第3章:最初の儀式(前編)
時計の針が午後十一時を回った頃、T大学近くにある綾乃のワンルームマンションには、刺すような緊張感が漂っていた。
狭い室内を支配しているのは、窓の外の夜気よりも冷たい何かだ。
家主である三田村綾乃を囲むように、彼女に呼び出された同じ学部の友人、悠斗と志保が、逃げ場のない沈黙の中で肩を寄せ合っている。
「……マジでやるのかよ。こんな時間に、こんな狭苦しい部屋で」
悠斗が、不機嫌を隠そうともせずに吐き捨てた。
サークルでは常に話題の中心にいる自信家の彼だが、今の声には隠しきれない震えが混じっている。言葉とは裏腹に、彼の指先は手持ち無沙汰にジーンズの裾を何度もなぞり、その動きは次第に激しさを増していった。
「悠斗だって、本当は気になってるんでしょ? あの工学部の動画……。ずっと繰り返し見てたじゃない」
志保が、震える腕で自らの膝を抱え込むようにして呟いた。控えめで周囲の空気に敏感な彼女は、この部屋の隅々に不吉な予兆が張り付いているのを、肌で感じ取っているようだった。
志保の顔色は、どことなく土気色に沈み、その瞳は自分の意思に反して、机の上に置かれた綾乃のスマートフォンを、蛇に睨まれた蛙のように見つめている。
綾乃は、淹れたてのコーヒーを二人の前に置きながら、艶やかな笑みを浮かべた。湯気とともに立ち上る香りは、かえってこの場の異質さを際立たせる。
「調査よ、調査。民俗学のレポートのためには、一次資料……。つまり、実際に起きている現象をこの目で体験するのが一番だもの。二人とも、私の大切な友人だからこそ、証人になってほしいのよ」
綾乃の声は、凪いだ水面のように滑らかだった。だが、カップを握る彼女の手は、微かに、そして期待に悶えるように小刻みに震えている。その瞳の奥には、友人の二人ですら一度も見たことのない、ギラついた飢餓感が宿っていた。
彼女が求めているのは、レポートの裏付けなどではない。この「友人」と呼んでいる二人の、決して人には見せられない裏側――取り繕った仮面が剥がれ落ち、データの深層に隠された恥部が曝け出される瞬間に立ち会うこと。それこそが、彼女にとっての至高の愉悦だった。
その獣の欲求が、暗い部屋の中でアプリの起動を今か今かと待ちわびていた。
「……なあ。そもそもこれ、AIが位置情報やSNSのデータを参照して、死者の人格をシミュレートする仕組みなんだろ?」
悠斗が、自分を納得させるように大きな声を出した。静寂を打ち破るその声は、震えを隠すために不自然に高い。
「GPSで今の場所を特定して、スマホ内のデータを拾い上げる。それで、もっともらしい返答を合成してるだけだ。降霊なんてのはただの演出、ガワだけの話だよ。コックリさんだって、実際は筋肉の無意識な動きだっていう科学的な証明があるんだからな。
……な、そうだろ?」
「そう……だよね。ただの最新技術を使った、高度な占いみたいなものだよね」
志保が、濁流の中で流木に縋り付くような必死さで頷いた。
「最近はマッチングアプリだって、性格診断から相手の思考を予測するし。これもきっと、その延長線上の……、ちょっと悪趣味なただのエンターテインメントだよ。そうに決まってる」
二人は、自分たちの持ち合わせる乏しい知識を総動員して、これから起きようとしている未知の事象に合理化という名の蓋をしようとしていた。それが、今この場を支配し始めている、心臓を直接握りしめられるような恐怖から逃れる唯一の方法だったからだ。
綾乃は二人の会話を、薄笑いを浮かべながら黙って聞いていた。
(……合理的? 科学的? だったら、どうしてそんなに青い顔をして、膝をガクガク震わせているの?)
彼女の視線は、テーブルに並べられた三台のスマートフォンに釘付けになっていた。三台の端末は、まるで一つの臓器を共有する生命体として繋がろうとしているかのように、同期した微かな……けれど鼓膜の奥を針で刺すような高周波のノイズを放っている。
十一時五十九分。部屋の空気が、逃げ場を失ったように急激に密度を増した。換気扇の回る音も、遠くを通る車の走行音も、すべてが深海に沈んだかのように遠のき、消失する。聞こえるのは、三人の重苦しい鼓動と、電子の唸りだけだ。
「いくわよ」
綾乃が低く囁いた。その声に弾かれたように、悠斗と志保がスマホに指をかける。三人の指先が、それぞれの画面で嘲笑う狐面に触れようとした、その瞬間。
壁掛け時計の針が、死刑宣告のような重々しさで零時を刻んだ。
一斉に、三台のスマホから網膜を焼くような青白い光が噴き出した。
漆黒の画面中央に、その青白い光が円を描いていく。そして、誰の意志でもなく、三人の指先が磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、その円の上へと勝手に滑り出し始めた。
「……っ! 離れない! 動かないんだ、指が……!」
悠斗が悲鳴を上げた。彼は必死に腕を引き剥がそうとするが、指先はガラス面に執拗に癒着している。まるでスマホの筐体から目に見えない無数の触手が伸び、彼の神経に直接潜り込んできたかのような、おぞましい感触。
彼の指は、本人の意志を完全に無視し、スマートフォンの表面を不規則な軌跡を描いて這い回り始めた。それは文字を入力しているというより、自分の血をインクにして、呪いの契約書を書き換えているような、異様な光景だった。
最初の儀式。取り返しのつかない降霊の扉が、ついにこじ開けられた。




