10-68 王子二人2
一つの時代が終わろうとしていた。治世数百年、大過なく国を治めて来たブルームハルトは今、枯れ枝のように細った体を豪奢なベッドに横たえ、来るべき死を待つ身であった。
「エースロット……」
枯れ木の洞から吹く微風のような声がブルームハルトから漏れ、エースロットは自力で満足に持ち上げる事も出来ない父の手をしっかりと掴んで呼び掛けに応えた。
「父上、エースロットはここにおります!」
「おお、おお、エースロット、愛しの我が息子よ……」
腕を上げる力どころか既に視力すら失っているブルームハルトの顔に僅かに生気が戻り、笑顔を結ぶ。
しかし、死を退けるほどの力にならない事は主治医に言われるまでもなくこの場の全員が理解していた。他ならぬブルームハルト自身が一番それを深く理解しているのだ。
これから紡がれるのは遺言である。
「エース……お前は、とうにこの父を超えた……親として、これほど嬉しい事は無い……」
「私などまだまだ未熟な若輩者に過ぎません! もしそう見えるのであれば、それは支えてくれる者達と父上のご指導あればこそです!」
「いや、もう余は必要無い……ハリーティア、アリーシア」
「「はい、陛下」」
それぞれの手をエースロットの肩に乗せ、ハリーティアとアリーシアはブルームハルトに応えた。
「エースを、頼む……大賢者と史上最年少で『風将』となった才媛が付いていれば、きっと余の治世よりも国が栄えていくと信じておるぞ……」
「過分な呼称ですが、ご期待に添えるよう努力致します」
「私が居れば大丈夫です。義父上は安心してご静養下さい」
控えめなハリーティアと自信の漲るアリーシアの答えにブルームハルトは小さく頷いた。
「頼もしい事よ……後顧の憂いが無いとこうも気持ちが安らぐか……」
ブルームハルトはしばし余韻に浸ると、エースロットとアスタロットだけを残して他の者達は外に出る様に申し付けた。主治医すらも退室させ、親子3人だけとなると大きく息を吐く。
「父上、あまり雰囲気を出す物ではありませんぞ」
「アスタロット、お前なら分かっているはずだ。その気遣いを他の者に対しても出来る様になれば余計な敵を作らずに済むのだがな?」
「その手の美徳は全部母上の腹の中でエースに押し付けましたので」
泣きそうな顔をしているエースロットの頭をくしゃりと掻き乱し、あえてアスタロットは軽快に答えた。父が長くない事はアスタロットにも分かっていたが、せっかくの親子水入らずの時にしんみりするばかりでは精神衛生上良くないと思ったからだ。ブルームハルトもそれを察し口の端を吊り上げた。
「……長くは話せん、本題に入るとしよう」
口元を引き締め王の仮面を被ったブルームハルトは通り一遍の王族としての心構えと当面の政治的問題、各家の動向や今後の展開などを伝え、エースロットを再び近くに呼び寄せた。
「エースよ、お前の力、始祖の力は……」
漏れ聞こえる話から距離を取り、アスタロットは父の声に真剣に相槌を打つエースロットから目を逸らした。エースロットにはこれから王としての務めが待っているのだ。これは戴冠式とは別の、本当の意味で古い王から新しい王への引き継ぎの場であった。
ブルームハルトが首から下げていた半分黒く、半分黄色の宝石が嵌め込まれた首飾りを苦労して外し、エースロットに手渡す。おそらく何か由緒のある品なのだろう、一見しただけでアスタロットはそれが何らかの魔道具であると見極めた。……もしかしたら形見のつもりなのかもしれない。
「エース……アスタと2人にしてくれるかね?」
エースロットに渡すべき物を全て渡すと、ブルームハルトはエースロットに部屋を出る様に言いつけた。エースロットだけを残すならまだしも、アスタロットだけに残れというのはアスタロットには意外な言葉であった。
だがエースロットはそれを詮索する事無く頷き、アスタロットに父を任せて部屋を出て行く。
「……父上、ワガハイだけを残して何を? エースには聞かせられぬ話なのですか?」
「……」
ブルームハルトは何かを迷うかのようにしばらくの間口を閉ざしていたが、やがてノロノロと動き出し、自分の枕の中に手を入れ、何かを手探りで抜き出した。
「それは……!?」
そこから現れたのはエースロットに渡した首飾りと全く同じにしか見えない首飾りであった。いや、アスタロットの記憶が確かならば、色が逆だ。
