10-86 這い回る悪夢1
体内時計にセットされている時刻通りに悠は目を覚ました。緊張や恐怖で眠れないなどという線の細さとは無縁の男である。
といっても油断して惰眠を貪るのではなく、何かあれば即座に起きられるのは言うまでもないが……。
《呆れるほど普段通りだな》
些か不機嫌そうなスフィーロだったが、これは一晩中警戒していた事の裏返しである。自分ばかり悠を心配しているようで気に食わないのだが、それを口にするのも癪だという複雑な男心である。
「俺が休まらんのではザガリアスの面子が潰れるからな。わざわざ手練れを護衛につけてくれたというのに、寝不足の顔を見せては気に病むだろう?」
《3日寝なくてもお前はそれを表に出したりはせんだろうに》
「休める時は休まんといかん。今日からその暇は無いかもしれんしな」
スフィーロのペンダントを弄りながら、悠は服装を整え天幕の外に出た。
既に陽は昇っており、護衛の『天鎧衆』は夜通しの警護にも関わらず、鋭い視線を悠に向けた。
「何か?」
「警護に感謝する。それと、日課の鍛練を行いたいのだが、場所を借りても宜しいか?」
「……遠くに行くのは許可出来ん。この近辺で済ませて貰おう」
「心得た」
努めて感情を抑制しているらしい護衛に悠は目礼を返すと、天幕の中から酒の瓶を数本持って戻ってきた。
「隊の中で分けてくれ。人族の酒だ」
「要らん。我々が貴殿を護るのは若より賜った任務ゆえ。さもしい心根と思われるのは心外である」
「この程度で懐柔出来ると思うほどドワーフを甘く見てはおらんよ。誰が飲んでも酒は酒。どうしても要らんのなら捨ててくれればいい。俺は安眠の礼がしたいだけだ」
「……」
どうやら中々の堅物であるようだが、悠がさっさと酒を置いて顔を洗い出すと、護衛の男は他の兵に目配せをして酒を持って行かせた。ドワーフにとって酒を粗末にするのは血を粗末にするよりも耐え難い事なのである。無論、毒に対する警戒は怠らないが。
それに構わず、悠は注目を浴びる視線を受け流し体を温め始め、久方ぶりに棍を手に取った。刃物がついた武器はドワーフを刺激するかもしれないという配慮であり、体術ではないのは無手での実力を隠す為だ。悠の実力は隠しようもないが、それが武器に習熟した結果と思わせておくのは敵地にあって当然の警戒心であった。
棍は槍よりも威力の調節がしやすい武器である。穂先が無いので突いても殺さないように出来るし、急所を突けば命を奪う事も出来る。突く、叩く、払う、巻き込むなど、用途も多彩でリーチも長い。
悠は多数を相手にする時はアクロバティックに戦う事が多いが、一人鍛練する時はあくまで基本的な型をなぞる練習をこなしていた。突飛な動きも基本がなっていなければ力が乗らず、ただの曲芸に堕するからである。武術に華麗さなど悠は求めていないが、それを見ていた『天鎧衆』には別の感想があった。
(これが人族の技か? ……我々よりもよほど洗練されているではないか!)
