第10章:新しい噂(前編)
三田村綾乃がこの世界から消去されてから、一ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、キャンパスを彩る木々は、あの日のパニックを嘲笑うかのように青々と茂り始めている。かつて大学中を震撼させた降霊アプリの騒動は、まるで集団催眠が解けたかのように、学生たちの記憶から急速に風化していた。キャンパスですれ違う誰一人として、あの狂乱に怯えていた面影はない。
世界はあまりにも鮮やかに、そして残酷なほど完璧に彼女がいなかった日常を再構成してみせたのだ。学生たちの笑い声が溢れる眩しい陽光の下、あの戦慄さえもが今や実体のない都市伝説として処理されている。
その歪みのない正常な世界の平穏に飲み込まれるように、志保もまた、静かな時間の中に埋没していた。周囲に溶け込み、欠落した記憶を埋めるようにして、ただの女子大生としての役割をなぞる日々。
今日も志保は、大学の図書館で一人、教科書を開いていた。
生活は、表向きには以前と変わらない穏やかさを取り戻している。あの日、彼女を死の淵まで追い詰めた水の怪異はもう起こらない。水道の蛇口を捻れば透明な水が出るし、深夜の浴室の床が、あのおぞましい黒に染まることもない。
だが、安穏とした日常の裏側で、彼女の指先は今も無意識に震えることがある。
「……なんで、こんなに悲しいんだろう」
ふと、頬を伝う涙がノートを濡らした。
彼女には、自分がなぜ泣いているのかが分からない。理由の見当たらない絶望が、突然足元から這い上がってくるのだ。胸の奥を抉るような鋭い罪悪感だけが、実体のない幽霊のように彼女の精神に取り憑いている。
誰かを見捨てた。自分の代わりに、誰かが冷たい暗闇へ消えていった。その輪郭のない記憶が、ふとした静寂の瞬間に、彼女の心臓を強く握りつぶす。
志保は逃げるようにスマートフォンを取り出し、連絡先を何度もスクロールした。誰を探しているのかさえ分からない。ただ、そこに刻まれているはずの欠落した友人の形跡を、指先が必死に求めていた。だが、リストは無機質に完結し、最初からその一枠など存在しなかったかのように完璧に整列している。
この静まり返った図書館にいると、その完璧すぎる空白に押し潰されてしまいそうだった。志保はたまらず教科書を閉じ、逃げるようにして建物の外へでた。
眩しい陽光の下、学食のテラス席には、先に来ていた悠斗がいた。
「志保、またそんな顔してるのか」
声をかけてきた悠斗の顔も、あの日以来、どこか魂の抜けたような虚脱感を抱えていた。
二人はテラス席で力なく向かい合う。悠斗は、以前のようにスマホを乱暴に弄ることはなくなった。彼は今、高所恐怖症こそ克服しつつあったが、自分のスマホの画面を見ることに、言いようのない嫌悪感を抱いている。
「悠斗……あなたも、ずっと感じてる? あのアパートには、私たち二人で行ったはずなのに……なぜか、私たちが助かるために、誰かを見捨てたような気がしてならないの」
「……ああ。記録を見ても、俺の記憶を辿っても、あのアパートに行ったのは俺と志保、二人だけだ。部屋には誰もいなかった。なのに、どうしても誰かを犠牲にして、俺たちがこちら側に帰ってきたような感覚が消えないんだ。顔も、名前も、最初から存在しなかったはずなのに……。
ただ、すごく嫌な予感がする。俺たちが今、こうして何事もなかったように生きていられるのは、何か、取り返しのつかない対価を支払った結果なんじゃないかって」
悠斗は、自分の手のひらをじっと見つめた。二人の記憶からその人物を特定する断片は、跡形もなく消し去られている。
かつて存在したはずの誰かの笑い方の癖も、共に過ごしたはずの時間も、この世界の理からは「最初から存在しなかったこと」として完全に抹消されていた。
そこには無理やり剥がされたような空白すらなく、ただ滑らかに日常が続いている。それでも、魂の深い場所にこびりついた三人分の足音の残響だけが、説明のつかない罪悪感となって二人を苦しめ続けている。
この拭いきれない違和感の正体を探るように、悠斗が声を潜めて言った。
「なあ、変だと思わないか。最近、また例の『降霊アプリ』の噂を耳にするんだ。昔からよくある、ただの都市伝説だろ? なのに、最近みんなが話してる噂は、中身が少し違ってるんだ。俺たちが知ってるはずの怪談とは、まるで別物に書き換わっているみたいで……」
志保が顔を上げる。二人の間に、不吉な予感が冷たい風となって通り抜けた。それは、終わったはずの悪夢が、より洗練された「新しいバージョン」として、再びこの大学に根を張り始めていることを示唆していた。
――その「変容」は、二人の預かり知らぬ場所で、すでに形を成していた。




