Track 1 Intro~Track 2 Move your body
年齢制限ありません。若干のルビあり。
Track 1 Intro
俺は、神も悪魔も崇めない。
存在を認めはするけど、信仰はしない。
神様方は世間で大仰に祭り上げられていたりするし、悪魔だってコアな趣味の連中には人気がある。
でも、俺は信仰しない。
だって――
Track 2 動き出す-Move your body
「……もういっぺん言っていただけますか、理事長。俺らは誰と――いや、『何と』一緒に暮らすんですって?」
なんとも頭の痛くなるような話だった。はい分かりましたと簡単に返事をするには抵抗のある、ちょっと困った話。聞き間違いとか言い間違いだったら嬉しいなあと思いながら、ずれた眼鏡を直しつつ目の前の女性に確認をとってみた。
「人ではない者たち。正確には、神と悪魔と女神と悪鬼と一緒に暮らしてもらいます」
答え、変わらず。テーブルを挟んで向こう側に座っている女性は穏やかな微笑みを崩さないまま、俺の淡い期待を打ち砕いてしれっと言ってのけてしまわれた。
年の頃は三十前、薄紫のブラウスと胸元に巻いた明るい紫のスカーフ。黒のタイトスカートにダークブラウンのストッキングを合わせた、落ち着いた服装。さっぱりとした栗色のショートヘアに、アンダーフレームの眼鏡がよく似合っている。雰囲気に凛々しさを纏い、顔立ちにあどけなさを残した、一輪のスミレを思わせる美人。
涼しげな声は聞く者の精神を安定させてくれる効果があるけど、それをもってしても補えないほどびっくりな内容の話だ。
「銀司、警察を呼べ。私は救急車を呼ぶ」
「まあまあ、ちょっと待とう」
やや低い声で強制終了させにかかってきたのは、俺の隣に座っている小柄な少女だ。
身長は百七十一センチの俺に対して百五十センチそこそこ、頭一つ分低い。セミロングで、バックからサイドにかけて前の方が長くなるよう斜めに切り揃えた黒髪。少し袖の余ったリボンタイの白いセーラー服に、黒いストッキング。
手は小さく脚もほっそりしているけど、猫科の猛獣のようなしなやかな強靭さが見て取れる。整った顔立ちと鋭く光る目は、一度見れば忘れられないぐらい綺麗だ。ただ、そこにあるのは単純な綺麗さではない。花のように儚い美しさでは、決してない。凶暴な気高さとでも言えばいいんだろうか、例えるなら――一振りの、抜き身の刀。
恐ろしく、そして愛しき我が妹、神群緋那である。
「もう少しちゃんと話を聞いてみた方がいいと思うんだ。俺たちが何か誤解してるだけかもしれないし」
「議論の余地はないと思うぞ。色々と世話になった恩は感じているが、こいつは見た目に反して中身は狂っている」
歯に衣着せぬとは正にこの事、ばっさりと切り捨てやがった。我が妹ながらこういうところは良くないんだけど、如何せん身体能力で俺が負けるのであまり強く出られない。
「そういう事を言っちゃダメだ。理事長、本当に申し訳ありません」
「気にしていないわ。このぐらいの反応は予想していたから」
ああも正面から言われれば普通は激怒するってのに、よくできたお人だ。けど、話がまだ終ってない以上は緋那の暴言が続く可能性がある。今からでも緋那を退場させたいけど、俺たち兄妹に関わる重大な話をしているわけだからそうもいかない。
事の始まりは一ヶ月ほど前、緋那の母親であり俺の母親代わりであった女性――神群紗那さんの急逝に端を発する。年が明けて、中三の俺と緋那はそろそろ高校入試の準備という頃、校内放送で突然に呼び出された。青い顔の担任が言葉を選びながら伝えてきた悲報は、あまりに突然過ぎて実感が湧かなかった。
おかしい事だらけの状況で、県道の脇に乗り捨てられた車から何キロも離れた森の中で、『眠っているように倒れていた』というのが第一発見者の証言。外傷はなく、三十半ばという年齢を考えれば脳梗塞とか心筋梗塞の可能性は低いし、持病も特になし。どこをどう突ついても自殺の証拠も他殺の根拠もなし。不審な点ばかりだけど、警察の結論は『突然の自然死』。
もちろん俺も緋那も捜査の継続を訴えたけど、警察としては他に結論の出しようがないと言われてしまった。となれば、中学生二人に何ができるわけもない。
