孤高の果てに
――鬼は恨みつらみをもって黄泉がえりした者なのじゃよ。
雛は、小春の話す言葉を、水面の揺れる様子を眺めるような感覚で聞いていた。
ぼんやりと、でも確かに心のどこかに波紋を広げていく。
――会ったら息を止めねばならん。……魂を喰われてしまうからの。
息がかかるほど近くにいる小春の声が、なぜかはるか遠くから響いてくるような気がした。
耳の奥できぃぃん、と鳴る。山の奥に登ったときのような、目には見えない何かが詰まるような感覚。
顔を顰め、耳鳴りを取っ払おうと雛は軽く頭を振った。
だが一向に止む気配をみせない耳鳴りは、更に強く大きく聞こえてくる。
次第に眉間のあたりにまでその違和感は広がり、すでに目の前の小春の言葉など聞こえてはこない。
しかし、最後に小声で囁くように言った小春の言葉は、しっかりと雛のもとへと届いた。
――この世の者じゃないのじゃよ。
幼い頃に出会った者の顔が、瞼の裏にうつった。
白化した長い髪と、血走ったような赤い目。長い長い爪を持つあの男性――
彼は小春の言う“鬼”なのだろうか。
そこまで思い到って、どこからやってくるのかわからない侘しさに、雛は瞳を閉じた。
ちょうど生まれて十年目の春を迎えた頃だった。
背の低い雛が担ぐには、少しばかり大きすぎる籠をひとりで背負い、すでに日は落ち、辺り薄い青闇に包まれた道をしっかりとした足取りで歩く。
村の畑を越え、里山の中に足を踏み入れると辺りの暗さは一層濃くなっていた。
普段ならば、隣に母の姿があったがその日は雛ひとりきりだった。
毎日行きなれた場所だというのに、母が隣にいないという理由だけで周りの景色が違うものに見えてくる。
むっとするような土のにおいも、無造作に伸びた木の枝も、普段なんてことはない葉が揺れ動くさまも。全てが恐怖の色に染まって見えた。
ほんのわずかな風で鳴る音にすら、敏感にびくりと肩を震わせる。
来た道を振り返り、人の気配がないのを確認すると、小さなため息を洩らした。
(明るければ、怖くないんだろうけどなぁ)
進めていた足を止め、木と木の隙間を覗くように空を見上げれば、いつの間にか月が姿を現していた。
点々と散在する星のきらめきを見て、さきほどの自分の胸に宿った思いを思い出して雛は首を横に振る。
駄目だ。
お日様が明るいうちに外に出れば、また母さんが嫌な思いをする。
村の人たちと会う機会が増えれば、また母さんを見るあの蔑むようなうとんじるような視線を浴びなくてはいけない。
また、小石を投げられるかもしれない。
……ならば仕方のないことだ。
なかば無理矢理に言い聞かせ、雛は再び柔らかい土の上を進み始めた。
昼間、村から少し離れた小屋の中にいるときには聞こえてくることのない虫の音を聞きながら、薬草を探し視線を巡らせた。
見知った草を利き手で手折り、器用に籠の中へと放り込んでいく。
きのこや山菜、木から落ちて熟れた実を拾い、手当たり次第籠をいっぱいにしていくと、背にかかる重みも一緒に重くなっていった。
普段から母の隣で、どれがどんな効果のある薬草だとか、毒のある草や茸だとか。そういったものを無意識のうちに吸収していた雛は、手の中で小さく揺れる若草色の葉を見ながら、ふと母の姿が思い浮かんだ。
今にも手の中にある薬草を手折ろうと伸ばした手が、ぴたりと止まる。
――ごめんね、ごめんね。……ありがとう。
母さんはいつも草木を摘む前に、何度も侘びとお礼の言葉を重ねていた。
全ての生き物の“声”が聞こえるのよ、と日向のような笑顔で言った。
生きるために生きているものを殺さなくてはいけないのは辛い、と“声”の聞こえる母は手折る瞬間、苦しげに眉を歪める。それを見ながら、雛はいつも不思議な心地でいた。
雛にはなにも聞こえてこないから。
生きている、という実感も正直伝わってはこない。だからこそ、母の愛でるような視線を草木に注ぐ姿も、どこか遠くを見ているような感覚になる。
もの憑きだ、と村の者からどれだけ罵られようと、べたつく泥や小石を投げられようと、眉ひとつ動かさない母を見て、なぜか雛が心苦しくなった。
綺麗な着物が汚れても、やわらかい笑顔で「困ったわね」と、全然困った様子のない口調で話す母に、少しだけ苛立った。
雛の心の中で生まれたなんともいえない錯雑とした感情が、今にも暴れだし飛び出しそうになる。
心が、痛くないの?
