10-71 王子二人5
宣言通り訪れたエースロットが開口一番放った言葉は部屋の中に重苦しい沈黙をもたらしていた。彼ら兄弟の間にこの様な空気が醸し出されたのは初めての事である。
「……」
「……」
じっと視線を絡め合うアスタロットとエースロットの沈黙は数十分にも及んだが、いつまでも不毛な睨み合いをしていても埒が明かないと、意を決してアスタロットが口を開いた。
「……ワガハイは反対だ。少なくともお前が行く必要は無い」
「私で無ければ建設的な話し合いは出来ないと、兄上だけはご理解されているはずです。もはや一刻の猶予も無いのですから」
「だが、しかし……!」
エースロットの言っている事が正しいと知るアスタロットは言うべき言葉を見失い、拳を握り締めた。
エースロットがもたらしたのはアガレス平原でエルフとドワーフが衝突し、両者に多数の死傷者を出してしまったという凶報であった。しかも両者に身分の高い者達が混じっており、その場限りの話にするのは難しくなってしまったのである。
ただでさえ主戦論が優勢の中、その知らせは両国を戦争に駆り立てようとしていた。
これを収める方法は2つ。一つは戦争で勝敗を決するか、もう一つはどちらかが折れ、謝罪する事だ。
だが、そのどちらもエースロットには採りようがない。戦争などエースロットの最も望まない行為であり論外として、エルフが折れて謝罪するのも現実的には不可能である。もしエースロットがそこまでドワーフに対して弱腰を見せれば、貴族も国民もエースロットに不信感を抱き、王家は求心力を失うだろう。ドワーフとの戦争は回避出来ても、国内に不穏分子を増やすような真似をエースロットがする訳にはいかなかった。そしてドワーフは自分達が間違っていないと信じている事柄で先に頭を下げる事は有り得ない。
ならばどうするのかと言えば、エースロットは単身グラン・ガランに赴き、直接交渉するとアスタロットに言い放ったのである。状況からしてどちらが悪いというより双方に非があると感じたエースロットは喧嘩両成敗よろしく今回の件を収め、アガレス平原に関しては話し合いによって利用方法を決するべきだと思い定めたのだった。
この手段はエースロット以外には不可能な第三の選択であった。ドワーフを見下しているような者には絶対に任せられないし、相手の信頼を得るにはその文化や作法、礼儀に理解のある者で無ければならない。それらの条件を満たせる者はエースロットただ一人である。
「……ハリーやアリーシアは知っているのか?」
「言えば止められます。ハリーはそれなら自分が行くと言うかもしれませんが、ドワーフに詳しくないハリーでは交渉は成り立ちませんし、今から覚えるには時間が足りません。私が行くのが一番確実です」
「それはそうだが……」
理屈では正しいと分かっていても、アスタロットですら容易に首肯は出来ない話であった。エルフの国王が一人でドワーフの国に乗り込むなど、前代未聞にして空前絶後であろう。戦場に裸で突貫する方がまだ正気だと思われるほどの暴挙である。少なくともエルフの大半はそう考えるだろう。
エースロットが単独行に拘る理由は己の力を過信して、という理由では勿論無い。武を尊び勇を友とするドワーフとの交渉に徒党を組んで向かうのは、既にそれが見下げ果てた行為と見做される可能性が高いのだ。武で力を示せないエルフがドワーフと交渉しようと思えば、並外れた勇気、胆力を示すしかない。
アスタロットの説得を鈍らせるのは、それらの知識を全て自分がドワーフを解析し、纏め上げた物で、エースロットが信じているからであった。研究者として誓って嘘を書いたつもりはないが、自分の知識がエースロットを危険な単独行に導こうとしている事に何も感じないほどアスタロットは無感動では無いつもりだ。
(父上の懸念もむべなるかな。まさかエースを駆り立てるのが他でも無い、このワガハイであろうとは……!)