神群紗那という人は、こうして俺たちの前から姿を消した。親戚はおらず旦那さんは緋那が生まれる前に亡くなっていたから、残されたのは実の子である緋那と、赤ん坊の頃にどこぞで拾われたという俺。血の繋がりはないけど兄妹として育てられた二人、神堂銀司と神群緋那。
実感のなかった悲しみは、遺体と対面した時に突然その牙を剥いて襲い掛かってきた。動く事も喋る事も、目を開ける事さえもなく横たわる紗那さんを見て、心が圧し潰されて砕け散るような感覚を瞬間的に味わった。
でも、泣きはしなかった。同い年ではあっても俺の方が兄貴だから、妹の前で先に泣くことはできない。緋那は泣く事も忘れたように呆然と立ちすくむばかりだったから、俺は石みたいに硬く冷たい紗那さんの手を握って、必死に涙を堪えていた。
けど、ただ悲しんでいるわけにもいかない。人が死ぬというのは大変な事で、役所への届出だとか保険の話だとか葬儀の手配だとか、とにかく残された者はやらなきゃいけない事がたくさんある。とは言っても、中学生二人でどうにかなるものじゃない。右も左も分からず途方に暮れる俺たちに、手を差し伸べてくれたのが理事長――都築瞳さんだった。
紗那さんは破天荒なところもあったけど思慮深い人で、いつでも二手三手先を読んでいた。荷物の中に俺たち宛ての手紙が入っていて、そこに書かれていたのは電話番号と理事長の名前、そして『万一の場合にはこの人を頼りなさい』という一文。藁にも縋る思いで連絡をとり、初めて話す相手に紗那さんの死を伝え、そこからはあらゆる手続きを理事長が代行してくれた。
俺たちは会った事はなかったけど、紗那さんとはかなり古くからの友人だったらしい。隣の県にある轟天学園という私立校の理事長を務めていて、忙しいだろうに二日と空けず俺たちの所に顔を出し、遺産相続の問題まできっちり、俺たちが不利益を被る部分を最小限に抑えて、理事長自身には何の見返りもないまま凄い効率で全てを片付けてくれた。
自分に万一の事があった場合にまで備えるほど思慮深いくせに、行動や言動は破天荒だった紗那さんの、『死んだらそのまま焼くか埋めるか。面倒な法事なんかいらない』という言葉を尊重した簡素な葬式。手続きも一段落し、そして紗那さんが亡くなってからちょうど二週間という今日、再び理事長が俺たちの家にやってきた。話の内容は、俺たちのこれからについて。
遺産と言えるほどの金銭は遺されず、今住んでいる家は借家なので当然家賃が発生する。あと二ヶ月そこら、卒業までなら何とか生活していけるぐらいの金はある。けど、そこから先の保証がない。高校進学にはそれなりに金がかかるわけで、成績優秀な緋那は推薦でも奨学生でも狙えるけど俺はそうはいかない。進学を諦めて働くつもりで就職情報誌なんぞを買ってみたりもしたけど、中卒で働けるところはなかなかなくて困っていた。
そこに理事長が持ってきてくれた話が、引っ越しである。
隣の県にある一軒のお屋敷、そこに移り住むなら理事長が経営する轟天学園に、特待生扱いで入学させてくれるというのだ。
轟天は十年ほど前にできた、幼稚園から大学までを持つ私立の学園で、充実した設備と自由な校風で学生間での人気はかなり高い。ここに通っているというだけでステータスになるけど、その分レベルも決して低くはない。学年全体で中の上ぐらいな俺の学力では受けるだけ無駄という所、さらに特待生なら入学金なども一切免除。まさに渡りに船だけど、うまい話に裏があるってのはこの世の常。条件として理事長が提示してきたのが、さっきの話なのだ。
「順を追って説明すると、まず神や悪魔――総称して神魔と呼ばれる存在は、はるか昔から争いを続けているの。その一部は、神話や伝説として人間たちにも伝えられているわ」
「はあ」
穏やかな笑みを崩さず、落ち着いた声で解説してくれる理事長。対照的に、緋那は完全に胡散臭い人を見る目で、元々鋭い目付きが輪をかけて剣呑になっている。
「ところが、ここ百年ほどで状況が変わってきたの。長い間、それが義務であるかのように神魔は争い続けてきたけど、戦いに疲れた……というよりは飽きた者たちが出てきて、次第に厭戦ムードが広がっていった。最近は目立った衝突もなく、小康状態になっているわ」
「はあ」
我ながら間抜けな返事だと思うけど、話の内容が突飛過ぎるのがいけない。他に返しようがないんだからしょうがない、いきなり神だの悪魔だのなんて言われても困るのだ。
