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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第9章:アップデート後(中編)

「……あそこだよ。確か、このアパートの二階、一番奥の部屋だったはずだ」


 志保と悠斗は、千切れた記憶の糸を無理やり繋ぎ合わせるようにして、大学近くの古いアパートの前に立っていた。

 二人の頭の中には、いまだに分厚い鉛のような霧が立ち込めている。そこにあるはずの名前を呼ぼうとしたり、その人物の顔を思い出そうとしたりするたび、脳神経を直接針で抉られるような、あの耳障りなデジタル・ノイズが鼓膜の奥で跳ねた。


 昨夜、自分たちはそれぞれ自分の部屋で、一人きりで死の淵にいたはずなのだ。それなのに、どうしてここに誰かがいたことを、その誰かと笑い合っていた時間を、魂が覚えているのか。その拭い去れない違和感と、言いようのない罪悪感が、磁石のように二人をこの場所へ引き寄せていた。


 一階にある集合ポストを確認する。だが、二〇二号室のポストには、あるはずの三田村という名前どころか、宛名ラベルの端切れすら残っていない。錆びついた銀色の投函口は、何年も前から誰も使っていないかのように、厚い埃の層に覆われて口を閉ざしていた。


「……おかしいよ。確かにここに住んでた。何度も一緒に課題をやりに来たはずなのに……」


 志保の声が、ガチガチと鳴る歯の隙間から漏れ出す。二人は顔を見合わせ、死刑台への階段を上るような足取りで、外廊下の突き当たりにある二〇二号室の前へ立った。

 ドアの横。表札を差し込むための透明なプラスチックケースは空っぽで、そこにもやはり、指でなぞれば跡がつくほどの埃が積もっている。


 悠斗が震える手でドアノブに触れた。それは生き物の体温を奪うような冷たさで、何の抵抗もなく、吸い込まれるように回った。

 鍵は、かかっていなかった。静かに、そして重々しくドアが開くと、そこには生活を剥ぎ取られた残骸だけが、無機質に、そして残酷なほどの静寂の中に放置されていた。


 部屋の中は、驚くほど整然としていた。ベッドがあり、使い込まれたはずの机があり、クローゼットには季節外れの服まで整然と並んでいる。しかし、それらはすべて、持ち主の体温や個人の色を完全に失っていた。


 机の上の開かれたノートは、インクの跡ひとつない処女雪のような白紙。本棚に並ぶ分厚い参考書は、付箋の跡もページを捲った折り目もなく、名前一つ書き込まれていない。それは、映画のセットとして急造された女子大生の部屋を見せられているような、吐き気を催すほど実体のない空間だった。


「……名前。名前、どこにもない」


 悠斗が、指先の震えを抑えながら机の引き出しを片っ端から開けた。通学用バッグの中から見つけ出した学生証を掴み取るが、彼は思わずそれを床に落とした。

 プラスチックのカードの上、本来なら三田村綾乃と記されているべき欄は、まるで焼け焦げたような、あるいは無数のバグが重なり合ったような黒いノイズで塗りつぶされている。顔写真の部分は、すりガラス越しに覗いた死人のように、輪郭すら定かではなかった。


「ねえ、悠斗。これ……見て」


 志保が、部屋の中央に置かれたワークデスクを指差した。

 主を失った部屋のなかで、それだけが異様な存在感を放っていた。一台のスマートフォンが、まるで祭壇に供えられた御神体のように、デスクの真ん中に鎮座している。


 それは、かつて綾乃が「面白いものがある」と笑いながら二人に差し出し、あの忌まわしいアプリを読み込ませた端末そのものだった。三人の日常を壊し、底なしの怪異へと引きずり込んだ元凶。

 二人にとっては、彼女の存在を証明する唯一の物証であり、同時に最も直視したくない呪いの発信源でもあった。その液晶画面は、誰の手も触れていないのに、淡く、不気味な青白い光を放ちながら二人を誘っていた。


 二人は抗いがたい力に引き寄せられるように、そのスマホへ歩み寄った。端末は死んでいるわけではなかった。ただ、深い泥のような黒い画面を保ち、主の帰還を待つ生き物のように、ひっそりと静止していた。


 悠斗が、氷を触るような手つきでその端末に指を触れる。その瞬間、網膜を焼くような鋭い青白い光が溢れ出した。パスコードを要求する拒絶のプロセスは一切なく、ただ画面の中央に、宣告のような一文が浮かび上がる。


【 システムアップデート完了:ユーザーデータの再構成に成功しました 】


 ホーム画面には、かつて並んでいたありふれたアプリのアイコンは一つも残っていなかった。壁紙は、光を一切反射しない、奈落のような絶対的な暗黒。そして、その中央にたった一つだけ。かつて不気味な黒い狐面だったアイコンが、取り返しのつかない姿へと変貌を遂げ、そこに居座っていた。

それは、もはや記号でもイラストでもなかった。極限まで解像度を高められた、微笑む三田村綾乃の顔そのものだった。


「……っ、嫌ぁ……!」


 志保は胃の底からせり上がる嘔吐感を抑えきれず、口を両手で覆った。

 画面の中の綾乃は、驚くほど穏やかで、一分の隙もないほど美しい。だが、その肌の質感や髪の毛一本一本に宿るのは、人間らしい暖かさではなく、冷徹なまでに完璧な演算結果としての輝きだった。


 画像ではない。そこにいるのだ。

 その瞳は、現実の二人を、画面という冷たい硝子の境界線の向こう側からじっと見据えている。そして、優雅に、慈しむように、ゆっくりと瞬きをした。


「……綾乃、なのか? お前、そこに……閉じ込められているのか?」


 悠斗の震える問いかけに、スマホは答えない。ただ、画面の隅で、ファイルが最適化されたことを示す緑色の光が点滅していた。

 その光に呼応するように、二人の脳裏に、昨夜それぞれの場所で体験したあの地獄の記憶が鮮烈に蘇る。


 志保の喉を焼いた、あの錆びた鉄の味がする黒い水の冷たさ。悠斗の脳を抉った、重力さえ消失させるあの高周波。自分たちも、あともう少しであちら側に――、志保はあの水底へ、悠斗はあの光の海へと引きずり込まれるところだったのだ。


 目の前で微笑む、完璧なデータの塊となった綾乃。その姿を見ていると、理解したくない確信が、冷たい汗とともに全身を駆け巡った。彼女は死んだのではない。この部屋のどこかに死体となって転がっているのでもない。自分たちが死ぬほどの恐怖を感じて逃げ出したあの凄惨なプロセスを、彼女は最後まで終えてしまったのだ。


 その確信を裏付けるように、画面の中の綾乃が、優雅に瞬きをした。

 あまりにも穏やかで、満たされたようなその微笑み。自分たちを襲ったあの地獄の先に、彼女は自らの意志も、記憶も、魂さえもすべてを食わせ、この無機質な箱の住人として最適化されることを、まるで幸福として受け入れたかのような表情で、じっと二人を見つめ返している。


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