悔しくて悔しくて、どうにかしてやりたいとは思わないの?
そう言った雛を見て、母は寂しそうに笑っただけだった。
いけない、と、薬草を摘む手が止まっていたことに気づき、雛は再び母より小さなその手を動かし始めた。
体調を崩し寝込んでしまった母にかわり、自分がたくさんの薬草やきのこを持ち帰らなくてはいけない。そのためには、ぼんやりとしている暇はないのだ。時間は、止まってはくれないのだから。
しんしんとした静寂が、今夜はやけに濃く思えた。
やはり、隣にいるはずの母がいないからだろう。
そう思った矢先だった。
かさり、と一際大きく響いた草木が揺れる音が耳元に届いたのは。
ひた、と呼吸までも一瞬止め、体を硬直させた。
どくん、と大きく鳴る自分の鼓動とは裏腹に、一度聞こえたきり聞こえてはこなくなった、音。
しかし確かに聞こえてきたのだ。
風が揺らせた音かとも一瞬思ったが、それにしては大きい。それに今夜の風はとてもゆるい。
再び静寂の中に放り込まれた雛の鼓動は、納まるどころか徐々に徐々に加速していった。
狐か、狸……だろうか。
ひとつの仮定を無理矢理つくりあげ、雛はなんとか乱れた呼吸を整えようとひとつ深呼吸をした。
湿った土のにおいをいっぱいいっぱい吸い込み、そして吐き出す。
それだけで、少しだけ落ち着けたような気がした。
……が。
かさり、と再び今度はさきほどよりも近い場所から聞こえてきた。
自分でも揺れるのが自覚できるほど、肩を大きく震わせ口の中で声にならない悲鳴を短くあげる。
まっすぐ前を見据えたまま、視線だけを右へ左へと移動させていると、ふと淡い光を見つけた。
蛍の光のような、小さな光が、いくつも一点に向かってふよふよと空中を漂う。恐怖で震え上がっていた胸のうちなどすっかり忘れ、夢でも見ているかのような光景に、吸い寄せられるようにして歩みを進めていった。
雛の伸ばした手が光に触れると、光は更に細かく目に留めることができないほど小さな粒子となり、さわさわと散っていく。散る瞬間のふわりとした飛沫が、一度だけ見た花火のようにみえた。
集まる光を追い越し、彼らが向かう先へと足早に山を登る。途中、雛の肩や腕に触れた光が幾度と粒子を散りばめる。
急いで急いで、逸る気持ちを抑えながら、時折頬にかかる木の枝がするどく痛みを残していくのも気にせず、雛はいつの間にか走り出していた。
そして、光のうずが濃くなった場所が見えてきた頃、見えない壁にぶつかったかのように唐突に足を止め、目の前にひらけた視界に見入る。
太い木の幹によりかかるようにして腰を下ろした男性の周りを、さきほどの小さな光が集まり、どこに止まるわけでもなくふわふわと、男性を包むようにして泳いでいた。
気配を感じ取ったのだろうか。
伏せていた瞼が、長い睫毛とともに上がった。
そして、同時にいままで淡い光を散りばめていた小さな光が瞬時にして消えたのだ。音もなく、言葉のとおり一瞬にして。
だが、光が消える直前に見た男性の容貌に、雛の中に消えかけていた恐怖が再びよみがえってきた。
光に慣れてしまった視界は、再び訪れた闇により視覚を失う。だが瞼の裏に焼きついたさきほどの男性の姿が、雛の体を硬直させた。
少し乱れた黒衣を身にまとい、月の薄い光にさらされた長い髪は、白骨化した動物のそれよりも真っ白。まばたきひとつせず、雛をじっと見つめる瞳は血走り充血したかのように真っ赤だった。
人では、ない。と、雛は直感的に思った。だがそう思ったところで、状況がなにか変わるわけでもない。暗闇の奥から刺すような視線がなくなるわけでも、地に根が生えたかのように動かなくなった足を、奮い立たせる理由にもならないのだ。
指先が、ぴりぴりとした痛みを伴い、極度の緊張からか、喉から乾いた吐息が細かく漏れる。
それでも視線だけは逸らせずにいた。
まっすぐと見つめた先の男性は、衣擦れひとつおこさず、ただじっと雛の瞳を見つめ返すのみ。
呼吸すら止まっているのではないかと疑ってしまうほど、男性は山の濃い闇に溶け込み馴染んでいた。
お互いがお互いを見つめたまま、どれほどそうしていたのだろう。
「……娘。一人でここまで来たのか」
すぅ、と沁み込むような静かで低い声だった。