「大雑把に言えば、それぞれの神話は一つの大きな括り。その中で神と魔の組織に分かれていると思ってくれればいいわ。各陣営の主神にあたる者たちが何度となく話し合いを重ねて、これから先は仲良くするか少なくとも不干渉、争うのは止めようという結論に落ち着いたの。戦いを望む強硬派もいるけど、上層部が停戦で合意している事もあって少数派ね。殆どの神魔は、争いを続けるのが面倒になっているわ」
面倒って……まあ、理由はどうあれ喧嘩してるよりは仲良くしてる方がいいか。
「そして、ここからさっきの話に繋がります。和解するのであれば敵としてではなく仲間として相手を理解する必要がある、そうは思わない?」
「間違ってはいないですね」
「でしょう。それにあたって上層部が決めた案というのが、一つ屋根の下で共に暮らすというものなの。勝手の違う人間界という環境の中で、協力して生活する。昔から言うでしょう、『同じ釜の飯を食った仲』というやつね」
うーん、話の筋は通っちゃいる。しかし、神やら悪魔やらの偉い連中が話し合った結果がそんな人間くさい結論だとは……ちょっと認識を改める必要があるな、こりゃ。
「直接敵対している関係ではさすがに難しいけど、その辺りも考慮した人選の結果、誰が参加するかは既に決まっているわ」
「敵対しない関係ってのはどういう事です?」
「登場する神話が違えば、お互いの存在は知っていても基本的に関わりがないわ。大きく分ければ神と魔でも、別々の神話からの人選ならそこまで揉めないという事よ」
なるほど……物事は、最初からトップギアというのはうまくいかない事が多い。肉を焼くのだって、終始強火のままじゃ外が焦げて中は生焼けだ。
大きく分けて二つの勢力があるなら、その中でもうまくいきそうな関係から選び出すというのは正しい判断だと思う。
「でも、いきなり人間社会に放り込んでうまく生活できる筈がない。そこで、人間という中立の立場の存在を、大家として参加させる事になったの」
「……そこまで言われれば、いい加減分かります。俺と緋那に、大家をやれと」
「その通りよ。同居人は四人、それぞれの陣営から毎月の家賃が振り込まれるから、生活費の心配は不要。君たち自身が大家だから、当然家賃も不要。どうかしら?」
どうかしら、と言われても軽々に答えられる話じゃない。金銭面での不安が大部分取り除けそうであるという事、轟天に編入できるという事は非常に魅力的だ。でも、実生活の部分の不安定要素が大き過ぎる。人見知りはしない方だと思うし、これが外国人相手とかなら何とかやっていける気はするけど、人間じゃないんだものなあ。
「都築。まだ話は残っているのか?」
と、俺に窘められてから黙りこくっていた緋那が口を開いた。声のトーンからして友好的な発言ではなさそうだ。嫌な予感がする。
「細かい説明はこれからだけど、大まかなところは以上ね」
「分かった。結論を伝える、今すぐここから出て行け」
「こら!」
予感的中。何てこった、注意したにも関わらずまったく聞いちゃいない。
「そんな失礼な言い方は止せ。言っていい事と悪い事があるぞ」
「お前が言わないから私が言うんだ。戯言にしても酷い、聞くに堪えん無駄話だぞ。私たちの今後についてというから聞いていれば神だの悪魔だのと、人を馬鹿にするにも程がある」
意図的に強い言葉を選んでるな……その部分はよくないと言えるけど、緋那の反応は決して変じゃない。性質の悪い冗談、普通はそう捉える。でも、そんな悪ふざけをしてまで俺たちを騙すメリットが、理事長にあるだろうか。あるとしても、こんなあからさまに信用されない題材を選ぶだろうか。それこそ否だろうと思うゆえに、俺は頭ごなしに否定できないのだ。
「理事長、はっきり言ってそのお話が本当だとはちょっと信じられないです。だからこそ緋那も反発してる、それはご理解いただけますか?」
「ええ。私も、簡単に信じてもらえるとは思ってないわ」
「俺は、色々とお世話になった事もありますし理事長を信じたいとは思います。ただ、いくら何でも想定外過ぎるんです。はい分かりましたと簡単には言えませんよ」
「もう相手をするな。追い出すなり警察を呼ぶなり、次のステップに移行する段階だ」
ええい、俺が穏便に話を進めようとしてるのにこの妹は!
