10-73 王子二人7
「……ぅ……」
アスタロットが目を覚ますと、そこはいつも通りの薄暗い部屋の床の上であった。
変わった事と言えば両手の乾いた傷跡と……命の色を映さない、死の黒を湛える『無常月夜』だけだ。
『無常月夜』よりも深い闇に沈んだ瞳でアスタロットはノロノロと体を起こすと、ふと目に入った本を手に取り、無茶苦茶に破り捨て叫んだ。
「クッ……ソがーーーーーーーッ!!!」
丹精込めて纏め、書き上げたドワーフについて書かれた本が紙屑となって床に散らばり、アスタロットは更にそれを踏みにじる。
「ワガハイの知恵も知識も何の役にも立たんではないか!! 何が悪かった!? 何があったというのだ!?」
現実から逃避するように、アスタロットはエースロットに何が起こったのか頭を回し始めた。既にエースロットが死んでいるならそれはまさしく現実逃避以外の何物でも無かったが、アスタロットはそうせざるを得なかったのである。
「……経過した時間からして、エースがしばらくの間はグラン・ガランに居た事はほぼ間違いは無い。ならばドワーフとの折衝は当初は上手くいっていたはずだ……。それがどうして急に殺し合いをする羽目になる!? 交渉でエースに不手際があったのか? ……いや、問答無用で殺し合わねばならんほどの不手際をエースが犯す訳があるか!!」
自問自答するアスタロットだったが、他方のドワーフに疑問を向けてもやはり理解には及ばなかった。
「当初はエースを受け入れていたのなら、ドワーフは資料通りの性格でエースを客として遇したに違いない。ならば交渉が決裂しても最悪追放される程度で済むはずだ! エースが何をしたと言う!?」
アスタロットの頭脳をもってしても謎だらけで確たる推測を立てる事は出来ず、しばらくして僅かに熱が冷めると、膝が力を失い床にへたり込んだ。エースロットを失ったという仮想の重力がアスタロットを苛み、栄養失調と脱水症状で弱った体で支える事は叶わなかった。
「……もう、二度とお前とは会えんのだな、エース……」
意識を失う間際のエースロットの姿は自分の不調が見せた幻だったのだろうか?
いかにもエースロットが言いそうな言葉と表情だったが、アスタロットは頭を振ってその幻影を追い払った。
救いを求めてはいけない。許されようなどと思ってはならない。エースロットは知識を与えた事に心から感謝していたが、エースロットを行動に駆り立てた責任の一端は間違いなく自分にあるのだから。
――父との約束を果たさねば。
ドワーフの国でエースロットが死んでしまったのなら回収は困難を極めるが、アスタロットの人生の目標は定まった。
もうエースロットに会う事は二度と無いのだ。自分の予測通りになればエースロットの死はエルフとドワーフの未来を定める事になる。ドワーフの下で死んだのならばドワーフはエースの事をエルフに伝えて来るだろうし、単なる行方不明であっても反戦派のトップを失ったエルフとドワーフは遠からず血で血を洗う泥沼の戦争に突き進むだろう。どんな理由があってもアリーシアはエースロットを殺した相手を許さないし、親友の死にハリーティアも冷静ではいられないはずだ。エースロットが争いを望んでいないと分かっていても、それを止めるべきエースロットが居ないのならば遅かれ早かれドワーフとの戦争は避けられないのである。
「エース……お前の勇気と善意は、お前が最も望まない方向に未来を導くだろう。何も知らぬ者達はお前を愚王と罵るかもしれんが、それは結果でしか無い。ワガハイは、ワガハイだけはお前がより良き未来の為に行動したのだと信じているぞ。だから今は……ゆっくり眠れ……」
父の死以来の涙を流し、アスタロットは長きに渡る孤独な戦いを密かに開始したのだった。
エースロットの死はアスタロットの予想通りエルフとドワーフの全面戦争を引き起こした。エースロットの死は病死として箝口令が敷かれたが、半ば公然の秘密として扱われ、新王に即位したアリーシアは一時喪に服した後に報復戦を開始。大賢者ハリーティアと共にドワーフ殲滅に乗り出した。
その間、アスタロットはこれまで以上に国との関わり合いを断ち、再びドワーフについての研究を煮詰めたりしながら日々を過ごしていた。王兄であるアスタロットを次の王にという声も多少はあったのだが、アリーシアと違い全く戦意の無いアスタロットを推す者はすぐに誰も居なくなった。