突然響いた声に驚き一瞬だけ体を震わせるが、意外にも声をきいたあと恐怖が薄れていき、胸に添えた 手に伝わる鼓動がゆっくりと平常を取り戻しつつあるのがわかる。
雛は息を吸い込んで、小さく頷いてみせた。
「……早う、帰れ。脅してやったゆえに近くにはいないだろうが、盗賊が出る」
喉から今にも悲鳴が出てしまいそうなほど、おどろおどろしい姿かたちとは裏腹に、雛のもとに届く声はとても静かで穏やかささえ感じた。
だから、なのだろうか。早く帰れ、と雛の身を案じたような言葉を伝えてくれたにも関わらず、あれほど動かなかった足が一歩男へと進む。進むにつれ、違和感を覚えていたにおいのもとが明らかとなっていった。
土や葉から香る、湿った青い匂いとは違う。
雛が少しずつ距離を縮めていくと、目の前の男はかすかに気配を動かした。
「何をしておる……早う、帰れ」
今度こそ、男が身じろぎしたのがわかった。
だが、その場から立ち上がり動くことはない。男のうしろの大木と一体化してしまったかのように、深く腰を下ろしたままだ。
手を伸ばせば届くほどの距離にまで近づくと、雛は担いでいた重い籠を下ろし、目を凝らしてみる。噎せるようなにおいが濃くなっていた。
「怪我……しているの?」
身を屈めて、視線を男性の視線と合わせて言った。
闇に慣れた視界がうつしたものは、左腕の肩から手首にかけて、ざっくりと鋭利なもので素早く切り込まれたような痕。破れた衣から覗く青白い肌の上に、生々しい赤い血が浮き上がり、かすかな光にさらされ、てらてらと妖しくひかる。傷を受けてから随分と時間が経っているのだろうか。溢れるほどの流血ではないにしろ、軽くはない。空気にさらされた傷のふちから、少しずつ血が固まりかけている。
えぐれたような傷跡を見て、雛は眉を顰めた。
「ちょっと待って」
雛は下ろした籠の中に腕を入れると、採取してきたばかりの薬草をいくつか取り出す。着物の衿元から腕をさしこみ、忍ばせておいた懐刀を取り出すと、一瞬の逡巡もみせることなく、自身の着物の袂へと刃を切り込む。男の驚いたような気配と、布の破れる音が同時に雛を襲った。
取り出した細長い形の草を男の傷跡へと巻きつけ、それ幾度と繰り返す。傷に触れるたびに、男がにわかに動いた。巻きつけた薬草が滑り落ちないよう、左手で支えながら乱雑に破いた布きれをさらにその上から巻きつけ、男の左手を覆うように、全体に巻きつけると手首のあたりで余った布をきゅっと結んで、落ちないようしっかりと固定させた。
本来ならば、傷口を清水でしっかり洗い流し、綺麗な布で拭き取ってからではないと、傷口に付着した汚れがせっかくの薬草の効果も薄れてしまう。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。とりあえず、の処置でもないよりはいくらか楽になるだろう。
母なしで、ひとりで傷の手当てをしたのは初めてだった。そのせいか、どっと汗が滲み出る。傷を間近で見ることも、触れることも、なにもかもが初めてのことで、心の中からわっと色々なものが溢れ出す。 焦りや不安、恐怖。それらの感情が、いっせいに飛び込んできて、いっせいに消えた。
ふと、自分を見下ろす男の視線に気づいて、雛は顔を上げた。
間近で見た男の顔は、とても綺麗な顔立ちで、一瞬我を忘れて恍然と見入る。が、突然はっと意識が戻ると、途端に恥ずかしさが襲ってきた。
とても綺麗で、神秘的な光を宿した瞳だった。
血のように真っ赤で怖ろしい。だが、それ以上に人を惹きつけるような力強さもあった。雛が見惚れたように。
男の白い眉が何か言いたげに歪む。
「……おまえ、わたしが怖くはないのか?」
「怖い、わ」
男の問いに即答してから、ほんの少しだけ気まずい心地になった。
目の前にいる者に、怖いと躊躇うことなく言われれば、誰でもいい気はしないだろう。たとえ、それが人間の子ではないのだとしても。
居心地の悪さから視線を下げ俯くと、男の指先から伸びた長い爪が視界に入った。
長い長いそれは、成人した者の指の長さよりもずっとずっと長い。
やはり怖い、と思った。
あの爪で引っ掻かれてしまえば、かすり傷などといった生易しいものでは済まされないであろう。それこそ、この男の腕の傷よりもひどいかもしれない。
