幸福な王子 4
もしかしたら罠だったかもしれない。助けてくれる幼馴染は今はいなくて――。
瞬間、ぐにゃりと目の前の全てが歪んだ。
(えっ!?)
呆気にとれてるうちに視界の端から徐々に黒が滲んでいく。
梅吉はパニックになり叫び出しそうになったが、喉に何か詰まってるような異物感を感じ声が出せなかった。
心拍数が上がっていくのは緊張からなのか、それとも
(そうか、さっきの紅茶)
ハングアップした頭の中で匂いが強くて飲めなかったさっきの紅茶の事を思い出す。
高級な茶葉だから香りが強いのかと思っていたが、もしかしたら薬でも入れられていたのかもしれない。
そんな事に今更気が付いた所で何も解決はしない。耳の中まで脈の音がしているし、寒さを感じて指先まで冷えているのに背中にじっとり汗をかいている。どう考えても今の自分は普通ではなかった。
歪んだ視界の中で歪んだ千鶴の口だけが動いているのが見えた。
そういえば音も聞こえないのだと、それを見て思う。
一体どんな恨み言を言っているのか、それだけでも知りたいと思っていたのに――。
(それすら叶わないのか)
もう自分は死ぬのだと思った。
仕方ない。あるのは諦めだけだ。
死に際は走馬灯を見ると言うが何も浮かんでこない。結局、何もない人生だから振り返る事もないのかもしれない。
(きっとそうだ)
――そうして滲んだ黒に視界の全てが包まれた。
キィ、キィ、キィ
金属の高い音がしている。多分これは――。
(ブランコの音)
揺れる度高い鳴き声を上げた古いブランコ。多分もう撤去されてしまっているだろう祖父の村に唯一あった子供向けの遊具だ。
ブランコには子供が乗っている。子供は、あの日のように小さな頃の梅吉のようだった。
『ごめんね』
やさしい声が響いた。それはあの青年の声だ?
子供は青年の言葉に耳をかさずに必死にブランコをこいでいる。ただ睨み付けるように前を見てムキになって、
キィ、キィ、キィ
金属の音が泣いてるみたいに聞こえるのは何故だろう。
『もう、行かないといけないから』
申し訳なさそうな声、声だけがしていた。青年の姿は見えない。
『じゃあ、元気で』
ああ、これは別れのシーンなのだと梅吉はこの言葉を聞いてようやく気が付いた。
『嘘つき』
子供がぽつりと言葉を零す。
『嘘つき』
キィ、
『嘘つき』
キィ、
『嘘つき』
キィ、
ブランコの音と同時に子供は呟く。その声は嗚咽交じりで、
(俺、こんなの覚えてない)
覚えてないのか、忘れてしまったのか、
(忘れたかったのか)
だから記憶にないのだろうか、それぐらい悲しい事だったのかもしれない『かもしれない』だなんて自分の事なのにまるで他人事だった。
(結局あれは誰だったんだろ)
判明する事はない。だって自分は――…。
まず目に入ったのは白、
「天国ってやっぱり白いのか」
少し霞む視界の中、思わず呟いた。
「何馬鹿な事いってんの!」
鼓膜に飛び込んできた声に曇っていた思考が一気に動き出す。
(どこだここ!?)
咄嗟に頭を声のする右側に動かすと、
「鈴之助!?」
鈴之助の姿が目に入る。
「僕らも居るよ」
今度は左を見る。すると千鶴と三郎の姿があった。
どうやらここは千鶴の部屋で、自分は彼の大きなベットに寝そべっているらしい。
「急に倒れるから驚いたよ」
千鶴は明らかに安堵した顔をしていた。横にいる三郎も心なしかホッとしているように見える。
(ハッカーじゃない?)
その様子を見て、梅吉は意識を失う前にこの二人に掛けた疑いに疑問を抱く。
(でも、演技かもしれない)
だて事実として紅茶にはなにか薬が入っていたし、あの日、千鶴は梅吉の家に来たと言っていたのだ。
「僕が自宅に行ったと知って感動のまり気絶しちゃうなんて、やっぱり梅ちゃんは初で可愛いね」
しかし演技だとしたならこんな馬鹿キャラを演じられるだなんて、尊敬さえする。
「だから、お前はどうしてそう適当な事ばかり言う」
溜息混じりの三郎のセリフ。
「え?」
思わず聞き返さずにはいられない。
「こいつは君の家には行っていない。あの日は――」
三郎の言葉は千鶴が手で口を押える事で防いだ。
「まぁ、とにかくごめんね。からかっただけで本当は行っていないんだよね。君が休んだって言うのは昨日兄から聞いたから知ってたけど」
少し慌てているような感じが気になるが、この男は見た目通りのただの馬鹿でしかないようだ。梅吉は内心ほっとする。
でも、紅茶に何か入っていた事は間違いない事実だった。
そうでなかれば、いくらアバターと精神が一致してないからといっていきなり意識を失う筈はない。
(じゃあ、やっぱり三郎が?)