「緋那、ちょっと黙ってろ」
不満そうに口を閉じる緋那。やれやれ、こりゃ後で一悶着あるな。
「私は病気でもないし、精神異常でもないわ。ただ、君たちが知らない世界を知っているというだけ。神魔という存在について知っているだけよ」
「そうです、俺たちはその存在を知らない。というより、理解できない。こういう言い方はなんですが、証拠もなしに信じろというのは……」
「見たいのなら、見せてあげるわ」
思わず、緋那と顔を見合わせてしまった。見せてあげる? その、神魔とかいう連中が存在する事を証明するってのか?
「後で話そうと思っていたけど……」
理事長の右手の人差し指が、テーブルの上の湯呑みに向けられた。細く、ひび割れなんかもない綺麗な指。ナチュラルカラーのマニキュアで、爪が僅かに艶めいている。
「私も、神魔の一人なの」
優雅と呼ぶに遜色ない鮮やかさで、弧を描くように腕を動かす。
それに合わせるように、いやまさしく合わせたんだろう。湯呑みの中のお茶が、空中に飛び出して一本の紐を形作った。先端は理事長が指す先を追って、直線になったり円になったりと様々な図形を描いていく。
俺も緋那も、目を丸くして見ているしかなかった。有り得ない。これは、有り得ない。地球上には重力というものがあるから、噴水のように下からの力がない限り、液体が上に向かっていったりはしない筈だ。少なくとも、お茶が自発的に宙を舞うなんて事はない。
三角形、四角形、星型と図形はどんどん複雑化していき、最終的に平等院鳳凰堂が球体に収縮して空中に留まったところで、理事長が俺たちに声をかけてきた。
「神群さん。これを手品や奇術の類だと思う?」
「……現時点でそう断定できる材料はない」
ゆっくりと湯呑みに帰還していく丸いお茶を見ながら、悔しそうに緋那が呻いた。どうやったってあんな手品は無理だと分かっているんだろう。触れずに物を動かすだけなら、見えにくい紐なりを付けたりとか、方法がないわけじゃない。訓練すれば、指の軌跡を追っているように見せる事もできるかもしれない。
でも、液体の場合は形作らせる器が必要だ。仮に俺たちの想像を超えるトリックがあったとしても、俺たちの家で、ついさっき淹れたばかりのお茶にどう仕掛けられるってんだ。
「都築瞳は人間としての名前で、神としての名前は別にあるの。今はそれほど派手な事はできないけど、少なくとも人間に不可能なちょっとした事は幾つかできるわ」
「……実に信じ難い話ですけど、見た以上は信じるしかないですね」
「待て、銀司。私たちが幻覚を見せられているという可能性は?」
「それはそれで人間には不可能だろ」
「……そうだな……だが……いや、しかし……」
態度は冷静を装ってるけど、かなり混乱してるなあ……どうにかして理事長が神魔だという話を否定したいようだけど、根拠がない。見せられた内容が『人間にはできない事』という、あまりにも単純過ぎるものだからだ。百聞は一見に如かずとはよく言ったもんだ。
「少し考える時間が必要でしょう。今日はこれで失礼するわ」
「すみません、そうしていただけると助かります」
「私の話を受けるか断るか、君たちの判断を尊重します。断ってこの家に住むというのも一つの選択肢だから、それも含めてよく考えてちょうだい」
たった今まで自分が踊らせていたお茶を普通に飲み干して、理事長は帰っていった。
残された俺と緋那は、暫く無言で座っていた。何か言わなきゃとは思うんだけど、言葉が出てこないのだ。隣に座る緋那の表情は窺い知れず、考えている事も読めない。
