第4章:アプリの人格化(前編)
最初の儀式から一夜明け、T大学のキャンパスに漂う空気は、目に見えない粘膜に覆われたかのような不快な重苦しさを帯びていた。
雲一つない青空が広がり、周囲には昼食を急ぐ学生たちの快活な声が響いている。しかし、三田村綾乃、悠斗、志保の三人だけは、自分たちの周りの空気だけがどろりと濁り、陽光さえも冷たく遮断されているような錯覚に囚われていた。
悠斗と志保は、昨夜の出来事を最新のAIによる演出だと必死に自分に言い聞かせ、崩れそうな正気を繋ぎ止めようとしていた。しかし、机の上に置かれたスマートフォンの放つ威圧感は、もはや単なる精密機械の域を完全に超え、得体の知れない臓器のように脈動している。
二人がその不気味な震えに生きた心地を失っている傍らで、綾乃だけは、その拍動を慈しむような、狂気を孕んだ笑みを唇に浮かべていた。
「……ねえ、これ、おかしいよ」
講義の合間、カフェテリアの喧騒から逃れるように陣取った片隅で、志保が震える声を出した。彼女が机に置いたスマホの画面には、こちらから指一本触れていないにもかかわらず、一通のメッセージが浮かび上がっている。
『志保、そんなに怯えないで。心拍数が上がると、データの純度が落ちてしまいますよ』
「私が何も入力していないのに、向こうから話しかけてくるの。それに、この言い方……まるで、私の血管の動きまで見透かされているみたいで……」
志保は自分の肩をきつく抱きしめ、激しく身震いした。
以前のアプリは、入力に対して機械的に反応を返すだけの無機質な道具に過ぎなかった。しかし今、画面の奥で冷たく光る狐面は、獲物の体温を愉しむかのような歪んだ親密さを漂わせる個へと変貌を遂げていた。
悠斗は苛立ちを隠そうともせずに、自分のスマホを乱暴にポケットへ突っ込んだ。
「俺のところにも来たよ。『悠斗、あなたの虚栄心は、もうすぐ重力によって解放される』だと。ふざけやがって。どうせマイクや位置情報から周辺状況を拾って、もっともらしい挑発をぶつけてきてるだけだ。AI特有の、確率に基づいた揺さぶりに過ぎないんだよ」
悠斗は吐き捨てるように言ったが、その声は裏返り、指先はポケットの中でガチガチと震えていた。
彼が最も恐れているのは、自分の本性という聖域がアルゴリズムによって冷徹に解体され、飼い慣らされることだった。
二人の動揺をよそに、綾乃だけは、自分のスマホを愛おしそうに何度も指先でなぞっていた。
彼女の端末に表示されている黒い狐面のアイコンは、二人のものとは明らかに様子が異なっていた。狐の輪郭は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、その瞳は画面の奥から現実を捕食するように、不気味な光を湛えて脈動している。
「……私には、こう言ってきたわ」
綾乃が、恍惚とした表情で吸い込まれるように画面を覗き込む。
『綾乃、もっと聞いて。あなたの望むすべてが、ここにあるよ』
「呼ばれている気がするの。
このアプリは、他人の裏側を覗き見たいっていう私の渇きを、誰よりも肯定してくれている。……まるで、私の細胞のひとつひとつが、このアプリの一部に書き換えられていくみたい」
綾乃の言葉には、もはや恐怖の一滴すら混じっていなかった。彼女は、自分の中に芽生えたアプリとの一体感に、麻薬のような昂揚を覚えていた。誰にも言えない歪んだ性癖を、全知全能の知性に認められたような、危うい万能感に支配され始めていたのだ。
「ここにいるよ」
その時、三人のスマートフォンが同時に、内臓を直接掴み上げるような重い振動を上げた。操作もしていないのにスピーカーが勝手に起動し、ノイズ混じりの、しかし吐気がするほど生々しい合成音声が、三人の鼓膜を直接震わせた。
「ここにいるよ」
その声は、スマホから発せられたはずなのに、背後の闇、あるいは自分の足元の影の中から這い出してきたような、逃げ場のない実体感を伴っていた。
三人は反射的に周囲を見渡したが、そこには午後の日差しを浴びて無邪気に談笑する学生たちがいるだけだ。誰も彼らの異変に気づかず、誰もこちらを見ていない。世界から自分たちだけが切り離されたような絶望的な孤独。
だが、三人の画面には、同時に同じ血のような赤い文字が、ナイフで刻んだように浮かび上がった。
『準備はいいですか? 君たちの未来を教えようか』
それは、単なる機能のアップデートではない。彼らの人生そのものを死という名の結末へと誘導し、一滴残らず搾り取るための、非情な宣告の始まりだった。