ちらりと三郎の顔色を窺ってみたものの、やはりその表情を読み取る事はできなかった。
とりあいず、今は命拾いしたと思っていいのだろうか。
そもそも、命を奪う事が目的かどうかもよく分からないのだが――。
しかし、今の事で疑惑は一つ確信になった。『このゲームは誰かが絶対に介入している』それが誰なのか、三郎なのか、それとも他の誰かなのかはよく分からないけれど、確実にハッキングはされているらしい。
そうじゃなければ、紅茶を飲んで気絶などしない筈なのだ。
そもそもVRのシステムは『記憶』が主な媒介となっていて、プレイヤーが体験した記憶を電気信号で操り映像を再生し感覚や視覚、感触を再現してる。
味覚も同じで、こういうゲーム内では『美味しいと思うもの』しか味わう事ができないそういう仕組みになっている。
それはゲームは娯楽であり不快な思いをしないようにという配慮なのと、単純に『不味いもの』の再現は難しいからだと昔ゲーム雑誌で読んだ。
だから、鉄板の『可愛い子が料理を作ったら不味かった』というシュチも料理の見た目は悪いが食べられない者が出てきた事はない。食べると美味しいのだ。
人は忘れる生き物で、辛い事はなるべく忘れていってしまう『余程不味いもの』なら印象も強く記憶にも残っているだろうが『不快』と思う程度の記憶は早々に消去してしまう為だ。
さっきの香りの強すぎる紅茶は通常なら梅吉の記憶で再現不可能な筈なのだ。
これは誰か梅吉以外のものがこのゲームに入り、ハッキングをかけているという証拠。誰かが自分が体験していない記憶を強制的に流し込んで介入してきている。
(じゃあ、あの子供の頃の思い出も俺のじゃないのか?)
――分からない。
あれが自分のものなのか、他人のものなのか、あの青年と本当に自分は会っているのか、それともハッカーの記憶が流れ込んできているのか。
(でも、手の感じとか『覚えてる』気がするんだけど)
そう思うのは、流れ込んだ記憶のせいなのかもしれないけど。
こうなって来るともはや自分の存在すら疑いたくなる。
自分は本当に『月見里梅吉』なのかさえ妖しい。本当はそんな人間いなくてそう『思い込まされている』のではないかと、
「大丈夫?」
視界に心配そうな鈴之助の顔が飛び込んできて梅吉は我に返る。そうだ、そもそも――…。
「なんでお前ここに?」
確かここには一人で来た筈で、さっきまで千鶴と三郎と自分の三人しかいなかった筈だ。
「どっから湧いて出た」
「酷っ!心配して来てあげたのに!」
思わず零れた言葉に鈴之助は大袈裟に叫ぶ。
「あんた調子悪そうだったし、ホラ、この家こんなでしょ?迷ったら命に係わると思って教えてから気が付いたのよね。だから慌てて来てみたらアンタは倒れてるし男二人はオロオロしてるしで」
確かにこの大きな敷地それに加えて庭はジャングルで、迷ったら出て来れないかもしれない。三郎に玄関に会えて居なかったら梅吉は迷子になっていただろう。
(いや、そもそも奴が現れなきゃ屋敷に踏み入ろうとも思ってなかったけど)
自分が幸運なのか不幸なのかよく分からなくなってきた。とりあいず悪運はそうとう強いみたいだが。
「本当、先生が来てくれて助かりました。ありがとうございます」
三郎の感謝の言葉は心の底からの言葉なのか、腹の底では絶好のチャンスを逃したと思って居るのではないだろうか。
どんなに疑ったところで、彼の感情は欠片も見る事ができない。他のキャラクターと違い彼には梅吉に対する気持ちが見えないのだ。
そう、千鶴や鈴之助のように好感度の分かるハート型のゲージが七松三郎には表示されていない。
そういう意味でも中身が人である可能性はやはり彼が一番高い気がする。警戒するに越したことはない。
もっとも攻略キャラではないから避けても問題はないだろうなるべく二人きりにならないように、接触を避けよう。そう思っていたのに、
「少し落ち着いたなら七松くんに送ってもらいなさい」
さらりと鈴之助がそんな提案をする。
「おーまーえーなぁ!自分のリズムで生きるのも対外にしろ!」
早々に二人きりフラグを立てられ梅吉は鈴之助にそう叫ばずにはいられなかった。
(人が真剣に今後の事を考えて行動しようとしているのにこの男は!いやオカマは!)
