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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第9章:アップデート後(後編)

 無人となった202号室に立ち尽くす志保と悠斗は、自分たちの意識が、まるで古い磁気テープが上書きされるように、刻一刻と書き換えられていく恐怖を感じていた。

 先ほどまで、確かに画面の中の彼女を見て、その名を呼んだはずだった。しかし、部屋の扉を閉め、階段を下りる一段ごとに、その名は脳の皺から滑り落ち、二人の会話から固有名詞が急速に消え失せていく。


「……あそこに残されていたスマホ、どうするべきだったんだろう」


 悠斗が力なく呟く。その声は、どこか遠くの出来事を回想しているかのように空虚だった。


「分からない。でも、触っちゃいけない気がした。あれはもう、私たちの知っている……あの子……じゃないから」


 志保はあの子と呼ぶのが精一杯だった。脳裏に浮かぶはずの顔立ちが、デジタルなモザイクがかかったようにボヤけ、色のない砂嵐へと変わっていく。二人の胸には、鉛を飲み込んだような重苦しい「罪悪感」だけが居座っていた。


 誰かを見捨てた。誰かを、取り返しのつかない場所へ送り出してしまった。だが、肝心の「誰」という中身が欠落し、その痛みだけが輪郭を失ったまま、心臓を握りつぶすような鋭い違和感となって残っている。


 重い足取りでアパートを後にし、夕闇が迫る街へと足を踏み出す。しかし、一歩、また一歩と距離を置くたびに、その鋭い痛みさえもが、ひどく無機質な記憶のノイズへと変質していった。心臓を締め付けていた手の握力が弱まり、代わりに正体不明の空虚さが二人を包み込んでいく。


「俺たち、なんであのアパートに行ったんだっけ」


 大学の正門が見えた頃、悠斗がふと足を止めた。その瞳からは先ほどまでの戦慄が完全に削ぎ落とされ、ただひどい眩暈に襲われたかのように困惑して眉を寄せている。


「……え?」


 志保もまた、立ち止まる。悠斗の問いに答えようとしたが、言葉が出てこない。


「ほら、昨日の夜……何か、大変なことがあっただろ。三人で……。いや、最初から二人だったか?」


 志保は、答えられなかった。彼女もまた、自分の記憶のライブラリから、特定のフォルダが丸ごと削除されたことに気づいたからだ。

 あんなに彼女を死の淵まで追い詰めていた、あの黒い濁流への恐怖。それは今、ただの「雨漏りの音」として平坦に塗りつぶされていく。悠斗を襲っていた、あの命を断つための光の奈落も、脳が勝手に弾き出した「ただの立ちくらみ」として処理されようとしている。


 二人の人格の根幹にまで食い込んだアプリというシステムが、容赦なくエラーを修正し、彼らの日常を強制的に、そして無機質に最適化していく。あとに残されたのは、自分たちが何を失ったのかさえ思い出せない、あまりにも空っぽで正常な日常だった。

 その夜、二人がどうやって家路につき、どんな夢を見たのか。その記憶さえも、朝を迎える頃には上書きされ、消去されていた。





 翌日、キャンパスは眩しいほどの午後の陽光に包まれていた。行き交う学生たちの間では、一昨日まであんなに世間をパニックに陥れていた降霊アプリの話題が、早くも賞味期限切れの過去として扱われていた。昨日、二人がアパートへ向かった頃にはすでに沈静化し始めていたその熱狂は、今や「なぜあんなものが流行ったのか」という、実体のない古い噂話へと完全に変質している。


 それでも、二人の胸の穴だけは塞がっていなかった。

 昨日の夕闇、あのアパートを逃げ出したあの瞬間に、自分たちは誰かを決定的に見捨ててきた。名前も、顔さえも思い出せないその欠落が、消えない痛みとなって疼いている。

 二人は、自分たちのゼミに「もう一人いたはずだ」という微かな違和感を証明するため、縋るように事務棟の窓口へと向かった。


「……いや、名簿には誰もいないよ。ほら、ここ、番号が飛んでるだろ。ただの欠番かな」


 教務課の窓口で、事務員が事務的に端末を叩き、無造作にモニターを指差した。その指先に迷いはなく、要領を得ない二人の訴えを、事務的な不手際への無意味な抗議として聞き流しているようだった。

 二人が所属するゼミの教授も、出席簿にあるはずの空白を、最初からいなかった学生の記載ミスとして平然と処理している。

 志保と悠斗は、学食のテラス席で、力なく向かい合って座っていた。


「なあ、志保。俺たちのスマホ……さっき確認したら、あのアプリ、消えてたよ」


「私のにも、入ってない。インストールした記憶さえ、なんだか遠い夢みたい」


 二人は、自分たちが助かったことを確信した。だが、その安堵感は、親しい誰かを忘却という名の深淵に突き落とし、自らの記憶を生け贄に捧げて得た、呪いのような対価だった。


「……私たち、何を忘れてしまったんだろうね」


 志保がぽつりと溢した言葉は、誰に届くこともなく、穏やかな午後の陽光の中に溶けて消えた。

 二人の記憶に残ったのは、網膜にこびりついた冷たい更新完了という通知の残像と、名前を思い出せないはずの友人が見せた、あの空虚な微笑みだけだった。





 その頃。主を失い、完全に静まり返った二〇二号室では、机の上に置き去りにされたスマートフォンが、生き物の鼓動のように静かに熱を帯び始めていた。

 オリジナルの肉体が消滅した部屋で、端末の画面が青白く発光する。その冷たい光は、まるで深海から這い上がる燐光のように、無人の室内を不気味に侵食していった。


 誰も操作していないはずの画面の中で、かつて三田村綾乃という少女だったアイコンが、デジタルなノイズを孕みながら歪に、そして妖しく微笑んだ。その瞳はもはや人間のものではなく、電子の深淵そのものだった。やがて、画面の最下部に新しい通知が、呪詛のように音もなく滑り込んできた。


【バックアップの同期に成功しました。これより、全ネットワークへの展開を開始します】


 彼女は、消えたのではない。この世界のあらゆる通信網、光ファイバーの網目、そして人々の手の中にある数億の端末――その裏側へと、文字通り「いつでも、どこにでも同時に存在する」怪物へとアップデートを果たしたのだ。

 次に誰かのスマホが震える時、それはもはや単なる通知ではない。それは、世界を最適化し終えた彼女が、あなたのすぐ隣にいるという合図だった。


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