10-117 死中の活5
悠の踏み込みに合わせ、ドスカイオスの鉄鞭が音を置き去りにする勢いで迎撃せんと振り抜かれるも悠は足の指で地面を掴んで急停止し、鼻先数ミリでやり過ごす。だが、あまりに急速な停止は悠の裸足の足を傷付け、赤い血潮を噴き出した。
そんな怪我に一切の躊躇を挟まず急加速した悠に逆の手の鉄鞭を振る事で対応したドスカイオスに、悠はしゃがんで回避を選ぶと、体を回したドスカイオスの鉄鞭が導かれるように悠に縦に振り下ろされる。
撓んだ足を伸ばし後ろに跳ぶ悠だったが、またも体を回したドスカイオスの裏拳気味の鉄鞭が再び頭を強襲、前後に大きく股を開いて頭を下げた悠の毛髪を数本巻き込むに留まった。
そんな攻防に要した時間は一秒足らずであり、一般人には小型の竜巻が2つ荒れ狂っているようにしか見えなかった。
「何だあの人族……!」
「殆ど裸で陛下と互角に渡り合ってやがる!」
「いや、互角じゃあもう死んでいてもおかしくないぜ。……考え難い事だがあのユウとかいう男、体術だけなら陛下よりも……」
互角とは実力が伯仲しているという事であり、だとすれば一発二発は悠が食らっていて当然だが、悠はまだクリーンヒットを許してはいなかった。ドスカイオスにクリーンヒットを与えられないのは悠が攻撃に使える場所が実質的に右手に限定されており、ドスカイオスが常に注意を払っているからだが、どこで攻撃しても致命傷を与えられるドスカイオスの攻撃が当たらないというのは、悠の体術、或いは速度がドスカイオスを上回っているからと見るのが自然であった。
ドスカイオスが人生を戦いに捧げたように、悠もまた己を鍛える事に膨大な時間を捧げた武の殉教者だ。ドスカイオスが5百年なら、悠は1万年かけて練磨した、世界に2つとない努力と言う名の結晶なのだ。20倍努力したからといって20倍強くなるという単純な図式は当てはまらないが、結果として悠の体術はドスカイオスの体術を上回っていた。
だが、それがずっと続かないという事は誰よりも戦っている悠が知っている。
暴風の如きドスカイオスの攻撃は間合いが遠かった三叉槍よりも回転がスムーズで力感に溢れており、迂闊に手を出せば悠の右手は肩口から千切り飛ばされるであろう。あと半歩踏み込みたい悠だったが、その半歩が霞むほど遠かった。足の裏は皮を失い、地面の土と混じって泥濘となり悠から速度を奪う。
均衡は徐々にドスカイオスへと傾いていった。
「や……めさせ、ろ!」
誰もが決着が近いと感じたその時、貴賓席にこの場に居ないはずの人物の声が響いた。
「若様!?」
「兄上!!」
兵士2人に肩を借り、引きずられるように現れたのは満身創痍のザガリアスだった。背後には心配そうな表情のヘレーネが付き添っていたが、他の者達に目を向けられても処置無しとばかりに首を振るだけだった。
「いいからこの残酷な見世物をやめさせよ!! 奴は、ユウは……うぐっ!?」
興奮して身を乗り出したせいで足に力がかかり、ザガリアスは激痛に悶絶したが、いくらザガリアスが中止を叫んでも戦っているのは王たるドスカイオスであり、止められる者など誰も居るはずがない。困惑する王族達の表情に業を煮やしたザガリアスは、ならば自分がと弟の槍を奪い、それを杖に闘技場を目指し始めた。
「な、何をなさいますか兄上!?」
「喧しいッ!! 誰も止めようとせんのなら俺が体で止める!!」
「む、無茶を言わないで下さい!! 義姉上が困っておいでではないですか!! おい、皆で兄上を止めろ!!」
「静かにしなさい!!!」
揉み合う王族の中で一人だけ闘技場から目を離さなかったブロッサムの一喝に弟の耳を引っ張っていたザガリアスが動きを止めた。