いかん、これじゃダメだ。落ち着いて考えるのは大事だけど、それが停滞に繋がってはいけない。凝り固まった空気を動かすように立ち上がって、できるだけ自然にテーブルの上を片付ける。湯呑みをざっと洗って布巾で拭き始めた時、痺れを切らしたように緋那が言った。
「……まさか、あんなものを見せられるとは思わなかった」
同い年とはいえ、誕生日の関係で一応は俺の方が年上だ。なのに、十年以上も一緒に暮らしてきて未だに『お前』呼ばわり。殴られる事も蹴られる事もあるし、投げも極めも絞めも容赦なく使ってくる。胸はないけど度胸は満点の怖いもの知らず、思考は即断即決の一刀両断。答えは我が内にあり、問いあらば其を掴み出すのみというスパルタンなガール。
「未だに夢だったのではないかという気がする……お前は、どうするつもりだ?」
その緋那をして、結論をすぐには出せないという難題。まあ仕方ないだろう、何しろ相手が悪過ぎる。人類史上、この問いにぶつかった人が果たしていただろうか。神や悪魔の存在を信じろというだけならまだいいけど、一緒に住めとは。
「受けるかどうかはまだ判断が難しい。だけど、少なくとも理事長の話は本当だと思う」
「それはつまり、あの話を信じるという事か」
「信じられる要素は理事長が出した。逆に、嘘だと言える根拠はないだろ」
「それは、確かにそうだが……」
苦い表情。なんだかんだ言って緋那は常識人だから、ああいう事態に混乱してしまうのは当たり前だ。根拠がなければ子供騙しにもならない話だけど、だからこそ根拠があると困るのだ。
でも、緋那が迷っている理由はそれだけじゃない。伊達に十年以上も兄貴をやってきたわけじゃない、だから何が引っ掛かっているのかも分かる。
「この家、離れたくないんだろ?」
ぴく、と緋那の肩が反応した。考えを言い当てられた時の癖その一だ。
「分かるよ。ずっと住んできた家だし、ここには紗那さんの思い出も沢山ある。別の家で暮らせって言われて、簡単に『はい』とは言えないよな」
「……知った風な口を利くな」
癖その二、顔を背けて不貞腐れる。まったく、優しい奴だなあ……そりゃ俺だって気持ちは同じ、ちょっと狭いけど慣れ親しんだ我が家だ。引っ越さずに済むならそれに越した事はないけど、思い出が沢山あり過ぎるのが緋那にとってマイナスにならないかというのが心配なんだ。
態度はぶっきらぼうなところがあるけど、心根は優しい。いや、優し過ぎる。俺は思い出とうまく折り合いをつけながらやっていける自信があるけど、緋那がそれに囚われてしまって前に進めないんじゃ何の意味もない。
残酷な言い方だとは分かってるけど、もういない人の為に緋那の人生を暗くするわけにはいかないんだ。今のところ表面上は落ち着いているけど、どう転ぶかはまだ予断を許さない。緋那の為に必要なら、この家を捨てる覚悟はある。
「緋那は、どうしたい? この家に残るのもいいって、理事長が言ってただろ」
「残る……いや、しかしそれでは……」
テーブルに肘をつき、重ねた手を口元に当てて考え込んでいる。理事長は俺たちの判断を尊重すると言ってたけど、俺はできる限り緋那の判断を尊重したい。確固たる意志の元に決めた事なら、どちらでも賛成しようと思う。
「私は……」
顔を上げ、俺を真正面から見据えてきた。攻撃的だけどとても綺麗な、深く透き通った瞳。炎のようで、氷のようで、稲妻のようで、宝石のような瞳。何度見ても見慣れる事なく、目を合わせる度に息を呑まずにいられない瞳。
「……決めた。都築の提案に乗る」
