17 ゴキゲントリ
マルハレータは野営地の近くにある川で水を汲んで口に運んでいた。妖精がくれた清水ほどの味わいはないが、澄んだ風が体の中を通り抜けていくような感覚を覚える。
そこそこ深さのある川なので沐浴でもしてみようかと思ったが、ローデヴェイクの猛反対にあった。荷物が盗られるやら川底で足を滑らせるやらこじつけに近い文句を散々言われ、じゃあお前が見張れと言えば全力で拒否され、妥協点がみつからず結局断念した。
「こんな術がなぁ……色んな使い方があるもんだ」
独り言を言いながら“洗浄”の法術を全身にかける。元々戦場で回収された死体を洗浄する目的で編み出さたものなので、ベリャーエフに教えられるまで自分にこの術をかけることなど思いつきもしなかった。
ふと知らない気配を感じ、探ると巨大な何かが野営地へ向かっている。獣の類ではなかった。
「精霊がきたぞ! 皆準備しろ!」
荒織りのマントを身につけ野営地に戻ると、他の人間も気づいたようでボフダンらが荒だたしく声をあげており、その向こうから見上げるような巨大な身体がこちらに向かって突進してくるのが見える。木々に隠れて全身は見えないが苔の塊のような姿に、巨大な触覚が四本見える。
「いいか、こちらが攻撃しなければアイツらは去る。とにかく積荷を守れ」
どうも精霊が現れるのを予想していたようで素早く武器と防具をとると男たちは荷車を取り囲んで身構える。
マルハレータはその様子を眺めていた。
攻撃しようとしなかろうと、あの規模の物体があの速度でぶつかってくればこの野営地は木っ端微塵だろう。手助けするか? それともこいつらがどこまで防御できるか見届けるか?
どちらを取ろうかと考えていると、突如空気を振動させるような低い音が響き、こちらへ向かって突き進んでいた精霊が一瞬向きを変えた。四本の触覚が森の中の何かを探ると、次の瞬間横向きに吹っ飛び、地響きが起きる。
それから精霊は動かなくなり、次第にかげろうのようにゆらめき始め、最終的に消え去った。
「な、何が起こったんだ?」
「他のが現れたのか?」
「皆、落ち着け」
ボフダンが周囲の混乱を収め、数人率いてで見に行こうとしたところで木々の奥からローデヴェイクが現れた。うっとおしそうに右腕から何かを払い落としている。
「お、おい、あんたさっきの精霊がどうなったのか見なかったか?」
声をかけられ、ローデヴェイクは相手の指差す方向、自分が歩いてきた背後を見る。
「精霊だと?」
「ああ。苔の固まりような姿で、突き進む先の物はすべて押しつぶす習性がある。本当ならもっと北の地域にいるやっかいな種類だ。何かで食い止められているなら今のうちに対処しないと……」
「あー? 精霊だったのか。あれなら俺様が殴ったら消えた」
そういいつつローデヴェイクは右の拳から土や苔の固まりを振り落とす。
「……は?」
「精霊ってのは軽いんだな。図体の割にあれだけ飛んだのは初めてだ」
そう言い、硬直している人々を置いてローデヴェイクはマルハレータのところにやってくる。
「なんだ?」
男は何かを言おうとしたが口に出せず、結局黙って木の葉で包んだものを差し出してくる。
「あんたこれなら食えるだろ」
包みを開くと赤や黄や紫色の実が一山出てきた。ベリャーエフ達と行動している時に見たのと同じものだ。
「携帯食は無理だったからな」
ベリャーエフが提供してくれた携帯食は保存が効く分、水分がなくて飲み込みにくいため、マルハレータは口に含んだだけでむせてしまった。マルハレータが水を飲みに行っている間に見繕ってきたらしい。
色とりどりの実をしばらく見つめ、ローデヴェイクに礼を言おうと顔を上げると、彼はもうおらず荷車の所へ戻っていた。何人かが先ほどの言動の真実を確かめようと話しかけているが、どうも取り合っていないようだ。頭の布を顔が隠れるまでずり下げ、荷車の傍らに座り込むと動かなくなった。
マルハレータはふたたび手元の実を見る。一つを口に含むと、甘さと酸味が口に広がる。花のような香りもした。
「あいつなりのゴキゲントリってやつか?」
男が求めるものは暴れたことを叱責しない対等な立場ではなく、しかし生前のような言葉のない関係でもないらしい。
「まあゆっくりとやっていくか」
マルハレータはそうつぶやくと、果実を口に運びつつローデヴェイクのいる所へ歩いていった。
どうでもいい情報:ローデヴェイクは左利き