勿論、鈴之助は梅吉の事情など知らないからそう言った事に罪はない罪はないが、
「そうですね。一人で帰すのも心配ですし送ります」
鈴之助の言葉に三郎は当たり前のように紳士な対応を見せる。
「結構です!悪いですし!それに悪いですし!」
梅吉は飛び起きるとベットから飛び出し部屋から出ようと出口に向かう。
瞬間ぐらりと頭が重く感じて、微かに吐き気を感じた。
まだ薬が残っているのだろうか、とにかく今はこの場所から逃げる事が優先だとドアノブに手を掛けた時、
(!?)
頭を思い切り殴られたような痛みを覚えて梅吉はその場にうずくまった。
「ほら、そんなんじゃやっぱり一人じゃ帰せないよ」
三郎の手が肩に掛かる。それが特に不快ではない事に梅吉自身が驚いていた。
彼は自分を殺す人間かもしれないのに、
(そう思えない)
彼ではないと思う。思ってしまう。そう思いたい自分の中の甘い部分が言う。本当は誰も疑いたくなんかない。
向けられる笑顔を全て真正面からそのままの意味で受け取りたいのだ。
「なんなら家に泊まるかい?」
千鶴の声が背後から聞こえて
「七松先輩に送ってもらいます」
即答してしまったのは、命より貞操の方が大事だと本能が判断したからだ。
だって真崎兄弟と同じ屋根の下一晩過ごして無事で居れる気がしなかったし、しかもあの家にはワニで殴る妹もいる。だからこれは仕方ないのだと梅吉は自分に言い聞かせた。
鈴之助は呑気に「じゃあ私は千景先生に用事があるから」なんて言ってヒラヒラと手を振っていた。千鶴は最後まで泊まって行けと言ったがそれが本当に心配してるのか下心なのかはよく分からない。
梅吉は命と精神的苦痛を天秤に掛け命を選ぶ事にした。まだ具合の悪い今、あの兄弟の相手をしてワニで頭を強打されたら確実にストレスで頭がどうにかなりそうだからだ。
三郎と二人、ゆっくりと歩きだす。そう言えば目覚めた時からトラのルーシーの姿が見えなかった。
どこか餌でも食べに行ったのかもしれない。人に慣れたトラだと言う事は分かったが多分ルーシーには、今会っても梅吉は恐怖を覚えてしまうだろう。
ワニの場合動きが鈍かったし、こちらに関心も無さそうだから平気だったが、ルーシーのガンガン来る感じや大きさはどんなに平気だと言われてもやはり恐怖を感じてしまう。
(ルーシーが腹が空く程度には寝てたのか)
太陽はすっかりその姿を消し、空にはもう月が浮かんでいた。
白い街灯が一定の間隔で設置された道にただ二人の足音の音だけが響いている。
会話はない。そもそも何を話せばいいのか分からなかった。もし彼がハッカーだった場合、迂闊な事を言って刺激したくはないし、そもそも梅吉はコミュ障だ。
会話をする事自体苦手だった。
周の場合は結構一方的に向こうから話しかけてくる。ほづみと真澄はだいたいほづみが会話を取り持ってくれていた。
(わぁ、俺ダメダメじゃん)
会話一つできない。初対面の相手に一体何を話せばいいのか、考えていると足のコンパスの違いで三郎との間に少し距離ができて慌てて小走りで追いかける。
「すまない。君は身体の調子が悪かったんだったね」
後ろを歩く梅吉に気が付いて三郎が左手を差し出してくる。
「どうもいつもの調子で歩いてしまうから手を繋いで歩こうか」
眼鏡を上げながら微笑む彼はやっぱりそう悪い人間には見えなくて、
「……」
思わず差し出された手をとってしまった。
ゆっくりと手を引かれ、歩き出す。歩調から気遣ってくれてるのが分る。
(違う、やっぱコイツじゃない)
もし彼がハッカーなら、もう本当に梅吉は人を信じる事が出来なくなってしまいそうだ。
「悪いね。僕は会話があまり得意ではないから退屈だろ?」
困ったような口調で三郎が言う。相変わらず眼鏡のせいか表情はよく見えないが、
「あっ、自分も、自分も人と喋るのか苦手です!」
三郎の言葉に梅吉は勢いよく答えた。
(――って、何俺そんな堂々と!)
