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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第3章:最初の儀式(中編)

「……っ、離れろ! 動くなっつってんだろ!」


 悠斗の怒鳴り声が、深夜のワンルームに虚しく響く。

 剥き出しの恐怖を隠すように叫ぶ彼の腕には血管が浮き上がり、必死にスマホから指を引き剥がそうと抗っていた。だが、その努力を嘲笑うかのように、三人の指先は、まるで磁石で吸い付いた鉄屑のようにスマートフォンの液晶に固定されている。


 いや、吸い付いているだけではない。ガラス面と指先の皮膚が、分子レベルで混ざり合っていくような、肉体がデバイスという機械の一部に組み込まれていくような、おぞましい一体感が彼らを襲っていた。


 青白い円の上を、三人の指が意思に反して滑るように動き、不気味な文様を描き出す。それは文字を綴っているというより、デバイスが指先の神経を通じて、彼らの深層データ、……脳の奥底に沈めた記憶の(おり)を、力任せに引き摺り出しているかのようだった。


 悠斗の荒い呼吸と、志保のひきつった嗚咽。やがて、逃げ場のない沈黙を切り裂くように、三台のスマホが共鳴し、臓器が震えるような低い振動を上げた。


『準備完了。隠された真実を同期します』


 スピーカーからではなく、鼓膜の内側、あるいは脳の中枢へ直接流し込まれるような、感情を排した合成音声。その声が響いた瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。


「……っ!」


 志保が、そして悠斗が、同時に息を呑んだ。二人の顔から、一気に血の気が引いていく。この場にいる全員が、自分の中に暴かれたら終わるという真っ黒な(おり)を抱えていた。

 次に画面が光れば、自分の人生が粉砕されるかもしれない。その死刑宣告を待つような沈黙が、三人を縛り付ける。


「……誰の、何が出てくるっていうのよ」


 綾乃だけが、渇望に満ちた瞳で三台の端末を交互に見つめていた。その直後、まるで獲物が選定されたかのように、志保の手の中にあるスマートフォンだけが、激痛にのたうち回る生き物のように激しく明滅を始めた。


「やだ……。嘘、私じゃないわよね……!?」


 志保が、手の中の怪異を放り出そうと、狂ったように腕を振る。だが、端末は彼女の掌に呪いのように張り付き、離れない。網膜に焼き付くような禍々しい光が収まったあと、液晶に浮かび上がったのは、彼女がこの世で誰にも、特にこの二人には絶対に見られたくないと願っていた、ある一枚の画像だった。


 画面に映し出されたのは、あまりにも無機質な、一本のプラスチックの棒だった。ドラッグストアの片隅で、震える手で購入したであろう妊娠検査薬。その小窓には、逃れようのない現実を突きつける、くっきりとした二本の赤い線が浮かび上がっている。


「……あ」


 志保の喉から、空気の抜けるような細い音が漏れた。一瞬にして顔面から朱が引き、唇が紫がかって震え始める。それは彼女が、深夜の暗闇で一人、パスワードを三重にかけた隠しフォルダの最深部にだけ封じ込めていた、人生を破壊しかねない呪いの記録だった。


 だが、アプリの蹂躙は画像だけでは終わらなかった。狐面のアイコンが画面の端で愉悦に浸るように明滅すると、彼女が誰にも言えず、履歴を消したつもりでいた検索の足跡を、内臓を引き摺り出すような手つきで暴き出した。


『志保。不安ですね。あなたの指先は、深夜二時にこう綴っている。

 中絶 費用。親にバレない方法。一人で病院。

 あなたは、宿った命への憐憫(れんびん)よりも、今この瞬間の平穏が壊れることを何より恐れている。快楽だけを共有し、責任からは二人で目を逸らし続ける。あなたは、その不誠実な逃避の共犯者だ』


「やめて、お願い、消して……消してえぇっ!」


 志保は喉が裂けるような悲鳴を上げ、身悶えた。指を液晶から引き剥がそうと、爪が剥がれんばかりに力を込めるが、癒着した指先はスマホの表面に粘り付き、ぴくりとも動かない。むしろ、画面から漏れ出す青白い光が、彼女の毛細血管を伝って全身を侵食していくような感覚。彼女のプライバシーという名の皮膚が、デジタルな暴力によって一枚ずつ剥がされていく。


 隣にいた悠斗は、信じられないものを見る目で志保を凝視していた。

 友人への、生理的な嫌悪。そしてそれ以上に肥大化した、次は自分かもしれないという際限のない恐怖だ。


「……汚ねぇな、志保。お前、裏でそんなこと……」


 悠斗の口から、無意識に拒絶の言葉が漏れた。

 彼女の異変に気づきながら見て見ぬふりをしてきた薄情な自分を棚に上げ、志保一人を身持ちの悪い女として泥沼に突き落とす。自分だけは潔癖な傍観者の顔をして安全圏へ逃げ込もうとする、醜い生存本能だった。


