10-113 死中の活1
その後、逃げるようにギリアム親方からの差し入れですと酒の小瓶を置いて立ち去ったブロッサムを尻目に、悠は誰も居なくなった空間に感謝の言葉を述べてから足で瓶を固定し、蓋を指で捻った。
途端に馥郁たる香りが鼻腔を楽しませ、悠は存分にその香気を堪能してから喉に滑り込ませた。
「……いい酒だ。末期の一杯に選んでも不思議ではないな」
ドワーフは死期を悟った時、臨終間際に酒で身を清めるという風習があり、ギリアムの差し入れが認められた背景にあるのは、明日悠が死ぬだろうという可能性の高さに他ならない。実際にそうなるかどうかはともかく、ドワーフ達はそう考えているという事だ。
《フン……勝てばタダ酒だろうが、縁起でもない》
ドワーフへの評価が悪い方に傾いているスフィーロは面白く無さそうに吐き捨てたが、ギリアムなりの心尽くしなら有り難く頂くだけだ。
《……で、その有り様でザガリアスクラスの相手に勝てるのか?》
「勝つ」
《……》
沈黙でも韜晦でもなく、ただ勝利を口にするのは如何にも悠らしい返答ではあったが、今の悠の状態ではスフィーロであっても容易に信じる事は出来なかった。沈黙に漏れる不満に悠は言葉を続ける。
「スフィーロ、俺は勝つと言ったからには相手が誰であろうとも必ず勝つ。それは今までに一度も破った事の無い約束だ」
《レイラが居らず、腕を両方失っていてもか?》
「それでもだ」
その約束を破った事が無いからこそ悠はここに存在しているのだ。言葉を体現する悠にスフィーロは渋々と矛を収めた。
《……精々、ここを最期の戦場にせん事だ》
「ああ」
明日の試練を前に、悠は普段と変わらぬ眠りにつくのだった。
明くる日、目を覚ましていた悠に朝食を持ってきたブロッサムは一向に食が細くならない悠に呆れたが、どうせそれを指摘しても神経を逆撫でするような返答をされるだけだと思い、軽く睨むに留めた。実際、悠としては今日死ぬつもりは無いので飯を食っているだけだと返しただろう。
米粒一つ残さず食事を平らげ、いつものように礼を述べてから悠は複雑そうな表情のブロッサムに尋ねた。
「その様子だとザガリアス王子らはまだ目を覚まさんか?」
「……分かっているなら聞かないで下さい。取りなして貰おうと思っても無駄ですからね」
「我が身可愛さで聞いていると思う了見の狭さは目を覆わんばかりだが?」
「っ!?」
やはり嫌味には的確に返されたブロッサムは拳を握って怒りを抑え、努めて平常心を保ちつつ質問に答えた。
「……まだ誰も目を覚ましていません。疲労と毒と多く血を失ったせいでしょう」
「そうか……もし目を覚ましたらよく養生するように伝えてくれ」
「生き残る自信があるのなら自分で伝えればいいのではないですか?」
「俺の身の上が周知となったら王族に会えるとは限らんし、だからと言って背中を預けて共闘した相手に何の言付けもなしでは義理を欠く。王子やラグドール隊長、ミズラは戦友と呼んで差し支えない存在だからな」
悠の公式な立場はあくまでエルフの『客員火将』であり、滞在を許されても気安い見舞いが許されるとは限らないのである。ある程度信頼を勝ち得たエルフィンシードでも多少の監視があった事を考えれば謁見はともかく、友好関係を築いて好意的に受け入れられるには多少の時を要するだろう。
悠がザガリアスらに対して踏み込んだ発言をしたのは初めてだったのでブロッサムは思わず身を乗り出したが、悠はそれ以上の事は語らず足枷を指差した。
「ところで、そろそろコレを外して貰いたいのだが? 邪推される前に言っておくが、体を暖めておきたいだけだ」
ブロッサムの視線から逃亡の危惧を読み取った悠に先回りされると、ブロッサムは悔しそうに頷いた。
「……いいでしょう。でも、張り切り過ぎて本番で動けないなどという無様な事にならないように!」
満身創痍の悠の外見を見れば、ブロッサムの言葉はあながち的外れとも言えないだろう。スフィーロですら悠の状態には不満があるのだ。
