10-156 お人好しの挽歌1
『神息流魂謳』を使った悠が固く閉じていた手を開くと、ファティマを封じたペンダントは元の澄んだ青色の揺らめきを取り戻していた。死の一歩手前まで行った消耗は大きく、すぐには覚醒しないだろうが、直近の消滅は免れたはずだ。
ファティマの命は救われたが、代わりにエースロットは沈黙し眠りについた。束の間現世に舞い戻った3人の王達は現代人達に多くのものを遺し、再び去ったのである。
「ユウ殿、エースは……エースはどうしたのです!?」
薄々何事があったのかを察していたハリハリの表情は険しかったが、悠は覚悟していたように平坦な表情と声でそれに答えた。
「……エースロットは魔力と魂を消耗して眠りについた。俺が居る間はもう目を覚まさんだろう」
「魂? 魂ですって!? まさか、やはりエースは自分の命を……!」
ハリハリの怒りを前にしても悠は怯まずに首を縦に振った。エースロットは自分の意志で命を懸けたが、悠にはそれを止める事が出来たのだ。エースロットに助力を仰ぐと決めた時点で、悠はエースロットを慕う者達からのどのような罵詈雑言も甘んじて受けると決めていた。それが覚悟というものだ。
杖を手放したハリハリの手が拳を作り、振りかぶられても悠はただそれをじっと見詰め続けるだけで制止も、回避の気配すらも皆無であった。ハリハリには自分を罵り、殴る権利がある。
「……ぐ、くっ……!」
だが、ハリハリの拳は振りかぶられたまま固まり、突き出される事は無かった。
ハリハリはエースロットの親友だ。肉親以外では誰よりも深くエースロットを理解しているつもりであり、この選択がエースロットの希望で行われたのだという事に何の疑問も持たなかった。むしろ、如何にもエースロットらしい決断であろう。
「ハリハリ、殴っても構わんぞ。俺は確かにファティマを救う為にエースロットの力を借りたのだ。お前が怒るのは正当な権利だと思う」
ハリハリを前に、悠は一歩踏み出したが、ハリハリは眦を下げて悠に問い掛けた。
「どうして……止めてくれなかったのですか?」
「俺がファティマを救いたかったから、そしてエースロットに悔いを残させたくなかったからだ。救う手段があってそれを見過ごすのはエースロットに強い後悔と罪悪感をもたらすだろう。別に自分の命を削って誰かを救わなくても誰もエースロットを責めはしないが、エースロットのような男はきっと一生忘れまい。俺はエースロットの、エースの友として後悔だけはさせたくなかった」
一切の嘘を挟まず、悠は自分の胸の内を打ち明けた。ゴルドランもエースロットも素晴らしい男達であり、悠はその願いを疎かには出来なかったのである。
ハリハリの感情のせめぎ合いは続いていたが、拳を止めた時点でもう答えは出ていた。
「……エースロットをエースと呼び、友と呼ぶユウ殿を殴れば、エースはきっと落胆するでしょう……。このまま激情に駆られて喚き散らすのでは、シアの時からあまりに成長がないというものです」
「いいのか? 俺が誰かに黙って殴られる事などそうあるものではないぞ?」
「誘惑しないで下さいよ。それに、ユウ殿を殴ったりしたらワタクシの細腕の方が砕けてしまいそうです」
泣き笑いの表情で拳を解き、ハリハリは踵を返した。
「帰りましょう、我々の故郷に……。ザガリアス様、後日会談を行いたいと思いますが、連絡手段はお持ちですか?」
「魔法では敵わんが、魔道具ならドワーフはエルフより優れていると知らぬ訳ではあるまい。もう『機導兵』による通信封鎖も行われてはおらんしな。軍で使っているものがある、そちらで使う分も持ち帰るがいい」
「ありがとう御座います」
「ハリハリ、俺の乗ってきた船がある。帰りを急ぐなら使ってくれ」
ハリハリが持ち直したと感じた悠が行きで使った船をハリハリに差し出すと、ハリハリは小首を傾げた。
「ユウ殿は乗って行かないのですか?」
「ああ、俺は一足先にシルフィードに戻る。『機神兵』が漏らした情報だが、あちらでも『機導兵』が暴れているようだ。『心通話』がまだ通じない所を鑑みるに、まだ魔石で動いている『機導兵』が居るのだろう。アルトとデメトリウスが居れば最悪の事態は避けられるだろうが捨て置けん」
「なんですって!? ……いや、可能性として考慮はしていましたが……」
主力を欠いた状態では如何にも厳しいと感じたハリハリの表情は苦いが、最低限の守りとしてアルトとデメトリウスが居り、不意を突かれないよう『幽霊部隊』も要人に付けてある。それでも数によっては殲滅は難しいに違いなく、今現在も通信が繋がらない事がそれを証明していると言えた。