 だが、アプリはその卑怯な逃げ足を許さなかった。

 志保を責める悠斗の視線が冷たさを増したその瞬間、彼の掌の中で、スマートフォンのバイブレーションが今までとは質の違う、地響きのような唸りを上げたのだ。


「あ……熱っ!?」


 それまで氷のように冷たかった端末が、まるで沸騰した油を注がれたかのように、猛烈な熱を持ち始めた。志保のスマホが断末魔のような長い振動を上げた直後、今度は悠斗の手元にある端末が、彼の掌を焼き焦がさんばかりに拍動し始める。

 ターゲットが移ったのだ。


 次は、お前の番だ――。画面の中で嘲笑う狐の目が、真っ赤に充血し、悠斗の良心を焼き殺そうと爛々と輝き出した。


 悠斗の画面には、彼が普段見せている明るく社交的な大学生という仮面を粉々に砕く、凄惨な罵詈雑言のログが流れ始めた。スクロールされるたびに溢れ出すのは、彼が匿名の裏アカウントを使用して、同じサークルの仲間や自分を評価しない教授たちを執拗に攻撃していた、どす黒い悪意の集積だった。


『B男は死んだ方がいい』


『実力もないくせに気に入られてるだけ』


『この大学ごと消えてしまえばいいのに』


 画面を埋め尽くす禍々しい文字列は、紛れもなく悠斗自身が指先から吐き出した毒だ。


「……っ、これは、これはただのストレス解消だ! ネットなんてみんなこんなもんだろ!」


 喉を喘がせ、悠斗が必死に叫び、醜い合理化を図ろうとする。しかし、アプリは彼の文体に染み付いた救いようのない攻撃性を解析し、それが単なる解消の域を超えた、彼の本質的な歪みであることを突きつける。


『悠斗。あなたの承認欲求は、他者を貶めることでしか満たされない。あなたが親友と呼ぶ連中への誹謗中傷を、今ここで、彼ら全員のタイムラインに一斉送信しましょうか?』


「ふざけるな! やめろ、やめてくれ!」


 血の気が引き、ガチガチと歯の根が合わないほどの戦慄が彼を襲った。その送信ボタン一つで、明日からの居場所も、手に入れてきた賞賛も、すべてが汚物として処理される。


 悠斗のプライドが、自らが研ぎ澄ませたデジタルな刃によって無残に切り刻まれていく。これまで誰かを踏みつけるために振るってきた凶器が、今度は自分の喉元をじりじりと裂き、取り返しのつかない破滅へと彼を追い詰めていた。


 二人の無残な姿を、綾乃はうっとりとした表情で見つめていた。まるで極上の舞台を特等席で鑑賞しているかのように、彼女の指もまた、スマホに吸い付くように固定されている。しかし、彼女は逃げようとはしなかった。


 恐怖に顔を歪める二人とは対照的に、その口角は隠しきれない歓喜に吊り上がっている。彼女はこの瞬間、二人の人生が修復不能に砕け散る時を、誰よりも心待ちにしていたのだ。

 彼女の画面に表示されたのは、何百枚、何千枚という膨大な写真の奔流だった。

 学食で笑い合う横顔、講義中に気を抜いた背中、人目を盗んで密会する足元……。それは、キャンパス内の至る所で、被写体に気づかれずに執拗に記録し続けられた、執念深い盗撮まがいの画像群だ。


『綾乃。あなたは観測者でありたいと願っている。他人の秘密を啜り、その絶望を観察することでしか、自分の空虚さを埋められない。あなたのフォルダには、志保のあの画像も、悠斗の裏アカウントの証拠も、すでに保存されていますね。あなたは彼らを助けたいのではない。彼らが壊れる瞬間を、最前列で見ていたいだけだ』


 アプリの残酷な指摘が静まり返った部屋に響き、志保と悠斗の、血の気の引いた視線が綾乃に突き刺さった。


「綾乃……あんた、まさか、私たちのこと……ずっとそんな目で見てたの?」


 志保の声は、裏切りの深さに震えていた。しかし、綾乃は否定しなかった。まばたきすら忘れ、吸い込まれるような瞳には、友人の絶望こそが何よりのご馳走であるかのような、おぞましく歪んだ光が宿っている。


「……そうよ。だって、素晴らしいじゃない。これまでどんなに綺麗に隠していても、データはこうして本当のあなたたちを見せてくれるんだもの。これ以上に純粋な真実なんて、この世界のどこにもないわ」


 三人の秘密は、もはや三人の間だけのものではなくなっていた。

 アプリの画面には『同期中:50%……60%……』という、破滅へのカウントダウンを刻む不気味な進行バーが表示されている。それまで機械的だったアプリの口調は、まるで泥を啜るような、粘り気のある独自の意思を感じさせる文体へと変質し始めていた。


『大学生という脆いデータ。あなたたちの秘め事こそが、私の新しい血肉となります』


 次の瞬間、部屋の電球が激しく明滅し、バチバチと火花を散らす。それと同時に、彼らは自分たちが立っていた日常の地面が完全にひび割れたことを悟った。


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