だが……。
怖い、とは思うが、男に対しての不信感は一切なかった。
自分でも不思議だ、とは思う。人ではない、と感じながらも、なぜか心地よさのようなものも感じる。懐かしい。言葉にすれば、それが一番近いような気がした。
鳥居の奥の、狛犬さまを見たときの感覚と似ている。
他にもっと、違う言葉があったかもしれない。と、おそるおそる顔を上げる。
もしかしたら、凄く怒っているのかもしれない。すでに雛のことを殺そうと考えているかもしれない。
だが、見上げた男の表情は、雛が怖い、と答える前と全く変わってはいなかった。
怒ることも、微笑むこともしない。ただ雛を見下ろしているだけ。
「……そろそろ帰ったほうがいい。これの礼に護りをつけてやる」
長い爪で布を巻きつけられた腕を指した。
そのまま爪が宙でいったん止まり、静かに弧を描くと、唐突に勢いのある風が巻き起こる。辺りの草木が風に揺られ、さぁっと乾いた音を連ならせた。
闇に響いていた虫の音が、逃げるようにして突然聞こえなくなり、風がぴたりと止むと同時に、先に見た蛍の光のような柔らかい光の集まりが、男の黒衣の傍らからぶわっと湧いてでるように浮かび上がった。
ひとつひとつは、とても小さな心許ない光。だが、いっきに男の傍までふよふよと泳ぐように漂うと、群となりいっきに大きな光となったそれは、男の顔を強く照らした。
光の加減だろうか。男の口元が少し笑んでいるように見えた。
雛が茫然と目の前の光景を見つめていると、男の体を優しく包み込むように浮かんでいた光のいくつかが、雛のもとへとふわりふわり、と頼りない動きで寄ってきた。そのまま雛の肩に止まる。手を伸ばし触れたときのように、散って消えることはなかった。
「そやつらを貸す」
「……これはなに?」
「物の怪だ」
男の言葉にびくり、と雛の肩が震え身をすじらせると、肩に触れていた光が戸惑うように少し動きを鈍らせた。
まるで生きているように見えるそれを、食い入るように見つめる。
これが、物の怪だというのだろうか。
雛が思い描いていた物の怪は、もっと怖ろしげな姿で人間を化かしたりするものを想像していた。だが、いま雛の周りをふよふよと浮いている光は、そういった負の気を一切感じ取ることはできない。
「大丈夫だ。そやつらは普段おとなしい。おまえを襲ったりはせぬ」
物の怪に対し、雛が恐怖していると思い違えたのかそう言った。
淡々と告げる男に対し頷くと、雛は男の傍らから立ち上がり、置いたままの籠を担ぐ。
「あなたはどうするの?」
「しばらくしたら、わたしも行く。気にせずともよい」
再び頷き、小さな手で籠を支えながら斜面になった山を下っていく。
ふと、雛が下りはじめた足を止め、男を振り返った。そして小さく頭を下げると、再び男に背を向け今 度こそ、振り返ることなく山を下りていった。
男のそばで漂う物の怪の光も、背に受ける男の視線も、全ての気配が消えた頃、雛は踊る気持ちを抑えることができずに山を駆けた。
早く母さんの布団に潜り込みたい。そして今さっきの出来事を聞かせてやりたい。
毎日里山に登る母からは、いつも山の匂いがした。それを嗅ぎながら、同じ感動を味わいたい。そう思ったら、駆ける足が更に速くなっていった。それでも、雛の傍らの物の怪は遅れることも離れることもなく、ぴったりと吸い付くようにそこにいた。
だが、小屋の戸を開け、転がり込むようにして母のそばに寄った頃には、すでに彼らの姿はなく、息を切らせ顔を輝かせた雛のみが、母の視界にうつったのだ。
息をつく間もなく、雛は布団の中で横になっている母に話して聞かせた。横になっていた母は少しだけ身を起こし、黙って雛の話を聞いていたが、出会った男や物の怪の話になると、途端目を見開きひどく驚いた様子を見せる。だが、瞬時にしていつもの柔和な母に戻ると、頭の上に軽く手を置き、一度二度と撫でた。
――いつか、雛にも“声”が聞こえるといいわね。
唐突の言葉に、雛はきょとんと小さく首を傾げた。
雛の不思議そうな眼差しを尻目に、母は更に言葉を重ねる。
――雛のみたもの、感じたものを信じていなさい。人の感情や言葉に呑み込まれてはだめよ。
そうして、母の隣で身を寄せながら眠りについた翌朝。
こつん、と戸になにかがぶつかる音で雛は目覚めた。