「異変を察してシュルツが動いてくれていればいいが、そう虫のいい事を考えても始まるまい。今からでも急げば間に合う、いや、間に合わせる」
「俺が付いていっても役に立たねえ……ギルザード、お前は?」
「平気そうに見えるかもしれないが、『竜気装纏』で魔力は殆ど無くなってしまったよ。疲労はしないが、代わりに魔力を身体の維持に使っているのでね。高速戦闘は出来そうにない」
バローとギルザードは共に疲弊しており、普段通りに戦うのは厳しい状況であった。せめて数時間は休息を取らねば回復は見込めないだろう。
「ならばワタクシが一緒に行きます! 憚りながら、多少は民心を安んじる効果もあるかと。『六将』は魔法を使えませんし、冒険者の皆さんも激戦で疲れ果てています」
「ふむ……」
疲労の話をするなら慣れない白兵戦を行ったハリハリも十分に疲れているだろうが、ハリハリの大賢者としての名声で混乱を収める効果は大いに期待出来、時間も無いと考えた悠は結局首を縦に振った。
「分かった。だが、お前を守る所までは手が回らん。自分の身は自分で守って貰うぞ?」
「勿論です。それと……エースの事はアスタ以外には言わないで欲しいんです。レイラ殿が居ればいつかエースと話す事は出来るのかもしれませんが、魂と交信出来る魔法を開発出来るかどうかはまだ分かりませんし、ぬか喜びをさせたくないのです」
「承知している。……それとエースからお前に伝言があるぞ」
「え?」
悠はハリハリに近付くと、ハリハリだけに聞こえる音量でエースの伝言を囁いた。
「自分を気にせず、お前の愛する者の手を取る事を躊躇わないでくれと……。そして自分はハリハリかアリーシア以外の者に渡してくれと言っていた。そこでいつか目覚めた時、平和になった国を見るのを楽しみにしているとな。……多分、エースは二度と表に出る気は無いのだろう」
悠の言葉を聞いた瞬間、ハリハリの顔が歪み、誰にも顔を見えないように明後日の方向に顔を背けた。震え、握られた拳は悠に対して怒りを露わにした時よりも強く力が込められているように思われた。
「馬鹿な、事を……! 遺言のつもりですか!?」
実際、ハリハリの胸を満たすのはやり場のない怒りであった。だが、それは表層的なもので、一皮剥いて表れるのは大きな喪失感と深い悲しみだ。
言葉を遺すなら自分にでは無くアリーシアやナターリアにするべきなのだ。「今も変わらず2人を愛している」とでも言っておけば、アリーシアもナターリアも終世エースロットへの愛情を忘れないだろう。
エースロットが真実そう思っている事にハリハリは一寸の疑いも持っていなかったが、それを悠に伝えなかった理由もまた痛いほどに理解していた。
自分だ。ハリハリがアリーシアに男女の愛情を持っているとエースロットは確信していたに違いない。自分の愛の言葉をアリーシアに遺せば、アリーシアはエースロットへの愛に縛られる、それではハリハリもアリーシアも幸せにはなれないとエースロットは考え、本当に伝えたかった言葉を呑み込んだのだ。
「一体どこまでお人好しなんですか……! この……大馬鹿野郎!!!」
両方の目から涙を流し、ハリハリはどんな時でも荒げる事の無かった口調を崩して罵り、見えない誰かを殴り飛ばした。
「馬鹿なエースッ! …………ワタクシの……一番大切な、友達……」
自分より大切な誰かの事を人はこう呼ぶのかもしれない――親友と。エースロットにとってのハリハリ、ハリハリにとってのエースロットがそうであるように。……そうであったように。
最後まで他人の事を気にかけ、自分の事は二の次にしてエースロットは去ってしまった。それがハリハリにはどうしようもなく切なく、そして許せなかった。ハリハリは恨みや怒り以外で誰かを許せないという感情を初めて知ったのである。
「いいパンチだ。殴られなくて良かったな」
「…………フ、やっぱり殴ってみるべきでしたかね?」
目を擦り、明らかに強がりと分かる笑顔で振り向いたハリハリは悠にはっきりと宣言した。この先の自分の覚悟を。
「ユウ殿、ワタクシはエースを許せそうにありません。ですから、何年掛かってもエースと言葉を交わす方法を探しますよ。魔法でも魔道具でも、『竜騎士』の力でも構いません。そして言ってやるんです、さっきの言葉を」
「そうか。その時、エースがどんな顔をするのか楽しみだな」
「はい!」
涙の最後の一滴が頬を滑り落ち、ハリハリの笑顔を清々しく彩った。
エースロットと別れたのはこれが二度目だ。しかし、それは二度出会ったという事でもある。ならば、三度目があっても不思議ではないのだとハリハリは信じていた。
雲間から差し込む陽光は、それを祝福しているように悠には思えたのである。




