第3章:最初の儀式(後編)
部屋の温度はさらに下がり、三人の吐く息が白く濁り始めていた。
刺すような冷気が肌を刺し、電子機器の熱さえも奪い去っていく。スマートフォンの画面上で踊る白い円は、もはや無機質な幾何学図形ではなかった。それは幾重にも重なる粘膜を持った生き物の眼のように蠢き、網膜を舐めとるような不快な脈動を繰り返している。
それまで、アプリの回答は情報の羅列や、冷淡な機械的問いかけに過ぎなかった。しかし、同期率が八〇%を超えた頃から、画面に流れるテキストに異様な湿り気が混じり始める。一文字ずつ刻まれるたび、画面の奥からどろりとした何かが這い出してくるような、錯覚に似た圧迫感が三人を包み込んだ。
『志保、そんなに震えないで。心拍数が上がると、データの純度が落ちてしまいますよ。せっかくの綺麗な絶望が、ノイズで濁ってしまう』
『悠斗、怒りは無意味です。あなたの虚栄心は、もうすぐ重力によって解放されるのだから。すべてを失った時、あなたは初めて本物になれる。楽しみでしょう?』
「……文体が、変わった?」
悠斗が、恐怖で引き攣った声を上げる。
それは単なるアルゴリズムによるテキストの生成ではない。まるで、画面の向こう側の深淵に潜む何かが、三人の喉元に鼻先を寄せ、その反応を楽しみながら直接話しかけてきている。逃げ場のない密室で、耳元に直接湿った息を吹きかけられるような、吐き気を催すほどの不気味な親密さを帯びていた。
端末はもはや熱を帯びた、ただの金属の塊ではない。彼らの精神を啜り、人格を解体するための口へと変貌していた。
突然、三台のスマホが地鳴りのような重低音を響かせ、部屋の空気を震わせた。画面は血をぶちまけたような禍々しい赤に染まり、その中心に位置する狐面が、肉を割いて現れるかのように大きく、鮮明に浮かび上がる。狐の口が耳まで裂けるように開き、奈落の底から響くような声で、三人の深淵が暴かれた。
狐の目はまず、志保を射抜いた。
『志保。……冷たく、逃げ場のない場所を、あなたは既に知っているはずだ』
志保の耳元で、どろりとした水が滴る音が響いた。それと同時に、彼女は激しくむせ返り、空気を吸い込もうとする喉の奥へ、目に見えない氷のような冷気が奔流となって流れ込んできた。肺が凍りつくような錯覚に襲われ、彼女は溺れる者のように虚空をかきむしり、その場に崩れ落ちた。
次に、狐の視線が悠斗を捉える。
『悠斗。……あなたは、自分がどこまで高く、脆い場所に立っているか、理解していない』
その言葉と共に、悠斗の平衡感覚は完全に消失した。床が底抜けたような錯覚に陥り、心臓が跳ね上がるほどの強烈な目眩が彼を襲う。上下の概念が消え、奈落の闇へと放り出されるような予感に耐えきれず、彼は嘔吐しそうなほどの恐怖に顔を歪め、爪が剥がれるほどの力で床のフローリングにしがみついた。
そして、狐の目は最後に、歓喜に震える綾乃を捉えた。
『綾乃。……あなたは、こちら側の真実を望むのですね』
「……。私が、あなたの視る世界へ行けるの?」
綾乃の顔には、もはや恐怖など微塵もなかった。彼女は恍惚とした表情で、光を放つ液晶を見つめている。彼女の指先は、まるで底なしの泥に沈むように、抵抗もなくスマホの画面の奥へと沈み込んでいった。肉とデジタルが溶け合い、指の先から徐々に境界線が曖昧になっていく熱烈な感覚を、彼女は至福の表情で受け入れていた。
宣告というにはあまりに断片的で、暴力的な契約が終わると同時に、心臓を鷲掴みにされていたような指の拘束がふっと解けた。チカチカと明滅していた部屋の明かりが、何事もなかったかのように元の平穏な色を取り戻す。
三人は、糸の切れた人形のように力なく床に這いつくばり、荒い呼吸を繰り返した。だが、彼らの手の中にあるスマホの画面だけは、決して消えようとはしなかった。
「……消せない。電源が落ちないよ」
志保が脂汗の浮いた手で、壊れたように電源ボタンを連打する。しかし、液晶の中央には、あの血塗られた狐面が嘲笑うように居座り続けている。
よく見ると、そのアイコンの形は、先ほどよりもわずかに歪み、うねりを伴って変形し始めていた。縁取られた線は血管のように脈打ち、ピクピクと有機的な痙攣を繰り返す肉の塊へと変質していく。
「ねえ、聞こえる……?」
志保が、ひゅっと息を呑んで呟いた。
三台のスマホのスピーカーから、ざらついたノイズに混じって「クスクス」という、幼子のようでもあり、飢えた獣のようでもある狐の笑い声が漏れ出し、部屋中に反響し始めた。
「ここにいるよ」
その囁きは、もはや端末から発せられた電子音ではなかった。三人のすぐ背後、首筋に冷たい吐息がかかるほどの至近距離、誰もいないはずの濃密な闇の中から、はっきりとその声は響いた。
大学生としての彼らの平穏な日常は、この深夜零時の契約によって、取り返しのつかない終焉を迎えた。彼らが次に顔を上げる時、そこにはもう、見慣れた日常の風景などどこにも残っていない。