「ブロッサム……?」
「大兄様、お願いですから静かにしていて下さい。私はあの人族、いえ、ユウに最後までしっかりとこの戦いを見てくれと、父上には公正な裁定を下すようにと申し付けられました。それを邪魔するなら、次代の王である大兄様であっても軽蔑致します!」
「だ、だが、ユウは……!」
「死ぬかもしれません。ですが、ユウは一度も我が身可愛さに誇りを売るような真似はしませんでした。……頑固で、不遜で、融通の利かない石頭で、意地悪で……でも、私が何かしてあげるとお礼だけは欠かさなくて……」
振り返らないブロッサムは瞬きすら惜しいとばかりに悠を見つめながら言葉を続けた。
「自分の流儀に殉じるその誠実さだけは疑いようがありません。ユウが諦めないのなら、戦友である大兄様はそれを信じるべきだと私は思います。戦場に立たない私には漠然としか理解出来ませんが、それが戦友というものなのではありませんか?」
映像を通し、ブロッサムの言葉は遍くドワーフ達の胸に染み渡った。命懸けの場面で隣に立つ者を信じられないようでは勝利など得られはしないと、戦場に立つドワーフ達は知っていた。
「……戦友……ああ、そうだ。あいつは俺の戦友だ」
ザガリアスは目を閉じると大きく深呼吸をし、迷いを振り切って近場の席に腰掛けた。
「俺はあいつと父上の『一念祈闘』の仲介人を務めるつもりだったが、どういう経緯かは知らんがユウが父上との戦いを実現させたのなら、俺の出番は終わりだな……」
『一念祈闘』という言葉にドワーフ達からざわめきが起こるが、ザガリアスはブロッサムに倣い、悠とドスカイオスに視線を固定した。
「俺はユウが死ぬと思っていた。だが、一緒に戦った今なら、ユウならば或いはと思っている。たとえ体が不自由であっても、装備が奪われても、何か素晴らしいものを見せてくれるのでは無いかと……そうだな、信じる事が……」
ザガリアスはブロッサムの背中に祈りの気配を感じ、口を噤んだ。ブロッサムこそ頑なで容易に他者を受け入れるような性格はしていなかったはずだが、自分が寝ている間に何かしら悠とのやり取りがあり、心を動かされたのだろう。悠にはそういう不思議な魅力があるのだ。
もし悠がこの試練を乗り切ったなら、その辺りは詳しく聞く必要があるだろう。可愛い妹を兄の不在をいい事に誑かしたのであれば一言言ってやらねばなるまい。
冗談じみた思考でザガリアスは心中の不安を紛らわせ、密かに悠の生存を祈るのだった。
転換点は戦いの始まりと同じく唐突に訪れた。
「っ!?」
ドスカイオスの猛攻を凌ぐ悠の足が遂に摩擦を越え、僅かに滑ったのだ。一流の戦士でも見逃すほど短いものだったが、対峙するドスカイオスは超一流の戦士であり、刹那の隙を的確に突いてきた。
「終わりだ、ユウッ!!」
左手の鉄鞭で悠の頭を薙ぎ払いにかかったドスカイオスの攻撃を回避した悠の反応は神業と言えたが、それが王手であると戦う2人には分かっていた。無理な体勢からの強引な回避は更に悠の体勢を崩し、決定的な硬直を招き、大きな隙となる。
ザガリアスが天を仰ぎ、ブロッサムが目を逸らしかける中でドスカイオスの最後にして絶命に至る一撃が放たれる。
左手フックからの返しの右回し打ちは完璧な軌道で悠を捉えようとしていた。その距離が10センチに迫った時ドスカイオスは直撃を、5センチまで縮んだ時には勝利を確信した。悠がようやく右手の小手をその間に挟んだが、ドスカイオスの攻撃の前には枯れ枝に等しいものだ。よしんば小手が無事であろうとも、装着者である悠を殺す絶対の自信がドスカイオスにはあった。
誰もが悠の敗北と死を決定事項と見なす中、ドスカイオスの鉄鞭が悠に直撃した。
ギンッ!