布団から身を出すと、脳天を貫くような冷えが雛を襲う。土に積もった雪は消えても、まだ明け方は冬の名残がある。
素足のまま母が眠る部屋を抜け、入り口の戸を開いた。
まだ外は薄暗く、東雲に漂う清澄な空気を吸い込むと、いっきに眠気が吹き飛んだような気がした。
ふと、足元に転がるいくつもの握りこぶしほどの大きさの木の実が視界の隅にうつる。
身を屈め、ひとつ拾い上げる。
見たこともない真っ赤な実だった。薄皮に覆われていても、その実から漂う甘い香りは隠しきれることができないほど。
思わず昨夜出会った男が脳裏に浮かんだ。
手にした実の赤さよりも赤い、赤い瞳を持った不思議な男性。
途端、雛は実ひとつ持って、母の元へと走り寄る。雛の慌しい気配で起きた母が布団の間から瞳を覗かせ、部屋へと戻ってくる娘の姿を見て不思議そうに首を傾げた。
「母さん、見て!」
雛は母の傍らに膝をついて、小さな両手の内に納まっている赤い木の実を見せた。母は「あら」と目を丸くし、「どうしたの?」と無言で雛を仰げた。
興奮収まらぬ様子で、きっと、昨日のあの人が届けてくれたのよ。と話す娘に「そうね」と笑顔でこたえた母は、それからしばらくして息を引き取った。
母の細い体に抱きついたときの土の匂いも、日が差したような笑顔も。もう雛に向けられることはないのだ。
もう、いないのだ。
あれから八年。
どのように過ごしたのか、はっきりとは覚えていない。
だた悲しむ暇もなく、ひたすら忙しさの中に身を置いたのだけはしっかりと覚えている。
生きていくために、働き稼がなくてはいけないのだ。母から教わったなけなしの知識で、薬草を薬に加工しては売って日々を凌いだ。
そんなことをして過ごし、やっと最近落ち着けたように思う。
今も変わらず時折戸を叩く音だけが、雛の心のよりどころだった。
* * * * * * *
「――……っ。……雛っ!」
ハッと顔を上げると、訝しげに顔を顰めた小春の視線とぶつかった。
耳鳴りはいつしかやみ、かわりにどっと冷や汗が溢れ出る。額の細かい汗で張り付いた前髪をのけると、今まで怪訝そうに覗いていた小春の瞳が、今度は心配そうなそれに変わった。
可愛らしい眉がぴくりと動き、
「……どうしたのじゃ?」
と、訊いてきた。
だが、自分でもよくわからない感覚を、彼女に説明することはできない。
ただ昔出会ったあの男性のことを思い出し、なんともいえない気持ちになったのは確かだ。
なんでもない、と雛が首を横に振ると、まだ納得しきれていない表情で、小春は小さくため息をついた。
「顔色が悪いのう。これでも食って元気をつけなあかん」
そういって手渡されたのは、笹の葉にくるまられた握り飯だった。
葉をまくると、笹の香りと炊きたての米の甘い香りが沁み込むように漂う。真白い米と一緒にににぎられているのは、村の里山で採れる山の菜だ。春になると、土を盛り上げ若草色の芽を陽のもとにさらす。少し苦味があるところが、またしかし村の者には好まれていた。
陽のひかりに照らされ、きらきらとひかり輝く握り飯と小春を交互に見、ありがとうと礼を述べると、小春は照れくさそうに小さい鼻の下をかいた。
小春はこの夏、村を出る。
以前に遠方の市で出会った西の領主様に見初められ、嫁ぐのだ。
雛と同じ頃に婆ちゃんを失った小春は、今も昔も雛に話しかけてくれる唯一の友人だった。寂しくない、と言ってしまえば嘘になる。だが、婆ちゃんがいなくなり、しばらく小春の持っている明るさが見られなくなったときは、このままいなくなってしまうのではないか、という喪失感まで雛は覚えた。それにくらべれば、幸せに暮らしていけるのだから、嬉しいことではないか。
西の領主様はとても優しい方だと聞く。ならば、友人だと告げればいつでも会うことができるはずだ。
「だが心配じゃのう……。雛ひとりで暮らしていけるのか?」
「大丈夫よ。もう十八になったもの」
「それはわしも同じじゃて!」
はぁ、と大きなため息をついて、小春は呆れたような眼差しで雛を見た。
「……村のやつらは、雛のこともよくは思っておらん」
視線を落とし、小春が小さく呟いた。
雛はそれでも「大丈夫だよ」と笑顔でこたえた。
