10-75 拒絶2
慣れというのは恐ろしいもので、翌朝バローは痛飲したにも関わらず早朝に目を覚ました。
「くぁぁ……毒に耐性がついてから酒に強くなった気がすんな。やっぱり酒は毒なのかね?」
身体に影響を及ぼすという意味ではアルコールも性質としては毒に近く、ドラゴンの肉によって毒物耐性を得たバローは以前よりも酔いにくく醒めやすいのだ。二日酔いしないのは有り難いが、酒飲みとしては酔いが醒めるのが早いのは少々寂しく思わなくもない。
一晩寝て気分はいくらかすっきりしたバローは起き上がって身支度を整えると傍らの剣を掴んだ。
《不真面目に見えるが、剣に関してだけは誠実な男だ》
「女に対しても誠実だぜ、俺は」
すっかり馴染んできたサイサリスとの会話に軽口を返す。最初に起き抜けに話しかけられた時は、思わず知らない内に誰かを連れ込んだかとベットの隣を見たりして烈火の如く詰られたものだが……(夫が居るのに他の男と同衾などするかと怒られたバローである)。
《その誠実さがエルフ女に伝わらないのは全く残念な事だな?》
「うるせーよ! お前最初の時より性格悪くなってんぞ!」
《周囲の環境が悪いのだろう》
「口の減らねぇドラゴンだぜ……」
エルフにも娼婦や娼館は存在するが、バローにとっては誠に残念な事に人間が利用する事は出来なかった。これまで没交渉だった人間に簡単に肌を許すエルフは居らず、バローの容姿はエルフの価値観で言えば下に属する。悠も容姿ではエルフから見れば似たようなものだが、悠に下半身の欲求を手近な女性で晴らす嗜好は無いので特に問題はない。
ミルヒのようにバローの内面を見てくれる者は居るが、良家のお嬢様でもあるミルヒに手を出す訳にもいかず(もし手を出せばロメロはバローを殺すかもしれない)、悶々とした劣情を剣で発散する日々である。
無論、権力と財力を用いれば無理を通す事は出来なくはないのだが、レインの話を聞いたあとでは立場の弱い娼婦に付け込むような真似をする気も起きず、バローのストレス解消は専ら酒に依存するしかなかったのだ。
しかし、そのレインの伝手で人間相手でも構わないという者を探して貰えるようになったのだからここは我慢の一手である。下級娼婦の苦しみを知るレインであれば意に添わぬ娘に強要はするまい。アーヴェルカインでは性産業は税金を納めていれば違法では無いのだからバローも気兼ねなく遊べるというものだった。どうしても居ないようならレインが相手をしてくれるらしいが……容姿は申し分ないとしても少々後が怖い気がしなくもない。
(ロメロんとこのローリエなんて俺の好みのど真ん中なんだが……やっぱロメロの奴怒るかな?)
《ほら、朝からいつまでイヤらしい事を考えているつもりだ? 早く鍛練を始めて邪念を払え》
「はいはい、口喧しい相棒だぜ……」
邪な欲求を見透かされたバローは何故か日光の殆どを遮断する暗い邸内に辟易としながら部屋を出ると、ちょうどアルトが部屋を出た所であった。
「ようアルト」
「おはようございます、バロー先生」
流石アルトは朝でもだらしない気配など微塵もない凛々しい雰囲気を纏っており、性格が滲み出ていた。きっとバローのように朝から下世話な事など爪の先ほども考えていないだろう。
「夕べは黒骨野郎に捕まらなかったか?」
「……部屋の前で随分粘られましたけど、なんとか……」
アルトと同じ屋根の下でお泊まりというだけでテンションが限界突破するデメトリウスがアルトの寝所に入りたそうにこちらを見ている……では無く、直接的に突入しようとするのを何とか追い返した事を思い出したアルトは急に疲れたような曖昧な笑顔を浮かべた。
「人が好いのもほどほどにしておけよ」
「……善処します」
そう答えたアルトも手に剣を持っており、これから鍛練を行うつもりのようだ。
2人は連れ立って薄気味悪い廊下を抜け、屋敷の外に出ると更に薄気味悪いものを見る羽目になった。古戦場よろしく護衛のスケルトンが散乱する庭である。