緊張した面もちで牢の鍵を開けたブロッサムは、実に恐々と悠に近付くと、足に嵌められた枷の鍵穴に鍵を差し込み、悠の挙動を窺いながら枷を外し、よろめきながらその場を飛び退いて悠を睨んでいた。
正直、悠が本気で害するつもりなら軽く10回以上殺せるくらいに隙だらけだったが、そもそも悠の眼中にブロッサムは入っておらず、殺しても捕らえても使い道がないどころかドワーフに悪感情を植え付けるだけなので、ブロッサムには不注意で怪我などしないで欲しいと切に願っていた。転んだり鉄格子に頭をぶつけたりして、それを自分のせいにされてはたまらない。
2日ぶりに自由になった両足は軽く、悠は屈伸したり跳ねたりして異常がない事を確認した。手がこの有り様では今日の戦いは足が命だ。
「ふっ!」
天井ギリギリまで跳んで悠は前蹴りに足を突き出すと、鉄格子を足の指で挟んで空中でピタリと制止し、腹筋などをやってみて機能的な問題の確認作業に移ったが、傍らで見ていたブロッサムは軽業士もかくやと思われる悠の動きに目を奪われ、口を半開きにして見入っていた。
ドワーフの身体能力は高いが骨が太く筋肉量が多いので全体的に重く、アクロバティックな動きを得意としないので、ブロッサムとしてもこのような身軽さを目にする機会は無かったのだ。旋回しつつ牢の格子を足の指だけで体を支え真横に移動する悠に、ブロッサムはいつしか目を輝かせていたが、そんなブロッサムとは裏腹に悠の内心は冴えなかった。
(やはり遅いか。腕が無い影響は大きいな)
空中での姿勢制御に問題は無かったが、悠が望む速度には足りず、逆旋回を試してから悠は牢から着地した。
「それで、いつ始まるんだ?」
「…………ぇ? あ、ももももうしばらく時間があります!!」
「そうか」
しばらく惚けたようになっていたブロッサムが慌てて言うと、悠は本格的に体を解し始めた。
「時間になったら呼んでくれ」
「わ、分かりました……」
悠の纏う空気に刀剣の鋭さを感じ、戦いに臨む男達を間近で見て来たブロッサムは気圧されて短く答えた。悠の表情に悲壮感は無かったが、目の奥にある勝利への意志はブロッサムにも疑いようのないものであった。
「……」
悠にどういう事情があるのかは分からないし、これから始まる戦闘という名の処刑を止める権限はブロッサムには無かったが、悠がこの一戦を力の限りに乗り越えようとしている事だけは確信したブロッサムは黙々と体を動かす悠を置き、ある決意を抱いてそっと牢を離れたのだった。
「結局その人族は口を割らなかったんですかい?」
「割るも割らないもないさあ。片目と両手の殆どを無くして、ドワーフでも死んじまいそうな怪我をしてんのに、敵地の牢獄の中でも卑屈な気配がまるでない男を拷問しても何も得る物は無いさね」
多数のドワーフ達が働く大工房でギリアムは部下の質問に肩を竦めて答えた。
「惜しいなぁ……コレが作れるようになれば戦争が根底から変わるかも知れねえってのに。クラフィール親方が連日寝ずに研究して何も分からねぇなんて……」
そうのたまう部下の手にあるのは悠の小手だった。クラフィールは自分の研究室で僅かに破損した欠片の研究に没頭し、本体はギリアムが現場の者達に見せる為に所持していたのである。
「人族にもいい鍛冶師は居るって事さあ。オイラ達も見習うべきは見習って高みを目指さなけりゃ金鎚を握ってる意味がないさ」
「そりゃそうなんですがね……」
まだこの若い部下には作り手と使い手の交感を説いても理解出来ないだろうなと思いながら、ギリアムが小手を受け取って愛おしげな視線を注いでいると、そこに息を切らせてブロッサムが駆け込んで来た。
「ぎ、ギリアム親方!!」
「おや、ブロッサム様?」
ブロッサムの視線は何かを探しているようだったが、目的の物品がギリアムの手の中にあるのを見て取ると、それを指差して言った。
「……ギリアム親方、何も言わずにしばらくそれをお貸し下さいませんか!?」
ブロッサム、奔走。