「参考までに理由を聞きたい」
あ、嫌そうな顔をした。
「何故そんな事を聞きたがるんだ」
「兄貴としては、妹の決断が間違ってないという確信がほしいんだよ」
「何百回となく言ってきたが、私はお前を兄と思った事はない」
何百回となく言われてきたので今更気にしない。眼鏡を取り、じっと緋那の目を見返す。眼鏡外しは梃子でも動かないぞという俺の意思表示であり、こうなった俺は決して退かない。それを知っている緋那は、諦めたように首を振って溜息をついた。
「……母様の事を、忘れるつもりはない。だがこの家にいては、いずれ自分がその思い出に呑まれてしまうような気がする。この居心地の良い揺り籠を出る時が来た、そういう結論だ」
「分かった。緋那がそう決めたんなら、俺はそれに従おう」
良かった、緋那は自分の弱さを自分で分かっている。俺が気にするなんておこがましかったと思いながら、眼鏡をかけ直す。
「それだけ、というわけでもないが……」
「え?」
「独り言だ」
他にも理由があるのか。気になるけどあまり深く突っ込み過ぎると怒らせてしまうから、少なくとも今は止めておこう。記憶に留め置いて、機を見てまた聞いてみればいい。今はまず、緋那が自分で家を出る決断をした事を良しとしよう。
「……さて、銀司。先ほど都築と話していた時の事だが」
「うん?」
「お前、私に対して『黙ってろ』と言ったな?」
Oh……しまった、すっかり忘れてた。
「偉くなったものだな。窘める程度ならともかく、黙ってろとはな」
「いや、あれは緋那の言い方が悪い。それに、結果的に理事長の話は最後まで聞いて正解だったじゃないか」
「そうだな、結果的には正解だ」
ゆっくり立ち上がると、静かにテーブルを動かして俺の右側に寄せる。いかん、あっさりと逃げ道が塞がれてしまった。
「しかしお前も知っている通り、私は私に対する暴言を許さない。正解に至る為に必要だったとしても、だ」
「待て、待て緋那。冷静に話し合ごふぉっ!」
ヘソの真上、正中線。水月に鋭い衝撃を叩き込まれ、呼吸ができなくなった。右の足先蹴り、人類に避けられる速さじゃない。横隔膜が機能を停止したおかげで呼吸不全、立っていられず床に突っ伏してしまった。
紗那さんが幼少期から妙な格闘術を教えてたせいで、緋那の戦闘力は半端じゃなく高い。小柄な外見に似合わず力もある方だし、恐ろしい速さで正確に急所を狙ってくるのだ。
「うぐおおお……」
視界が涙でぼやける。体重の乗った、いい蹴りです。
「動体視力と腹筋の鍛えが足りない。精進しろ」
勝手な事を言いやがって、と反論したいけどまともな言葉が出せない。これでも手加減されている方で、もっと酷く痛めつけられた事もある。怒らせたくはないけど言うべき事は言わなきゃいけないし、何というジレンマだろう。
「さっさと立て。どうせすぐに復活するんだろう」
色んな面で緋那の能力は人並み以上だけど、回復力だけは俺の方が高い。多少の擦り傷は小一時間もあれば消えるし、骨折も三・四日で治る。今回も、十分ぐらいじっとしてれば大丈夫だろう。とはいえ、痛みは人並みに感じるんだけどな……。
「まったく、こんな奴の為に……我ながら度し難い……」
ぶつぶつ言いながらしなやかな脚が歩み去っていくのを視界の端に見つつ、立てるようになったらまずテーブルの位置を直さなきゃ、と場違いな事を考えていた。
Move your body-BLESSED BY A BROKEN HEART『Pedal To The Metal』収録