「俺がエルフならこの屋敷にゃ近付かねぇな。どこを見ても和むってモンがねえ」
「人払いの効果はありますし、アスタロットさんは気にしないんじゃないですかね……」
「ったく、イカレてるぜ……」
客人として認識されたか命令されているかは定かでは無かったが、起き上がって襲ってくる様子もないのでバローとアルトは屋敷の右手に回ると、そちらには既に先客が居て剣を振っていた。
「シュルツ先生?」
「熱心なこったな。……いや、何やってんだあいつ?」
シュルツが剣に熱心なのは今更言うまでもないが、その剣の振りを見てバローは眉を顰めた。
一言で言えばシュルツの剣は風や水のように滞る事の無い流麗さが肝である。翻り、受け流し、切り払い、刈り取る。未だ完成を見ないバローのノースハイア流を基礎としたノワール流剣術と千年の歴史を持つシュルツ双剣流では技の洗練において何歩も譲らなくてはならないのはバローですら認めざるを得ない事実であった。
しかし、今バローが見ているシュルツの剣は普段のキレが全く無く、隣で見ているアルトにすら分かるほど粗雑で、言うなればただ力任せに剣を振り回しているだけの代物だ。こちらから見える距離で特に気配を断っていないバロー達に気付かないのが鍛練に身が入っていない何よりの証拠である。
「……」
見ていても改善の気配の感じられないシュルツの剣技にバローは無言で鯉口を切り、アルトを置き去りに一気呵成にシュルツに迫り、首に向けて袈裟に斬り下ろした。
「…うっ!?」
僅かに殺気すら篭るバローの剣にギリギリで反応したのは流石というべきであったが、背後から無理な体勢で、しかも片手で受けるにはバローの剣は重過ぎ、シュルツの剣が持ち主を見限るかのように甲高い音を立てて弾き飛ばされた。
「おい、不細工な剣をアルトに見せるんじゃねぇよ。真似して怪我でもしたらどうすんだ? あ?」
「……」
背後から斬り掛かられた事も自分の剣を不細工と言われた事も普段のシュルツなら絶対にこのままで済まさなかっただろう。アルトもバローがあまりにも直接的な手段を用いたのに驚いて硬直したが、きっと次の瞬間には双剣の片割れがバローを襲うに違いないと固唾を呑んで見守った。
が……。
「……済まん……」
シュルツの口から出て来たのは、蚊の鳴く様な謝罪の言葉だった。これには大いに虚を突かれたバローの前でシュルツは片手の剣を仕舞い、弾かれたもう一振りをノロノロと拾い上げると、それきり言葉を交わす事も無く屋敷に戻って行ってしまった。
「……」
「……」
残されたバローとアルトはしばし唖然としたまま案山子のように突っ立っている事しか出来なかったが、やがて頭が動き出すと、バローは剣を捨て、庭に生えている節くれだった木の幹を拳で殴った。
「……ンだよ、あいつ……テメェから剣を取ったら何が残るってんだよ!!」
バローはまるで自分の事であるかのように怒りを露わにして怒鳴ったが、アルトにはその気持ちが分かる気がした。
バローとシュルツは傍目に見ても仲が悪く、そもそも性格的にも全く合わない。口を開けば憎まれ口で、エスカレートすれば剣が出る間柄だ。
しかし、バローにとってシュルツとは最も身近な同格の剣士なのである。互いを凌駕しようとする凌ぎ合いが2人の力量を引き上げたのは間違い無く、未だに彼らの間でどちらが強いのかという結論は出てはいない。
だからこそ見たくはないのだ。そんな負けられないと思っている相手が気の抜けた剣を振るっているのが我慢ならないのだ。自分勝手な話かもしれないが、負けたくないからこそ強くあって欲しいのだ。
おそらく、人はそれを好敵手と呼ぶのだろう。
「剣一筋のシュルツ先生が気もそぞろに剣を振るなんてよほどの事情があるんじゃ……?」
「分かってるよ!! クソッ、一体なんだってんだ!!」
アスタロットの屋敷に来てからの歯車が狂ったような感覚に苛立ち、バローはもう一度木を殴り付けたのだった。
楽しんでいるのはデメトリウスだけって感じになっていますが、この何とも言えない居心地の悪い感覚はまだ続きます。