望んだ孤立ではあったが、他人と交わらない生活はアスタロットを以前にも増して厭世的な人物へと変え、エースロットがアスタロットの社会性の保持にいかに貢献していたのかを自覚させたが、自覚があるのと矯正するのとは別の話であり、やがてハリーティアが事故で死んだと伝わるとアスタロットの屋敷を訪れる者はほぼ皆無となった。
社会的に孤立したアスタロットがずっとそのまま生活していたならば偏屈を通り越して狂人の域に足を踏み入れていたかもしれないが、運命はアスタロットにその後幾人かとの出会いをもたらした。
それは才能を開花させた裏社会の若き頭目レインであったり、風の噂でアスタロットの事を聞きつけ突如屋敷を訪れたデメトリウスであったり、『異邦人』の少女マハであったりしたのであるが……その話は後の機会に譲る事にしよう。
長い回想を掻い摘んで悠に語ったアスタロットは本の山を掻き分けると真新しい装丁の本を一冊手に取り、悠に差し出した。
「ユウ、これはドワーフについてワガハイなりに纏めた物の最新版だ。これがあればドワーフについてある程度の知識を得る事が出来るだろう。……ただ、個人的に一つどうしても頼みたい事がある」
「何だ?」
「返還されていないエースの『無常月夜』を持ち帰って欲しい。あれは父上の形見であり、今やエースの形見なのだ。……エースの首は返ってきたが、逆に言えば返ってきたのは首だけだ。ドワーフが金を要求するならワガハイが払おう」
アスタロットの要請に本を受け取った悠は内心で僅かに疑念を抱いた。アスタロットがエースロットを何よりも大切にしていたという事は理解出来たが、エースロットの死の真相を調べて欲しいと言う前に装飾品を持ち帰れと頼む事に微妙な違和感を感じたからだ。事実、上で話していた時には『無常月夜』の事など触れもしなかったのだから。アスタロットもそれに気付いたのか、軽く視線を逸らして言葉を足した。
「……無論、グラン・ガランでエースに何があったのかは非常に気になるが、国の者達には重要でも所詮は過去、どうせワガハイはドワーフがここに攻め寄せて来る以外に彼らとまみえる事は無いのだ。それに、無理矢理吐かせようとしてもドワーフは喋るまいし、分かったのなら教えてくれればいいが、それよりもまだ返って来る見込みのある『無常月夜』を取り戻しておきたいというだけだよ」
実利を取るという理屈としてはおかしいとまでは言わないが、悠は直感でアスタロットが嘘では無いにしても全てを語っていないと感じた。しかし、『無常月夜』を取り返して欲しいというだけならば断わる理由も無い。しかも暴力的な手段に依らず買い戻す形でいいというのなら尚更である。
だが、念の為に悠はアスタロットを問い質した。
「……アスタロット、俺は『無常月夜』にどんな力があるのかを知らん。お前も全てを語ってはいまい。取り返す事に否は無いが、もしそれを悪しき目的の為に使おうというのなら、俺はその目的ごと叩き潰すが?」
「誤解を生んでしまったようだが、『無常月夜』を悪しき目的に使うような事は絶対にしない。ただ、どうしても必要なんだ……ワガハイは長い間待っていた、老公すら退け得る力と、ドワーフすら凌駕する精神力の持ち主を!」
アスタロットの目に嘘は無いが、悠はアスタロットが自分だけを連れて来た理由をおおよそ察した。おそらくアスタロットは最初から悠だけにこれを頼むつもりだったのだろう。デメトリウスとの戦いで思い立ち、上での会話で決したからこそここに連れて来たのだろうか。
しばらくアスタロットと視線を交錯させていた悠は、小さく頷いた。
「……分かった。だが元々がエースロットの物だとしても相手に譲る意志が無ければどうしようもないし、そもそも失われているかもしれん。必ず持ち帰るとは約束出来んぞ?」
「失われてはいない。この、ワガハイの『無常月夜』がそれを教えてくれる。もし破壊されたのならばワガハイには分かるのだ……」
懐から自分の『無常月夜』を取り出し、悠に見せ付けアスタロットは続けて答えた。
「どこにあるかは知らんが、必ず所在を知る者が居るはずだ。多分、王族に尋ねるのが一番確実だろう」
「そうか。ならばそうしよう」
「では今日の内にワガハイが教えられる事は教えておく。無事にグラン・ガランに辿り着いて貰わねば困るからな」
一応悠が承諾してくれた事にアスタロットは明らかに安堵した様子で講義を始めたのだった。
レインやデメトリウス、マハの事も書きたかったのですが、いい加減本筋に話を戻さないといけないのでまたの機会にします。