笑顔の裏に見え隠れする影を見て、小春はそれ以上なにも言わず、ただ黙って雛の隣に腰かけた。
雛は母を失ってからも、昼間外へ出ることは滅多にない。今日のように小春が訪ねてきたときくらいしか、陽のひかりを浴びない。それは昔から変わったことではないが、時折どうしようもなく辛く思う日もあった。
そして、ふと考えた。
昼ではなく、日が落ちてから山の菜を摘みに行くのは、母自身がそうしたかったのではなく、雛のためを思ってのことだったのではないか、と。
村の者の言葉にも視線にも、母は一度たりとも耳を傾けはしなかった。いつも怯えていたのは自分だ、とあれから八年経ってやっと最近わかったのだ。
だが今更だ。胸に込み上げる熱い思いを伝える相手は、もういない。
そして、自分は母のように強くあることはできない。そう感じていた。どれだけ時が経とうと、心が慣れてくれない。だから今も村の者から避けるようにして、ひっそりと息を潜めて暮らしている。
小春は、恐らくそのことを言いたいのだろう。
しかし、これから村を離れる小春を心配させてはいけない。笑顔で送ることくらいなら、雛にもできる。
婆ちゃんがいなくなった今でも、その口調は婆ちゃんのものである小春の心もまた、少なからず過去にとらわれているのだろう。
雛が母を忘れられないでいるように。また忘れてはいけないのだと戒めるように。
「もっと胸を張っておれ。雛や母ちゃんは人間の子だろうて」
「うん」
「また握り飯、作って持ってきてやるからの」
「うん」
俯いたままの小春の表情は、雛からは窺い知れることはなかった。
だが、雛のもとに届くぽかぽかとした暖かな想いは、確かに小春からのものだった。
宵の口はとうに過ぎ去り、小屋の戸を開くと外は暗夜の静けさに包まれていた。
今日は普段行きなれた里山ではなく、街道を南に下った先にある森へと向かう予定だった。だが、思いのほか外は暗い。提灯を提げていくことも思い浮かんだが、女一人で街道を行くのに、明かりを提げていくのは狙ってくださいといわんばかりの行為だ。
戸の先で、少しの間考え込む。
やがて意を決したように、街道に向かって歩き出した。
里山に生えている草に比べ、少し離れた森の中には珍しい菜や草が生える。特に春先には、芽吹いたばかりの若草色のそれは、とても柔らかく食すにも、薬にするにも適しているのだ。
街道を行く視界の隅に映る草花も、次々と芽吹いているのがわかる。蕾から開きかけた花々が、今にも明るい彩を散りばめようと、時を今か今かと窺っているように思えた。
道を照らす光は、月明かりのほんのわずかなもののみだが、それでも視線を少しだけ下げれば、そういった普段何気なしに通りすぎる命の彩りが目に入った。
人ひとりとして行き交うことはない街道を進みながら、雛は担いだ籠を抱えなおす。幼い頃は、とても大きく感じた籠も、今ではそれほど大きさを感じることもなくなった。
やがて、鬱蒼と茂る葉のみしか視界にうつらない森の中へと足を踏み入れたとき、雛は背後を振り返ることなく眉を顰めた。
人の気配がひとつ――……いや、ふたつ。
雛の後を追うようにして、だがしかし隠そうとしている気配が少し離れた場所から襲ってきた。
籠をささえる両の手に、自然と力がこもる。だが背後を見てはいけない。そう思った。
少しずつ距離を離そうと、雛の歩く速度が早くなる。しかし追ってくる気配もそれに気づいたのか、彼らの足跡も確実に早く、そしてそれは確実なものへと変わった。
土の上に敷き詰められた葉を踏みつける雑な音が、次第に大きくなっていく。彼らの駆ける足音が響くたび、雛の背筋にぞっとした汗を感じた。
気配を消して、彼らを撒くといったことはもはやできない。雛の進む足もいつしか駆けるものへと変わっていた。
走りながら、ちらりと背後を一瞥すると大きな影がふたつ雛に迫ってきていた。
すでにあと数歩、というところまで迫ってきている大きな影に、雛は思わず悲鳴を上げそうになる。だが、担いでいた籠を走りながら投げ捨てた。
前方を駆けていた男にあたったのか、短い声が上がり次いでいきりたったような低い声が聞こえた。
軽くなった身のまま更に速度を上げ、雛は着衣の襟元に腕を伸ばしかけ、ハッと気づく。
普段忍ばせている懐刀の重みがない。
(こんなときに限って!)
