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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第9章:アップデート後(前編)

 翌朝。T大学周辺を包み込んでいた重苦しい湿気と耳鳴りのようなノイズは、昨夜の狂ったような怪奇現象がすべて嘘であったかのように、跡形もなく消え去っていた。


 志保は、自分の部屋の冷たい床の上で意識を取り戻した。

 全身がじっとりと脂汗に濡れ、喉の奥には今もなお、あの錆びた鉄のような水の味がこびりついている。だが、部屋を見渡しても、そこには一滴の水溜まりすら残っていない。バスルームのドアの前に、彼女が昨夜、狂ったように巻き付けたはずのタオルが、獣に食い千切られたかのような無残な姿で転がっているだけだった。


「……生きてる、の……?」


 震える指先で自分の肌をなぞる。

 心臓は確かに、不快なほど速い鼓動を刻んでいる。しかし、胸の奥には、魂を素手で削り取られたような、決定的な空洞が空いていた。そこには、焼けつくような鋭い罪悪感の棘だけが、持ち主を失ったまま突き刺さっている。


 自分が誰を傷つけ、誰に対してこの許しを請いたいのか。肝心の対象が、深い霧の向こう側に消えてしまったかのように、どうしても思い出せない。


 同じ頃、悠斗はベランダの硬いコンクリートの上で目を覚ました。

 手すりを、骨が浮き出るほど強く握りしめていた。爪の間からは乾いた血が滲み、鉄の柵には彼の指の形が刻まれている。


 自分がなぜ、死の淵であるこの場所に立っているのか。なぜ、あんなにも必死に空を目指し、その向こう側に救いがあると確信していたのか。断片的な記憶は、激しい眩暈と共に火花を散らすだけで、形を成さない。


「……死ぬところだった。俺は、……あんなに手を離そうとしていたのに、なんで……」


 鉄の冷たさに、ようやく思考が追いつく。悠斗は強張った指を一本ずつ、剥がすようにして手すりから離した。感覚の麻痺した指先を無理やり動かし、ポケットの中で鉛のように重いスマホを引き出す。震える手でロックを解除すると、朝の光に照らされた液晶には、ただ『システムは正常です』という無機質な文字だけが白々しく浮かび上がっていた。


 昨夜、彼の脳を焼き尽くさんばかりに鳴り響いた高周波も、網膜に焼き付いた翼を広げた狐のアイコンも、今はもう、世界のどこにも存在しなかった。

 ただひとつ、着信履歴に志保の名前だけが残っていた。震える指でかけ直すと、受話口からは彼女の嗚咽混じりの声が聞こえた。


 どちらからともなく「大学へ行こう」と口にしたのは、生き残った安堵からではない。昨夜の惨劇を確認し合いたいという切実な願いと、何よりあの夜、中心にいたはずの誰かに会わなければならないという、逃れようのない強迫観念に突き動かされたからだ。


 二人は吸い寄せられるように、午前中のキャンパスへと足を向けた。たどり着いたそこにあったのは、凄惨な跡地などではなかった。

 大学の空気は吐き気がするほど平穏だった。昨夜、あれほど狂ったようにスマホを掲げて騒ぎ立てていた学生たちは、何事もなかったかのように平然と画面を弄り、講義へと向かっている。熱狂の残滓すら残っていないキャンパスは、一夜にして徹底的に漂白されていた。





「……あ、悠斗。いた」


 人混みの中、幽霊のような足取りで彷徨っていた志保が、ようやく悠斗の姿を見つけ出した。二人は互いの無事を確認するように視線を交わしたが、次に出るはずの言葉が、ひどく泥めいた違和感となって喉に詰まった。


「志保……。俺は昨日の夜、ずっと自分の家のベランダにいた。一人で、死ぬところだったんだ。

 ……なのに、どうしてか分からない。何かが足りないんだ。俺たちの周りに、もっと、何か別の……」


「……私も。自分の部屋にいた。一人きりで、誰とも連絡なんて取ってなかったはずなのに。でも、思い出そうとすると、頭の中にあのノイズが走って……。どうしても拭えないの。今の私たちが、何か決定的なものを、どこかに置き去りにしてきたような感覚が……」


 その何かを確かめるべく、二人は縋るような思いでスマートフォンの履歴を遡った。

 だが、画面に映し出された現実は、彼らの薄氷のような記憶を嘲笑うかのように残酷だった。連絡先にも、通話履歴にも、違和感の正体となるような人物の痕跡は微塵も存在しない。


 二人の過去を証明するはずのグループLINEは、最初から悠斗と志保、二人だけのやり取りであったかのように、完璧な整合性を持って書き換えられていた。だが、その隙のない対話の記録こそが、剥き出しの狂気となって二人に襲いかかった。自分たちの言葉だけが不自然に浮き上がり、会話の行間には、どうしても埋まらない空白が不気味に居座っている。


 その言いようのない不気味さから逃れるように顔を上げた悠斗の視界に、電算センターの掲示板が飛び込んできた。そこに貼り出された学科の成績優秀者やグループ分けのリストを凝視した瞬間、彼の脳裏に鋭い火花が散る。


「おい、嘘だろ……。ちょっと待てよ。志保、これを見ろよ」


「え……?」


 悠斗が指差した先を、志保もまた吸い寄せられるように覗き込んだ。


「ここ、俺たちの班だろ? なんで二人しかいないんだ。昨日まで、三田村……ええと、三田村……。誰だっけ。とにかく、もう一人いたはずだろ? 三人でレポート進めるって……」


「三田村……」


 志保がその名をなぞるように呟く。同時に彼女の顔から血の気が引き、その視線は掲示板と手元のスマホを何度も往復した。二人が共有する空白の正体が、剥き出しの名前となって浮かび上がろうとしていた。

 悠斗はたまらず、掲示板の前を通りかかった同じ学部の友人の肩を掴み、詰め寄った。隣で志保が震える手で自分の腕を掴んでいることにも気づかないほどの必死さだった。


「なあ、三田村綾乃って知ってるだろ! 文学部の。いつもスマホを弄ってて、ほら……俺たちとよく一緒にいた、あいつだよ!」


 友人は心底不審そうな顔をして、一歩身を引いた。


「三田村? 誰だよそれ。うちの学部にそんな名前のやつ、最初からいないだろ。お前、昨日の都市伝説の騒ぎで頭がおかしくなったんじゃないか?」


 友人の冷ややかな言葉に、二人はその場に凍りついた。

 一人の人間が、大学という組織から、公的な記録から、そして友人たちの脳細胞から、まるで最初から存在しなかったかのように削除されていく。それは、ただの死よりもはるかに無慈悲な、存在の抹消だった。


「……行くしかないわ、悠斗」


 志保が、血の気のない唇を噛み切りながら言った。他人の記憶が上書きされているのなら、自分たちの脳裏にこびりついたこの違和感だけが唯一の道標だ。

 二人は逃げるように電算センターを後にした。目指す場所は、記憶の奥底に澱のように沈んでいる、あの古びた建物だ。


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