ブルームハルトはエースロットの善良な性格が王としては災いを招くのでは無いかと心配していたが、アスタロットはハリーティアやアリーシアが側に居る限り防波堤となってくれるだろうと特に気にしてはいなかったのだが、彼らの頭を飛び越えてエースロットに直接影響を与える人物については完全に失念していた。
即ち、国政や法の枠の外で自由を謳歌するアスタロット自身である。
アスタロットに政治の話を持ち込む者はおらず、もし居たとしてもアスタロット本人がそれを受け付けない。たとえそれがハリーティアやアリーシアであってもだ。そんな事はエースに言えと切り捨てるのみである。
唯一の例外は家族であるエースロットだけだが、その弟に付いている王という肩書きが問題であった。
そもそも他種族の研究を王族が行っているという事自体が殆ど2人だけの秘密であり、アスタロットとエースロットは知識を共有する同士であったが、その知識がエースロットの性格と結び付いた時、一体どういう事態を引き起こすのかを考えてはいなかった。アスタロットの世界はこの屋敷と自分、そしてエースロットだけでほぼ完結しており、不純物が入り込む余地など無かったからだ。
しかし、エースロットは違う。同じ顔を持つ弟は世間から隔離された場所で悠々と過ごす兄とは異なりエルフ全体に責任を負い、その枠を踏み越えようとしているのだ。
ブルームハルトが遺言を発した際の兄としての責任感を再びアスタロットは痛感していた。いつもいつも自分はそれを眼前に突きつけられるまで自覚出来ないのである。
なけなしの倫理観と社会性で感じた忸怩たる感情はアスタロットの口から、およそ本人も意識しないままに放たれた。
「……エース、ワガハイはお前に様々な知識を与えた事自体には後悔はない。王は誰よりも広く世界を知るべきだと思っているし、それによって見い出せる道があると信じているからだ」
「はい、私も兄上には感謝しています。だからこそ広い選択肢を持つ事が出来ました」
「そうではない! そうではないのだ!!」
感謝を口にするエースロットにアスタロットは激しく頭を振った。
「ワガハイの研究はワガハイの胸の内だけに留めておくべきだった! ワガハイはお前が素直に興味を持ってくれる事に喜び、無垢なお前を自分の嗜好に染めてしまったのだ! これで何かあればハリーやアリーシア、何より父上に顔向けが出来ぬ!!」
エースロットは分別がつく前にアスタロットの研究成果に触れた。過去、2人の王子はそれぞれ幼い内から異なる才能を開花させたが、エースロットは魔法の天才であっても頭脳や精神の成熟が早かった訳ではなかったのだ。まるで兄弟は才能を分かち合うようにアスタロットにその才能を与えていた。
アスタロットは知識を知識として感情から切り離して俯瞰する研究者としての目を持ったが、そうでは無かったエースロットの目にアスタロットの研究はどう映ったであろうか? 兄のもたらす情報をただ無邪気に貪り、その色に染め上げられてしまったのでは無いだろうか? 少なくともアスタロットはそう信じた。でなければエースロットのような人物は育つまいと。
だからアスタロットはその責任を取るべく席を蹴った。
「兄上?」
「交渉にはワガハイが行く。我らは双子、顔で判別は出来まい。お前以上の知識があるワガハイならば交渉は可能なはずだ。自信はあるが、ワガハイの研究が正しいのか、そうでないのか自分で確かめるいい機会だ」
「何を仰いますか兄上!?」
驚愕の提案、というよりも一方的な宣告をして歩き出すアスタロットをエースロットは慌てて止めた。
「放せエース!」
「放しません! そもそも兄上が誰かと平和的に交渉など不可能です!」
「ぐっ!?」
対人関係に難があると自覚はあるアスタロットである。
「それに兄上は大きな思い違いをなされています! 私の言葉をお聞き流されましたか!?」
「思い違いだと!?」
言葉に力を込めるエースロットにアスタロットは動きを止め、エースロットを振り返った。
エースロットは一点の曇りも無い瞳でアスタロットを見据え、再び口を開く。