「アスタよ、エースは危うい。あの子の優しさはいつか身を滅ぼすかもしれん。余は、それが何よりも恐ろしく心残りだ。せめてエースにお前の半分でも、10分の1でも他人を疑う用心深さがあれば……!」
アスタロットにはブルームハルトの心配が痛いほどに理解出来た。
エースロットはおよそ誰かを疑ったり憎んだりする事とは無縁の性格をしているのは周知の事実であり、それを誰かに付け込まれ、その身を危険に晒すのではないかと心配しているのだ。本人にその意識が無ければたとえ護衛が居ても本当の意味で警戒は出来ないのである。
しかし、その純粋さがエースロットをエースロットたらしめているという事も家族である2人は分かっていた。疑り深く他人を容易に信じないエースロットなどエースロットでは無いのだと。
「王は用心深くなければならん、奸智に長けていなければならん、誰よりも生き汚くあらねばならん! 表向きは善王の仮面を被っていても、心中には誰を蹴落としても勝ち続けるという漆黒の意志を持たねばならんのだ!!」
見た事も無い父の形相にアスタロットはよろめいて一歩後退った。そこに居たのはアスタロットが知る父では無い、エルフィンシード国王ブルームハルトの真の姿があった。
ぜいぜいと肩で息をしながらも、爛々と見えないはずの瞳を輝かせるブルームハルトは幾多の戦争、宮廷闘争を勝ち抜いた怪物であったのだと、アスタロットは今更のように悟っていた。
「『幽霊部隊』だけでは足りぬ! ああ、アスタロットよ、もしも、もしもお前がエースと同じだけ力を持っていれば、余はお前を王にして本当の意味で安らかに逝く事も出来ただろうに!」
「父上、お声が大きゅうございます!!」
「っ……す、済まぬ……」
起き上がり掛けていたブルームハルトの肩を押さえアスタロットが促すと、ブルームハルトは狂想から醒めたようにベッドに深く沈み込んだ。
「……アスタよ、これが余の本心だ。エースには何の力も無くて良かった。あの子には平穏な人生を与えてやりたかった……。それがきっとエースにとって最も幸せな生き方であっただろうに……」
王としての仮面が剥がれたブルームハルトは父の顔に戻って慟哭していた。エースに力があるゆえに過酷な王としての生き方を押し付ける自分の醜さに悶え苦しんでいるのだ。
アスタロットはこの時初めて自分の存在が父を深く傷付けていたのだと戦慄した。魔法において無能な兄という立場をアスタロットは受け入れていたが、その為に茨の道をエースロットに示さざるを得なかったブルームハルトの苦悩などアスタロットは考えた事も無かったのである。
「……申し訳ございません、父上。ワガハイは父上とエースの優しさに甘え、ただ自由を貪って……!」
「よい、よいのだ、お前もまたお前の生きたいようにしか生きられぬ性の持ち主だと余は知っておる。ただ、逝く前に誰かに知っていて欲しかったのだ……力を司る名も知らぬ神がエースを選んだのであれば、これは避け得ない運命だったのだから……」
力を使い果たしたかのようにしばらく目を閉じていたブルームハルトであったが、再び目を開いた時にはあの爛々とした、王の目でアスタロットを射抜いた。
「だがアスタよ、お前も王族であれば覚悟を決めて貰わねばならん。たとえ畜生と謗られても、王家の為ならば余は甘んじて受け入れよう。お前に命を掛ける覚悟はあるか? あるのならばこの首飾りを手に取るのだ!」
震える手で首飾りを握り締めるブルームハルトに気圧されながらも、アスタロットは考えた。
王家の為。正直王家などに大した魅力は感じないが、それを父が守り、弟が継ぐ物なのであればアスタロットにも命を掛けて守るべきものであると素直に思えた。その為ならばアスタロットにはどんな事であろうとも耐え抜く覚悟がある。
案外、不真面目な自分も根っこの所では王族だったのかもしれないと若干のおかしさを感じながらも、アスタロットの手が伸び、ブルームハルトの手に重なった。
「悪鬼だろうと畜生だろうと、父上とエースの為ならばこのアスタロット、どんな悪名も厭わぬと誓います。なんなりとご命令下さいませ」
「……済まぬ……」
蚊の鳴く様な力の無い声で呟いたブルームハルトは感情を無理矢理抑え付け、アスタロットにやるべき事を言い遺し――それから3日後に崩御した。
若き王、エースロットの時代が訪れたのである。
ブルームハルト崩御直前の会話。性格的には柔和なエースよりも型破りなアスタを頼もしく思っていたんでしょうね。父の愛は平等に注がれていますが、王という立場が彼を苦しめるのでした。




