼凪の氷に触れながら、蒼凪に語りかけ続けた。
「おねえちゃん、いこうよ? ゆうおにいちゃんはずっとめいとおねえちゃんをまもってくれるよ?」
《嘘よ・・・男なんて、大人なんて・・・人なんて、信じられないわ》
「なんで?」
《あの人だって、危なくなったらきっと逃げ出すわ。私を本気で守ってくれる人なんて、居なかったもの・・・だから、今の内にあなたも・・・》
「めい、にげないよ?」
蒼凪の忠告を、明は即座に否定した。
「ゆうおにいちゃんはにげないもん、だからめいもここにいるの」
《危ないから逃げなさいよ!! 怪我じゃ済まないわよ!!》
その時、一匹の蝙蝠もどきが悠の手の届かない場所から明に向かって飛んできて、その頬を掠めた。明の頬に一筋の傷が出来、じんわりと血が滲んで来る。それでも明は氷から手を離そうとしなかった。
《ほら! 分かったでしょ!! だから早く――》
「おねえちゃんとかえるんだもん。こんなのへっちゃらだもん!」
《貴女、どうしてそこまで・・・》
蒼凪の氷からピシピシとヒビが拡大していった。
「こまってるひとはたすけてあげなきゃだめなんだよ? おねえちゃん」
蒼凪は困惑していた。今まで、自分を守る為に前に立ち塞がってくれた人など居なかった。それなのに、今、こんな小さな子が自分を助けようと懸命に手を伸ばしてくれている。自分の心のままに、人を助けようとしている明が、蒼凪には眩しかった。
《駄目なの、私、怖いの。信じて裏切られるのは嫌なの! もう悲しいのは嫌なの!!》
それでも蒼凪はその手を取る事が出来なかった。ただ蔑まれるのなら耐えられる。しかし、もう一度信じて裏切られたら、今度こそ自分はもう壊れてしまうだろうという底知れない恐怖からの畏縮だった。
「なぁんだ、じゃあだいじょうぶだよ?」
明は簡単な算数の問題を解くように明快に答えた。
「めいもゆうおにいちゃんもぜったいおねえちゃんにひどいことなんてしないもん!! ね、だからいこ?」
その明の顔には何の杞憂も無かった。ただひたすらに、自分の心と悠を信じていた。
蒼凪を取り囲む氷のヒビが大きくなり、今にも割れそうになっている。自分にもきっとあんな時期があったのだ。誰かを無条件に信じていた幸せな時期が。
《・・・・・・》
蒼凪は迷った。迷って、迷って、迷って。そして、自分を取り巻く氷から決して手を離さない少女と、前から逃げ出さない悠を見て、決意した。
《・・・・・・分かったわ。私も、もう一度だけ、人を信じてみる。だからお願い。私を一人にしないで・・・》
「! うん!!!」
その言葉と共に、蒼凪を取り囲んでいた氷は砕け散ったのだった。