親衛隊長ラグドール・マフィンは悠を監視するという名目から最初は見るともなく見ていたが、すぐにその視線は食い入るようなものにすり替わっていた。
棍は単に型をなぞっている訳ではなく、仮想の敵を置いてのものだとラグドールはすぐに気付いたのだ。目には見えないはずの敵影が横で見ているだけのラグドールの目にすら幻視出来るほど、その動きは巧みで真に迫っていた。
悠が想定しているのは自分と同じくらいの体格の相手だ。しかも技量は同様なのか、突きや払いの悉くを幻影は受け、かわし、反撃を繰り出すのだった。
親衛隊は皆、戦闘に関しては優れた能力を持つ者達であり、いつしか隊長であるラグドールだけではなく、他の隊員達も悠と幻影の戦いに心を奪われた。
と、いつの間にか前のめりになっていたラグドールだったが、悠が競り合いの後に弾いた幻影が自分の方に飛ばされるのを見て(感じて)思わず長斧をその頭頂に振り下ろしていた。
しかし、完全に体勢を崩していたはずの幻影が長斧を受け止めた事にラグドールが舌打ちを漏らすと、そこではたと自分の行動に気が付いた。
「流石はドワーフの精鋭部隊、今のが見えているとはな。俺は斬られたか?」
ここまでやっておいて知らぬふりも出来ず、ラグドールは憮然とした表情で悠に答えた。
「……受けられた。うちの隊員であれば斬れた間合いだったはずだが……」
「ならば実際にご自分で試してみては如何か?」
悠が棍の切っ先をラグドールに向けると、周囲の隊員から期待感のようなものが湧き上がるのが感じられ、ラグドールが未熟を咎める視線を送ると慌てて視線を逸らしていった。だが、優れた敵手との手合わせはドワーフにとって望む所である。
「……客人の相手を務めるのも任務の内だ。当てぬように配慮はするが、万一の時は知らぬぞ?」
「委細承知」
悠とラグドールの間に合意がなされ、2人は対峙すると一瞬武器を打ち合わせ、同時に距離を取った。
ラグドールはこの駐留軍の中で三指に入る使い手であり、その戦いを見る事が出来る幸運を周囲の隊員達は祖霊に感謝したが、すぐに2人の気迫に息を呑む事になった。
ラグドールの戦意は尋常なドワーフでも思わず尻込みするほどの力強さに満ちていたが、対峙する悠もまたそれと同様の圧力を放ってラグドールと拮抗していたのだ。それが虚勢では無い証拠にラグドールは幾度かミリ単位で悠に切り掛かろうとしているのだが、悠がミリ単位で防御、或いは反撃を匂わせその動きを封じていたのである。ラグドールがもっと未熟であれば遮二無二攻撃に移る事も出来たかもしれないが、その実力ゆえにラグドールはその場に呪縛されてしまっていた。
――いや、それどころではない。対峙している内に、ラグドールから徐々に悠の姿が捉えにくくなっていくのである。確かに動いてはいないのに、悠の持つ棍ばかりがラグドールの視界を占拠し、強烈な存在感が悠の気配を眩ませて五感から外れて行くのだ。
(魔法、か? ……いや、違う、この男の技だ!!)
魔法を使ったのなら気配で察知する自信があるラグドールはこれが悠の技術によって引き起こされた現象だと看破し、実際にそれは正しかった。
竜騎士武器格闘術の一つ、『刃隠』。
技の骨子は対峙する相手の視界を武器に誘導し、動きを制限する事にある。気配を自分の得物にズラし、本人は気配を薄くすると、そのギャップが感覚の混乱を引き起こし、見えているはずの相手が見えなくなるのだ。
技の特性上、多対1の戦闘では使いにくいが、1対1の戦闘では絶大な効果を発揮する。特に視覚だけに頼らない上級者ほどこの技の餌食になりやすいのも特徴である。
なまじ見えているからこそ感覚が混乱するのだと理解しても、至近距離で相手の武器から目を逸らすなどとんでもない難事であり、その焦りが益々混乱を助長するのだった。
(これは、動けぬ! 僅かでも隙を見せれば、あの棍はたちまち儂を打ち据えるだろう……)
鍛えに鍛えたラグドールが、ただ対峙しているだけで体中から大汗を掻いていた。ひたすら呼吸を整え隙を見せない事だけがラグドールの意地だ。
しかし、時間が経つにつれ、そこに水を差す者達が現れた。
「何だ、『天鎧衆』の隊長も大した事無いんじゃないのか?」
「余所者の人族相手にみっともねえ……お見合いだけならガキでも出来るってんだ」
「へへ、きっとビビッてんだよ。あんな棒切れ相手に情けねぇよな」
そんな野次は今頃起き出して来た、事情を知らぬ若者達の戯言でしか無いと分かっていても心中を掻き乱すものである。ラグドールの集中が途切れそうになったその時、棍と一体化していた(ように見えた)悠が突如動き出し、ラグドールの胴を払わんと迫った。
「っ、せい!!」
