第2章:噂が形になる(後編)
その日の夕暮れ、T大学のキャンパスは不気味な赤紫色の光に包まれていた。影が長く伸び、建物の輪郭が溶け始める不吉な時間帯。工学部の研究棟から、鼓膜をつんざくような、正気を失った叫び声が響き渡った。
「やめろ……勝手に打つな! それは俺じゃない、俺の言葉じゃないんだ!」
研究棟の入り口から飛び出してきた男子学生は、自分のスマートフォンを呪いの塊でも掴むように両手で必死に押さえつけていた。まるで見えない獣に首を絞められているかのように地面を転げ回り、アスファルトに顔をこすりつける。彼の顔はどす黒い土気色に変色し、見開かれた瞳の毛細血管は、恐怖で今にも弾けそうに充血していた。
異変を察知した学生たちが、まるで腐肉に群がる羽虫のように吸い寄せられてくる。彼らは助けを呼ぶ代わりに、反射的にスマートフォンのレンズを彼に向けた。だが、そのレンズが捉えたのは、単なる学生のパニックではなかった。
学生の指が一度も触れていないのに、液晶画面が生き物のように脈打ち、異常な速度で明滅していたのだ。
画面上では、彼が誰にも、親友にさえ隠し通してきたはずのSNSの裏アカウントが暴走していた。ログインパスワードという境界線を土足で踏み越え、アプリが彼の脳から直接言葉を汲み上げているかのように、どす黒い独白を世界へ向けて垂れ流し始める。
『あいつは死んだ方がいい』
『教授のパソコン、昨日壊したの俺だよ。あいつの顔、傑作だった』
『全部嘘だ。俺の本当の姿は、こっちなんだ。見ろよ、俺の中身を』
文字が更新されるたび、投稿完了を告げる無機質な電子音が、彼の人生の断裂音のように響く。彼が心の奥底、最も深い暗がりに沈めていたはずの欲望が、アプリの手によって無理やり白日の下に晒され、剥製にされていく。
「消えないんだ……。アカウントを消したのに、投稿が止まらないんだ!」
彼は獣のような咆哮を上げると、スマホをコンクリートの角に叩きつけた。凄まじい衝撃とともに火花が散り、液晶は蜘蛛の巣状に砕け散った。しかし、異変は終わらなかった。
粉々に割れ、配線が露出したはずの画面から、なおも黒い狐面のアイコンが不気味に発光し続けたのだ。バックライトが死んでいるはずの闇の中から、狐の目だけが爛々と輝き、彼の人生を粉砕する更新を冷徹に継続する。物理的な破壊すら受け付けないデジタルの怪異。
その凄惨な光景は、現場に集まった学生たちの端末を通じて、瞬く間に学内のネットワークを汚染していった。画面越しにその動画を見た者たちの指先にも、一筋の冷たい震えが伝走する。
噂はもはや制御不能な真実へと姿を変え、キャンパスという閉鎖空間をじりじりと、確実に侵食し始めていた。
その侵食の最前線に、三田村綾乃はいた。
彼女は自分の部屋の暗がりで、たった今拡散されたばかりのその動画を、何度も、何度も繰り返し再生していた。手元の端末からは、アスファルトにスマホを叩きつける鈍い音と、絶望に満ちた男子学生の悲鳴がループ再生されている。青白い画面の光に照らされた彼女の顔には、恐怖のかけらもない。あるのは、乾いた大地が泥水を吸い込むような、飢えた悦楽だった。
「すごい……本当に、全部暴いてくれるんだ」
彼女は、レポートの題材にするという名目を自らの中で塗りつぶした。
彼女の本音、すなわち人の秘密を暴き、その裏側を覗き見ることへの快感が、画面越しの悲劇によって完全に覚醒してしまったのだ。彼女にとって、動画の中の学生が絶望する姿は、この上なく美しい真実の開示に見えた。仮面を剥ぎ取り、隠された醜いデータを世界に共有する。それこそが、彼女が求めていた究極のコミュニケーションだった。
(次は、私の番……?)
期待に震える指先が画面をなぞった、その時だった。
まるで彼女の思考を読み取ったかのように、スマートフォンが意志を持っているかのように震えた。動画の再生が強制的に中断され、漆黒の背景に、正規のルートを介さない未知の通信プロトコルによるインストール通知が突きつけられる。
『降霊アプリ:インストールを開始します。あなたの秘密を、最適化しましょうか?』
拒否するボタンはどこにもない。いや、あっても彼女は押さなかっただろう。
画面の中央には、あの黒い狐面のアイコンが鎮座している。以前よりも狐の口角は深く、耳元まで裂けたかのように吊り上がり、彼女を深淵へと歓迎しているように見えた。その瞳の紅い点は、もはや液晶の光ではなく、本物の体温を持った生物の眼差しとして彼女を射抜いている。
綾乃は、まるで恋人からの誘いに応じるように、その冷たいアイコンへと吸い寄せられるように指先を滑らせた。指がガラス面に触れた瞬間、指先から脳へ向かって、氷のような鋭い電流が駆け抜ける。
同時に、バチン、という硬質な音を立てて、部屋の電気が一斉に消失した。
静寂。そして、完全なる暗闇。
視界から色彩が奪われた部屋の中で、唯一、彼女が握りしめるスマートフォンだけが、死人の肌のような青白い光を放って浮かび上がっている。その光は綾乃の頬を不気味に照らし、彼女の影を壁一面に、歪な狐の形となって引き延ばした。
「さあ、見せて。誰の、どんな汚い秘密から教えてくれるの?」
綾乃の陶酔した囁きに呼応するように、画面の奥から、古い機械が噛み合うような「ギチギチ」という軋み音が漏れ出した。
暗黒の画面に、波紋のような白い円がゆっくりと浮かび上がり、旋回を始める。それは、彼女の精神と、そして彼女の周囲に蠢く友人たちの平穏な日常を、一滴残らずデジタルな地獄へと吸い込み、アップデートしていくための逃れられない始まりの合図だった。