――その手応えにドスカイオスの背中に最大級の悪寒が走る。予想を遥かに下回る衝撃と音が、ドスカイオスに警鐘を鳴らしたのだ。
だが、渾身の一撃を放ったドスカイオスは技後硬直で動けず、悠の呟きだけをその耳が捉えた。
「『死中回天脚』」
ドスカイオスの攻撃を全身脱力し、体重を殺して受ける事でその場で横回転した悠は思い切り足を伸ばし、踵でドスカイオスの頭部を強襲した。
悠は最初から小手でドスカイオスの頭部を攻撃するつもりなど無かったのである。ベヒモス戦で視界の不利をついて兜を嫌わせたのも、足を一切攻撃に用いなかったのも、全てはこの一撃に賭けていたからだ。牢で試してみて、今の体調ではドスカイオスの意識を刈り取るだけの攻撃を放つには不足と判断した悠は、そのままドスカイオスの攻撃の威力を攻撃に転用する事に決めたのだった。シュルツとの初戦で見せた蹴りに近いが、速度も威力も相手次第で跳ね上がる荒技であった。
全ての布石を結集した悠の一撃だったが、ドスカイオスはそれにも反応してみせた。体が流れる勢いを強引に背後に流し、回避を試みたのである。
その試みは半分だけ成功した。ドスカイオスの頭部の左側面を直撃するはずだった悠の蹴撃はドスカイオスの顎を捉え、通り抜けたのである。
その後の結果にははっきりと明暗が分かれた。悠の攻撃を不完全ながら回避したドスカイオスと、流れに逆らわなかったとはいえ直撃を受けた悠では結果が異なるのは当然であった。
ドスカイオスに直撃を与えてブレーキをかけるつもりだった悠は地面に叩きつけられると同時に激しく横転し、10回20回と高速で転がり、数十回に及ぶ回転が収まっても起き上がる気配は無かった。
対するドスカイオスは痛む顎を抑えて膝を付いていたが、それ以外に怪我らしい怪我は無い。
勝敗は決した。悠は敗れ、ドスカイオスが勝ったのだ。
「1!!!」
と、ドスカイオスが勝利を告げようとした時、涙ぐむブロッサムが大きく声を張り上げた。それは悠に呼びかけるような、精一杯の声援だったのかもしれない。
無意味なカウントにドワーフ達から失笑に近いものが漏れる。戦場を知らぬ女子が無駄な事をしているという思いが闘技場に広がるが、ブロッサムに課せられた使命はドスカイオスがダメージを受け、構えが取れなくなった時に5つ数えろという事だけだ。その役目はたとえ悠がどんな状態であろうと、なのだ。
「2!!!」
「うむ、確かにこれでは構えを取っているとは言えんな!!! どれ……っ!?」
ドスカイオスの背筋が凍り付いたのは、まさにこの瞬間であった。
膝に力を入れ、立ち上がって構える。普段のドスカイオスであれば一秒の半分の時間も要らない動作がどうやっても出来ないのだ。
腕に力は入るが、膝にはいくら力を入れても、まるで穴が空いていて漏れ出して行くかのように全く力が入らなかった。
「3!!!」
「ぐ、ぐおおおおっ!!!」
渾身の力を込めるドスカイオスは知らないだろう。悠の『死中回天脚』が二段構えの技であった事に。
直撃すれば最上であるのは確かだが、頭部へダメージを与える手段はそれだけでは無いのである。顎先を高速で蹴り抜いた悠の蹴りで、ドスカイオスの脳は激しく左右に揺さぶられて一時的に平衡感覚を麻痺させられていたのだ。俗に言う「足に来る」という状態である。
一撃でそれを成すには角度、速度共に最大限のものが求められたが、悠の蹴りは他ならぬドスカイオスの全力が乗っており、悠の体術と合わされば威力、正確さに申し分はなかった。
「4!!!」
ドスカイオスは立ち上がる為に鉄鞭を杖にしようとしたが、ドスカイオスの巨体を立ち上がらせるには鉄鞭は短過ぎた。せめて三叉槍を持っていればと探したが、とても辿り着ける位置ではなかった。
(ま、さか……この時の為に小手を傷めてまで槍を折ったのか!?)
思えば足を滑らせたのも決着を誘う演技だったのだろう。悠の積んだ膨大な布石にドスカイオスは目がくらむ思いを味わい……
「なるほど……これが、全力を尽くして負けるという事、か……」
どこか清々しい気持ちで尻餅をついたドスカイオスの耳に最後のカウントが届く。
「5!!! ……陛下は構えを取れず!! よって、勝者はユウです!!」
ブロッサムの宣言に闘技場がどよめきに包まれる中、勝敗は反転したのだった。
勝つには勝ちましたが、代償も大きそうです。