そう思った瞬間、左の手首をぐっと掴まれた。
男の生暖かい息が左頬にあたり、眉を歪ませる間もなく体を地面に叩きつけられた。
雛が倒れこんだ衝動で、落ち葉がぶわっと忙しない音をたてながら散る。土の湿った匂いを間近で感じながら、空になった手のひらが落ち葉と土を無造作に掴み、強く握った。
見上げた男の顔は見えないが、二人。雛を見下ろしている大きな影のひとりが短刀を抜いたのだろう。 やけに強い光を放って、雛の目の前で止まった。
……ああ、もうだめだ。
心の中で呟き、覚悟を決めたのと同時だろうか。
ぽぅーん、ぽぅーん……、と。
どこからともなく、鞠をつくような鈍い音が響いてきた。
雛を見下ろしていた男たちの気配も訝しげに揺れ、何事かと動きを止める。
ぽぅーん、ぽぅーん……。
再び聞こえた音はさきほどよりも確実に大きく届いた。
幽寂とした空気を突き破るかのように聞こえてくる音に、なぜか恐怖心は抱かなかった。
不思議な感覚。だが、以前にも似た心地を覚えたことがある……
その場から立ち上がり逃げることもできず、ただ呆然と音の余韻に浸っている頃だった。
それは唐突に。
前触れもなにもなく、本当に突然の出来事だった。
今まで見えていなかったことが不思議だと思えるほど、雛と男の間を裂くようにしてその者は凛然と立つ。
頭からつま先まで全身淡い光に覆われ、視線は雛を見下ろす男に向けられたまま動く気配はない。
片手に納まってしまうほど小さな手鞠を手にした指から伸びる爪が、とても長く鋭い。
男に絡みついた光のおかげで、辺りは静かな明かりに包まれていた。
(あ……)
腰より長くに伸びた白い髪と、なぜか安心感を雛に与えてくれるその後姿をぼんやり見つめた。恐怖で顔を引き攣らせている男二人とは裏腹に、雛のそれはとても落ち着いていた。
男たちのような怯えはもちろんのこと、驚きよりも懐かしさが先に雛の胸のうちに満たされる。よく見れば、彼の体を包み込む光は、以前見た蛍火のような小さな光の集まり。彼がいう、物の怪だった。
「早う、去れ。……さもなくば」
言うが早いか、手にしていた手鞠をゆっくりとした動きで地に落とす。
葉に覆われた土につく前に、鞠は動きを止め彼を包む淡い光と同じ温度の光が鞠を包んだ。そのままゆっくりと、再び男性の手元に戻っては、地に触れるか触れないかのぎりぎりの位置で止まる。
ぽぅーん、ぽぅーん……、と不気味な余韻とともに鞠の弾む音が辺りに響いた。
それを幾度か繰り返したあと、突然動きを変えた鞠が男二人の目前まで勢いよく走り出す。ひた、と鼻先に触れそうな位置で止まると、雛に背を向けた男の気配が楽しそうに揺れたのがわかった。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴を上げたのは、二人の男のうち一人だった。
目の前でふわふわと止まっている鞠を、狂ったかのように手で払いのけ、辿ってきた道を走り出した。それを見たもう一人の男も同じように、時折足をもたつかせながら走り去っていく。小さくなっていく二人の影を雛はぼんやりと見つめた。
ざわざわとした空気が、次第に本来の静けさに戻っていき、再び森の中に静寂が訪れる。
落ち着いた頃、雛はいまさらになって恐怖がよみがえってきた。
切先を向けられたことなど、今までなかったのだ。
小刻みに震える肩を抱き、唇がふるふるとわななく。俯き落ちた視線の先に、ふいに影が落ち雛は顔を上げた。
「……この辺りは盗賊が出る。いつも行く場所にとどめておけ」
男の言葉を聞いた雛は、目を見開いた。
恐怖で震え上がっていたことも忘れ、自分を見下ろす男の瞳を見つめる。
相変わらず感情の薄い瞳は、なにを考えているのか、わからない。
だが……
「なんで、知っているの……?」
確かに普段この森には訪れない。
しかし、彼にそのことを告げたことは一度もない。それどころか、彼に会ったのは今日で二度目のはずだ。
そこまで考え、ふと脳裏にあの赤い木の実がうつる。小屋の戸を叩く木の実は、初めてこの男に会った翌朝だけではなく、時折忘れた頃に届けられていた。
やはり、あれはこの男性からの贈り物だったのだ。
そして、母を失ってからの雛をも見守っていてくれていたのかもしれない。そう思ったら、途端温かいものが胸の奥に灯った。