「兄上が思うほど私は純粋でも無垢でもありません。いえ、それどころか兄上よりも自分の方が魔法を上手く使える事に優越感さえ抱いていました。表面上はそれを隠し、謙遜し、逆説的に私より魔法が上手くない兄上を無意識に貶めようとする、そんな子供だったのです……」
善良な弟の口から語られる真実にアスタロットはただ茫然と聞き入っていた。幼い頃を思い出してみても、アスタロットがエースロットに貶められた記憶は無いが、確かに優秀なエースロットが兄を立てると、それは逆にエースロットの評価に繋がっていた気はする。しかし、それは本当にエースロットが優秀だからであり、アスタロットにとってエースロットを蔑む要因にはなり得なかった。子供とはそういうものだ。
だが、無意識にエルフの増長を抱えていたエースロットの目を開いたのはアスタロットだったのだ。
「兄上が初めて私に自分の研究成果を見せてくれた時の事を私は今でも覚えています。殆どのエルフが長い寿命を持ちながら外の世界に関心を持たない中、兄上の目はこの国を飛び越えてもっと広く、大きなものを追い求めていました。……私はそんな事を考えた事もなかったのに。ちょっと魔法が上手く使えるだけで兄上に勝ったつもりでいた私は、それこそ世界がひっくり返るような衝撃を受けたのです」
凍り付くアスタロットの服から手を外し、エースロットは自分の胸に手を当てた。
「もし兄上が居なかったら、私は他のエルフと大差のない者になっていたでしょう。魔法の才能をひけらかし、逆らう者はエルフだろうとドワーフだろうと殺してしまえ、自分に劣る者は無価値だと断じる暴君となっていたかもしれません。……兄上はそんな私に世界の広さを教えて下さいました。父上は限りない愛情で私を育てて下さいました。もしお2人が今の私を好ましく思って下さるのだとすれば、それはお2人が私を真っすぐに生きられるよう愛して下さったからなのです。だから私は兄上に深く感謝しているのです。……これだけ言葉を尽くしてもまだ私をお疑いでしょうか?」
エースロットの心からの言葉に、視線に、熱に打たれ、アスタロットは力無く床に腰を落とした。
自分がエースロットを変えたなど、思い違いどころか思い上がりだ。弟は、エースロットは自分の知識を咀嚼し吸収して、更に大きな人物へと成長していた。既にエースロットは自分の手から離れ、もっと大きな世界へと飛び立とうとしているのだ。そんなエースロットに掛ける言葉はアスタロットの中に残されていなかった。
「大丈夫です、兄上の授けてくれた知識と知恵が私を助けてくれます。父上から賜ったお守りが私を守ってくれるでしょう。そしてハリーやシア、ナターリアを遺して父上の御許に行くつもりはありません」
膝を付き、優しく背中を撫でるエースロットにアスタロットは項垂れたまま口を開いた。
「……お前を信じなかった事など生まれてから今に至るまで、一度としてあるものかっ! だが、だがそれは所詮ワガハイの知識だ、確実に安全を保障するものではない!! そうで無くてもドワーフを言葉で説き伏せるのは非常に困難だと言わざるを得ん!! 頼むから考え直せ!!」
アスタロットは感情のままに声を放っていた。エースロットの事ならどこまででも信じられるが、自分の事は信じられないのだ。
アスタロットの言葉にエースロットは寂しげな笑顔を浮かべ、首を振った。
「兄上、私は今日、生まれて初めて兄上の言葉に背きます。私は私が信じるものの為に行かなければならないのです。兄の忠告を聞かぬ愚かな弟をお許し下さい」
アスタロットがエースロットの服を掴む前にエースロットはそっと身を引き、深く頭を下げた。
「少し時間は掛かるかもしれませんが、帰って来たらまた顔を見せます。くれぐれも私がグラン・ガランに行ったという事は伏せておいて下さい。この事は私と兄上だけの秘密です。……では、行って参りますね、兄上」
「エース、エースッ!!!」
不退転の意志で歩みを進めるエースロットを、アスタロットはただ見送る事しか出来なかったのである。
悠やハリハリ達に語った事だけがアスタロットの真実ではありません。アスタロットにとって重要なのはエースロットという人物の形成に自分が部分的であろうとも関わっているという一点であり、自分の罪なのだと認識しているという事です。