言ってから後悔する。そんな事「!」が付く程勢いを付けて言うことでもないのに――と。
「ふっ」
小さく三郎の肩が揺れた。繋いでいない方の手で口元を覆っていて見えないが多分彼は笑っているのだと思う。
「そうか、じゃあ僕らは少し似てるのかもしれないね。しかし、ただ黙って歩くもの味気ない。僕は自分の事を話すには苦手だが辛うじて他人の事なら饒舌に語れるらしい。昔話を一つしよう」
そして、まるで本当におとぎ話でもしるように三郎は語りだす。
「幸福な王子と言う物語は知っているよね」
言われてそう言えばと梅吉は思う。たしか金箔や宝石でできた王子の象がツバメに頼んで自分の身体の宝石や金箔を貧しい人々の元へ運ばせ最後はみすぼらしくなり街の人に溶かされてしまう。そんな話だったはずだ。理不尽な話だと幼心に悲しんだ記憶がある。
「己を犠牲にして他人を助けようとする自己犠牲の意識、強迫観念はメサイアコンプレックスと言うのだけど、幸福の王子はまさにこれだ。そして、この幸福な王子のように千鶴もかつては自己犠牲と慈悲の人間だった。あいつの家は今日見た通り裕福な家庭で、父親はIT会社の会長、母親は有名なジュエリーデザイナーをしている。とにかく金には困っていないし別に心も裕福だった。両親も仲良く子供にも愛情を惜しまない。本当に幸せを絵に描いたような生活を彼らはしていた。それこそ誰もが羨むような」
抑揚の少ない口調は本当に物語の語り手やナレーションのようだ。
三郎の説明に、確かにそれはなんて羨ましい事だろうと梅吉は思う。やっぱり悲しいかな世の中は金なのだ。金があれば心は豊だし、あって困るものではない。チープな物語のように金があるから心が貧しくなるなんて事はない。
むしろ現実は逆だと思う。勿論個人差はあるが、
「だから千鶴は子供の頃から優しかった。困ってる者が居れば助け、間違っているものがあれば正しい道に戻してやる。今の奴からは想像もできないと思うが、本当に人格者だった。だから彼の周りにはいつも人が集まってて誰からも尊敬されていたんだ」
三郎の口から出る千鶴の過去の断片は確かに今の彼しか知らない梅吉にはイメージする事ができない。
「でもある日、彼は裏切られてしまう『彼の親の会社が倒産の危機だ』と言う根も葉もない噂が流れてね。それこそ幸福な王子みたいに彼を慕ってた筈の者たちが手の平を返した。幸福の王子と違ったのは彼は鉛の心臓ではなく天使は迎えにこなくて楽園へは行けなかった事かな?結局、人間不信の塊のようになった千鶴は今のようないい加減な人間になってしまったわけだ」
それが、中学一年生の時の話だと七松三郎は言い終えて何故か自嘲する。
「七松先輩は真崎先輩の事をよく知ってるんですね」
千鶴の事をまるで自分の事のように語る三郎はきっと千鶴と深いつながりがあるのだろう。
「君にも居るだろ?僕らもそれと同じだよ『幼馴染』だ。親同士が仲が良くてね。小さい頃からあの家でよく遊んだ。だから僕はあの家のペットには全て慣れているし、屋敷や庭にも詳しいんだ」
なるほどと、思う。ルーシーが彼に慣れているわけも自分の家のように案内できた事もこれで納得がいった。
「でも、じゃあよかった。真崎先輩は、まだ七松先輩って言う最大の味方がいるし、きっとそれに気が付いたら元の――」
「僕なんだよ」
千鶴には最大の理解者がいる。こんなにも千鶴の事を分かっている人間がいる。なのに何故人間不信になんてなっているのか、そう思って口にした言葉は三郎のセリフに遮られた。
「噂を流したのは僕なんだ」
三郎が嘲う。
「だからアイツは君と君の幼馴染の仲を壊したいと思ったのかもしれない」
抑揚のない無機質な三郎の声、繋いだ手の指先が冷たく感じた。
「王子がもしツバメに裏切られていたならいったいどうなっていたと思う?」
投げかけられた筈の疑問は、なんだか救いを求めているように見えた。