何千何万と繰り返した動きはラグドール自身が意識するよりも早く棍と打ち合わされ、悠の手から弾かれた棍は咄嗟に身をかわした親衛隊の隊員達の背後でラグドール達を嘲笑っていた若いドワーフ達を一瞬で薙ぎ払った。
「ギャッ!!」
「うげっ!?」
「っ!?」
鎧も兜もつけず、唸りを上げる速度で回転する棍に打たれたドワーフ達はその場で悶絶するが、悠はそちらに視線を向ける事も無くラグドールに語り掛けた。
「お見事。流石は隊長殿」
「いや、今のは……!」
ラグドールが悠の言葉を訂正しようとするのを、悠は唇の前で人差し指を立て遮った。
やはりそうだ。今の一撃はラグドールに弾かせる為に放ったものに違いないとラグドールや他の隊員達は悟っていた。邪魔な外野とはいえ、悠が何かをすれば角が立つが、手合わせの最中の事故であればそれは回避出来なかった本人達の過失である。武人同士の神聖な手合わせを無粋な野次で汚す輩には『天鎧衆』の隊員達も気分を害していたので、彼らの顔には笑みがあった。
「……なるほど、ザガリアス様が気に入られる訳だ」
平原に吹く清々しい風がささくれ立った心を吹き抜けて行くようにラグドールには感じられた。
負けだ。技も心も全てで上を行かれてしまった。だというのに全く心に悔いも恨みも蟠りも存在しないのであれば、これはとても貴重な経験であったのだろう。
ラグドールは手にした長斧を部下に渡すと、悠に向かってその手を伸ばした。
「遅ればせながら挨拶を。ようこそ客人……いや、ユウ殿。儂は『天鎧衆』隊長ラグドールと申す」
「噂に違わぬドワーフの技量、しかと拝見させて頂いたぞ、ラグドール殿」
2人の手と手が固く結ばれると、他の『天鎧衆』が酒瓶と杯を用意し勧めてきた。その顔には悪戯っぽい笑顔があり、ラグドールもつられるように男臭い笑みでそれを受け取った。
「さて、せっかく知己を得ておいて乾杯が水では間が抜ける。人族では朝から酒は堕落か?」
挑発するように杯を掲げるラグドールに、悠は杯……では無く酒瓶の方に手を伸ばし、ラグドールの杯に軽く合わせた。
「なんの、迎え酒という言葉もあるくらいだ。酔って己を失わないのなら、朝から酒も悪くない」
「おお、人族が吠えよるわ。後で泣きを見ても知らんぞ?」
「そちらもな」
「クク、ハハハハハ!! 新しい出会いに、乾杯!!」
遂に呵々大笑し、ラグドールと悠は同時に酒瓶と杯を傾けた。悠が飲むはずだった杯を持った隊員はキョロキョロと周囲を見回し、残ったのならしょうがないかとわざとらしいジェスチャーを入れると、他の隊員が止める間も無く自分も杯を空け、その美味さに舌鼓を打った。
「これはいい酒だな!!」
「こら、まだ毒味も済んでいないというのに!」
「なぁに、毒味なら隊長とあの客人が済ませてしまいましたよ。……いや、もしかしたら他の瓶が危ないのかもしれないな。ここは一つ、俺がもう一度毒味を……」
真面目腐った顔で酒瓶に手を伸ばす隊員から別の隊員が奪い取ると、ラグドールに願い出た。
「隊長! 我々も毒味をしたいと思いますが宜しいでしょうか?」
「全く、ドワーフの酒好きは死んでも治らんな……」
呆れてみせてもラグドールの杯も既に空になっており、舌には幸せな余韻が残っていた。
美味い酒だ。おそらくは結構な高級酒だろうが、ドワーフにとって酒を飲むに当たって最も重要なのは味ではなく、酌み交わす相手であった。嫌いな相手と飲む酒はどれほど極上の逸品であっても泥水と変わらないが、気心の知れた相手と飲む酒は安酒であっても心が浮き立つものである。
ならばこの美味い酒と出会いに感謝し、1日の活力としよう。
「フ……一人一杯だぞ!!」
「「「オオオッ!!」」」
一杯の酒で前後不覚になるようなドワーフなど存在せず、ラグドールの許可に隊員達はこぞって自分の杯を取り出すと、思い思いに注ぎ、感謝の意を表してから喉を潤した。
束の間の共感であり、懐柔された訳でも何でもない事を悠は知っていた。彼らは優秀な軍人であり、今この瞬間にもザガリアスから悠を斬れと言われれば即座に刃を向けるだろう。
だが、個人の心は何者にも侵しがたい聖域である。同じドワーフにも殺したいほど嫌いな相手も居るだろう。ならば逆に、種族が異なっても気に入る相手が居ても不思議な話では無いのだ。
まずは一歩踏み込む、全てはそれからなのだから。
結局、精神構造が似通った生命体同士の個人間の好悪は国とか関係無いんですよね。むしろ植え付けられた主義主張よりよほど健全だったりします。
だから悠は『天鎧衆』が命令で悠を殺しに来たとしても怒ったり蔑んだりはしません。彼らはその命令に逆らえる立場に無いからです。
勿論、易々と首を渡したりもしませんが。




