第2章:噂が形になる(前編)
「ねえ、例のアプリ、もう入れた?」
そんな湿り気を帯びた言葉が、キャンパスの至る所で、霧が立ち込めるように広がり始めた。
工学部の第4研究室で起きたあの夜の騒動から、わずか数日。当初、閉鎖的な内部チャットで細々と囁かれていた降霊アプリの噂は、情報学部のサーバーを経由し、瞬く間に文学部、そして教育学部へと飛び火した。それはまるで、学園内のフリーWi-Fi網という無機質な神経系を伝って、細胞分裂を繰り返すデジタルの疫病だった。
昼時の学生食堂。安っぽいカレーの匂いと食器のぶつかる喧騒のなかで、その会話だけが異質な粘り気を持って耳に届く。
「最初はさ、工学部の連中が作った高度なチャットボットか何かだと思ってたんだよ」
一人の学生が、周囲を警戒するように声を潜め、仲間に身を乗り出した。
「でも、情報学部の奴が試したら、三年前になくなった祖父しか知らないはずの秘密を言い当てられたらしい。SNSの履歴から推測してるなんてレベルじゃない。……もっとヤバいのはその後だ。
スマホの電源を切っているのに、死んだジイさんの咳払いが聞こえてきたんだって。それも、スピーカーからじゃない。画面を見つめていたそいつの、耳の奥……。脳みその中に直接響いたんだ。
スマホを介して記憶をかき回されてるみたいだったって、そいつガタガタ震えてたぜ」
話を聞く仲間の顔から血の気が引いていく。だが、その瞳の奥には、恐ろしいものを見たいという隠しきれない渇望が、濁った光となって宿っていた。
「当たるらしいよ」
その不確かな、けれど断定的な確信は、飲み会の席での冗談や退屈な講義中に回し読みされるメモを通じて、ドロドロとした尾ひれをつけて広がっていった。
『深夜二時の研究棟で起動すると、死者と通話できる』
『一度インストールしたら、スマホを物理的に壊さない限り、夜中に狐の鳴き声が鳴り止まない』
サークルのLINEグループには、発信元不明の都市伝説が雨後の筍のように書き込まれる。通知音が鳴るたびに学生たちはビクりと肩を揺らすが、すぐさま画面に吸い寄せられ、既読の数字だけが、異常な速度で、飢えたように増えていく。
誰かがそれを手に入れ壊れていく様を、安全な場所から覗き見ている高揚感。だが、その背徳的な興奮は、いつしか奇妙な強迫観念へと変質していった。「自分だけが、この現象に取り残されるのではないか」という、歪んだ疎外感だ。
恐怖は、常に好奇心という甘い蜜を伴ってやってくる。学生たちは、自分の手元のデバイスがいつ選ばれるのかを怯えながら待っていた。いや、正確には、その忌まわしい狐面のアイコンが、自分の日常という平穏を食い破って現れる瞬間を、共犯者のような顔で心待ちにしているのだ。自ら呪いの当事者になることで、退屈な日常が更新されるのを、彼らの指先は欲していた。
三田村綾乃は、喧騒から少し離れたテラス席で、学内に広がる狂乱を冷徹に観察していた。彼女の手元には最新のタブレットと、教授に提出するための「現代におけるデジタル怪異の受容」というレポートの草案が置かれている。彼女はこのアプリの噂を、あくまで「社会学的な調査対象」という建前で追い続けていた。だが、その整然とした文字の羅列とは裏腹に、彼女の意識はキャンパスを覆い始めた不純な熱狂のなかにあった。
(みんな、怖がっているふりをして、本当は他人の秘密が暴かれるのを期待している。……私と同じように)
綾乃は冷めたカフェラテを啜りながら、スマホの画面を鏡代わりに、自分の口元を確認した。そこには、獲物を見つけた肉食獣のような、醜悪なほど吊り上がった笑みが張り付いている。
彼女の本性は、他人の最も触れられたくない部分、データの深層に隠された恥部を暴き出す背徳的な快感に、どうしようもなく飢えきっていた。自分の中に潜む覗き見趣味という名の怪物を、このアプリだけが肯定し、優しく喉元を撫でてくれるような、甘い錯覚。
その歪んだ願望が、デジタルの闇を通じてあちら側に届いたのだろうか。思考の濁りに呼応するかのように、机の上のスマートフォンが、短く、しかし内臓の奥を直接掴むような重い振動を上げた。
画面に浮かび上がったのは、インストールした覚えのないアプリからの、命令に近い通知だ。
『新しいアップデートが利用可能です。あなたの知らない真実を、今すぐ同期しますか?』
通知の横で、あの不気味な黒い狐面のアイコンが、嘲笑うように瞳を細めている。以前よりもその面は肉感的になり、今にもプラスチックの筐体を突き破って、生温かい吐息を漏らしてきそうだった。
綾乃がその通知に触れようとした、その瞬間、世界から色彩と温度が急速に剥ぎ取られていく感覚に襲われた。
楽しげに談笑していた学生たちの声は、再生速度を極限まで落としたかのように不気味に引き延ばされ、やがて金属を削るような電子の不快なノイズへと変質する。
ふと視線を上げると、テラスを囲む植え込みの葉の隙間が、ぎょろりとした無数の黒い目に塗りつぶされていた。それは錯覚か、あるいは解像度の狂ったバグか。風に揺れる木の葉さえもが、デジタルな狐面の破片となって、彼女を包囲するようにざわめいている。
「……いいわよ。見せて。あなたが、私以上に何を知っているのか」
彼女が同意を呟いた瞬間、画面中央のインストールゲージが、まるで血を吸い上げるポンプのように、恐ろしい速度で伸び始めた。
それは単なるデータの更新ではない。綾乃の網膜、記憶、そしてこの静かなテラスの風景そのものが、デジタルな悪夢へと置換されていく、不可逆なカウントダウンだった。




