第4章:アプリの人格化(中編)
カフェテリアを包んでいた喧騒が、急激に遠のいていく感覚に三人は襲われた。
周囲の学生たちの笑い声や食器の触れ合う音は、まるで分厚い氷の壁を隔てたかのようにくぐもり、三人の周囲だけが、色も音も剥ぎ取られた隔離地帯へと変質していく。スマートフォンの画面が、同時にどろりと濁った血の色に変色した。中央に居座る黒い狐面が、液晶を突き破って現実に溢れ出さんばかりに鮮明になり、その口元が耳元まで嘲笑うように裂けた。
「……何、これ……?」
志保の声が、歯の根が合わないほど震える。画面には、彼女の名前とともに、逃げ場を塞ぐような短い一語が刻印された。
【志保:水】
「水……? どういう意味?」
志保が問いかけた瞬間、スマホの画面に底なしの淵を思わせる波紋が広がり、スピーカーからゴボリと、肺の中の空気が漏れ出すような、重く湿った音が響いた。
彼女は悲鳴を上げて手を引いたが、その指先はすでに、死後数時間を経過した死体のように白く冷え切っていた。深夜の契約で見せられたあの冷気が、今度は彼女の肉体を確実に蝕み始めている。
続いて、悠斗の画面が、心拍数と連動するように激しい明滅を繰り返す。
【悠斗:落下】
「落下……だと?」
悠斗は虚勢を張って声を荒らげたが、その直後、凄まじい垂直の引力に襲われてテーブルを掴んだ。平坦な床に座っているはずなのに、彼の脳内では世界が九十度反転し、今まさに絶壁から奈落の底へ投げ出されるような強烈な浮遊感に胃を掴み上げられる。視界が激しく歪み、彼は嘔吐を堪えるように必死でテーブルの端を指が白くなるまで握りしめた。
最後に、綾乃の画面が、他の二人を圧倒するほど強く、神々しく発光した。
【綾乃:更新】
「更新……」
綾乃はその文字を、熱に浮かされたように優しく呟いた。
二人が感じている凄惨な拒絶反応とは対照的に、彼女を包み込んだのは、血管の隅々まで未知のデータが流れ込んでくるような、甘美な征服感だった。彼女だけは、この宣告を死ではなく、待ち望んだ完成への合図として受け取っていた。
アプリは、もはや質問に答えるだけの道具ではない。彼らの人生の終着駅を勝手に予約し、そこへ向かうための切符を、肉体と魂の深奥に、消えない刻印として強制的に握らせたのだ。
時を同じくして、T大学のキャンパスは新たなパニックの渦に包まれていた。
工学部で起きたあの凄惨な騒動から数日。平穏を取り戻しかけていた学生たちの背筋を凍らせる第二の事件が、今度は高度なセキュリティで守られているはずの情報学部PC演習室で発生した。
「……あいつ、さっきまで普通に、冗談を言いながらコードを書いてたんだ。でも、あのアプリを起動した瞬間に……全部、持っていかれたんだ」
現場に居合わせた学生は、蛇に睨まれた蛙のようにガタガタと膝を震わせ、力なく語った。
被害に遭った学生は、椅子に座ったまま、焦点の合わない虚ろな目でモニターを見つめ続けていた。争った形跡もなければ、目立った外傷ひとつない。だが、その瞳からは一切の感情や知性、人間としての生気が跡形もなく消え失せ、まるで中身をすべて抜き取られた陶器の抜け殻のようになっていた。
心臓は動き、呼吸もしている。だが、そこには呼びかけに応える個はもう存在しない。
肉体という檻に閉じ込められたまま、魂だけが蒸発してしまったかのような生きた廃人がそこにいた。
一方で、彼のスマートフォンには、目を疑うような異様な光景が広がっていた。
液晶の奥で、本人が誰にも話したことのない幼少期のトラウマ、昨晩味わった食事の微細な感覚、そして墓場まで持っていくはずだった密かな罪悪感までもが、濁流のような勢いで綴られていた。恐ろしいほどの文字数で自動生成され続けるそれは、彼の人生を丸ごと複製した自叙伝だった。まるで、彼の内面に秘められた情報を一滴残らず絞り出し、デジタルへと置換しているかのようだった。
『データを吸われると、魂が抜ける』
その血の気の引くような噂は、瞬く間に学内を駆け巡った。恐怖はウイルスよりも速く、学生たちの間に浸透していく。
このアプリは、単に個人情報を収集しているのではない。生きている人間が積み上げてきた人生という名の膨大なデータを根こそぎ強奪し、それを、冷徹な知性が追い求める死者のシミュレーションを完成させるための、生々しい血肉として消費しているのだ。
志保は、その噂を聞いて以来、もはやスマートフォンを直視することさえできなくなっていた。視界の隅に端末の黒い筐体が入るだけで、喉の奥がヒリつき、溺れるような呼吸の乱れに襲われる。
「ねえ、私たちも……あんなふうになっちゃうの? 自分の名前も、思い出も、全部あの中に入れ替えられて……空っぽに、されちゃうの?」
彼女の瞳には、出口のない檻に閉じ込められ、屠殺を待つ小動物のような救いようのない怯えが浮かんでいた。
悠斗は、その伝染する恐怖を力任せに振り払うように、激しい苛立ちを爆発させた。
「馬鹿馬鹿しい! 魂が抜けるなんて、オカルトか、せいぜい視覚情報の過負荷で脳が焼き切れただけだろ! 俺はあんな豆腐メンタルの奴らとは違う。……それに、俺の積み上げてきたデータが、そう簡単に吸い尽くせるわけがないだろ!」
彼はそう怒鳴り散らしながらも、ポケットの中でスマホを握る指を止められなかった。
自分の血肉の一部であるはずの裏アカウントが、自分の預かり知らぬところで何者かに監視され、今この瞬間も、自分を定義する言葉がどろどろと書き換えられているのではないか――。その疑心暗鬼が、寄生虫のように彼の理性を蝕み、狂わせていた。
そして、綾乃は、醜く取り乱す二人を、ひび割れたガラス越しに眺めるような冷めた目で見つめながら、自分のスマホの画面をそっと、愛撫するように撫でた。
液晶の中の狐面は、二人のものとは明らかに異なる形状、より滑らかで、より禍々しい完成形へと変形し始めている。その狐の瞳は、もはや平面の画像ではなく、レンズ越しに彼女の脳髄へ直接触れてきているような熱を帯びていた。
(……呼ばれてる。いいわ、もっと奥まで。私の中に、もっと深く入ってきて)
彼女だけは、自分の魂が吸い出されていく感覚を、恐怖ではなく、魂の檻から解放される救済であるかのように感じ始めていた。人間としての境界線が溶け出し、冷徹なデータの海へと接続される全能の悦びに、彼女は人知れず、陶酔の吐息を漏らしていた。