「なぜ夜ばかりなのだ。昼間行けば襲われることもなかろう」
雛の問いには答えず、男は少しだけ眉を歪ませ言った。
「…………」
雛は一度開きかけた口を、再び閉じ考えた。
どのように告げればいいのかわからない。
人が怖い、などと言ったら嗤われるだろうか。そもそも、そのような至極私的な感情を、伝えられても恐らく困らせるだけであろう。家族のような親しい間柄でもなく、たった二度会っただけの者に。
「……おまえはわたしが怖いと言った。だが目をそらすことなく話すではないか。同じようにできぬのか」
「え?」
「おまえも村の者も、人間の子。同じであろう。なにをそこまで自分を蔑む必要がある」
俯きかけていた視線を上げ、男のまっすぐな瞳を見つめた。
「自分から語りかけてみろ。逃げてばかりでは変わらぬ」
男の言葉が、雛の心に矢をうつように放たれた。
そのまま背を向けると、男は腰を屈め視線だけを雛に向ける。
ふわり、と彼の背を打つ白い髪が光に反射し、雛が男に何か言いかけた瞬間、
「屋まで送ろう。その様子では歩けないであろう」
言われて初めて、自分が腰を抜かしていることに気づく。
早くおぶされ、と促す男にしかし雛は首を横に振った。
「だ、大丈夫! ひとりで帰れるわ」
「いいから早う、日が昇れば人目につきやすい」
それは雛のことを言っているのか男自身のことを言っているのか、どちらかわからなかったが雛は渋々頷いた。
男の首に両腕を巻きつかせると、雛が立ち上がるよりも先に男の腕が雛の体を支え持ち上げる。雛など抱えていないかのように、軽々と身を起こすと男は駆け出した。
男の周りに浮かんでいた光が突如消え、信じられない速さで森を駆け抜ける。
視界に映る景色が、原型を留めぬ速さで雛の前を通り過ぎ消えていく。頬や耳たぶを打ち付ける風が痛かった。
ごうごうと唸るような風を切る音と、時折雛の頬をかすめていく葉先の音。他の音は一切聞こえない。
あまりの速さに思わず目をかたく瞑り、振り落とされないよう必死に男の背にしがみついた。
「……あなたは鬼なの?」
「そう呼ぶ者もいる」
風にさらわれ、男の白い髪が揺れ雛の頬を撫でた。
「じゃあ、誰かへの怨みがあるの?」
「さて。そうだったかもしれぬ。だが長いこと人間の世に留まりすぎて、忘れてしもうたわ」
男の後ろ姿が、笑ったようにかすかに揺れた。
瞳を閉じたまま、雛は不思議と安堵の吐息を心の中で吐く。
小春から鬼の話を聞いたときは、どこか心が急いていた。何に対してかは、雛自身もわからない。だが、幼い頃に母が村の者から疎まれているという事実を知ったときの衝撃と似ていた。まるで心に棘が刺さったような、じんわりとした痛み。
もし鬼だとしても、小春が言うような、人を苦しめる存在でなければいい。と、勝手に思っていた。
実際以前会ったとき、雛に対する不穏な空気はなかったのだ。だからこそ、自分の都合に合わせて彼を作り上げていたのだろう。
「……ありがとう」
雛が呟いた言葉に反応はなかった。
とても小さな声だったゆえに、風に紛れて聞こえなかったのだろうか。
しかしそれでよかった。
男の背から伝わる温度がやけに温かく感じた。
もとは人間だったとか、そうでなかったとか。どうでもいい、素直にそう思った。
……少しだけ、この人が言っていたことを考えてみよう。
腕に回した手に少しだけ力をこめると、無言で森を駆け抜ける男が少しだけ動いたような気がした。
布団にくるまった雛の耳に、戸を叩く音が届いた。
薄い眠りの中にいた雛は、はっと目を開ける。そのまま飛び出すように布団を跳ねのけ、素足のまま駆け出す。
戸の向こうから、うっすらとした光が差し夜明けの訪れを知らせていた。
勢いよく戸を開き、真っ先に足元に視線を落とし身を屈める。
落ちている赤い実を手に取り、愛おしそうに抱いた。
真っ赤な真っ赤な木の実は、あの鬼だと言った男性を思わせる。
(わたし、がんばってみる)
腕に抱いた果実が、がんばって、と語りかけてくれているような気がした。
“声”はやはり聞こえてはこないけれど。
いつか母のように強く在る日がきたとき、聞こえてくるのだろうか。
雛は立ち上がり、黎明で薄青に染まった遠くの山稜を見つめた。
しばらく見つめていた雛の瞳には、とても強くあたたかな光が灯っていた。
まるで昇り始めた日のように。
END