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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第8章:アップデートの夜(中編)

 指が円を描き終えた瞬間、志保のスマホから、鼓膜を直接引き裂くような凄まじい音量の水音が炸裂した。スピーカーが割れんばかりの轟音。それは激流が岩を削り落とす破壊音であり、同時に、何百、何千もの人間が水面下で最期の空気を求めてもがく、湿った地獄の断末魔だった。


「ひっ……あああ、ああああ!」


 バスルームの奥から、心臓を鷲掴みにされるような衝撃音が響いた。

 ガシャアアン! とタイルを砕く凄まじい音。続いて、ドアの隙間から、意思を持った生き物のように真っ黒な水がどろりと溢れ出してきた。


 元栓は締めてあるはずだった。だというのに、水は排水口から逆流し、蛇口の隙間から噴き出し、さらには壁に滲む結露さえもが、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように意志を持って集合し、水位を跳ね上げていく。


 その水は氷のように冷たく、そして粘りつくように重い。畳を、家具を、逃げ場を失った志保の足を容赦なく飲み込んでいく。液体からは、数ヶ月間も放置されふやけきった死体のような、脳を直接かき回されるほどの強烈な腐敗臭が立ち昇っていた。

 その最中、スマホの画面に赤黒いノイズ混じりの通知が躍る。


『志保、あなたの体液をサーバーと同期します。不純物をすべて排出してください。』


 直後、足元の暗い水溜まりの中から、粘着質な音を立てて誰かの手が突き出した。

 一本、二本、三本。水底に長く沈んでいた、ふやけきった不気味な青白さ。それでいて掴む指先は死蝋のように硬くこわばっており、氷のような冷たさで志保の肌を抉る。それらは狂乱して逃げ惑う志保の足首を、骨を砕かんばかりの力で掴み、逃れられぬ殺意を持って、底なしの暗い水底へと引き摺り込もうとする。


 バスルームから溢れ出した黒い水は、すでに逃げ場のない志保の胸元を浸食していた。

 不気味な浮力に弄ばれ、足が床を離れる。自由を奪われた彼女が縋るように掴んだスマホからは、まるで彼女の肺から最期の空気が漏れ出しているかのような、ゴボゴボという湿った不気味なノイズが絶え間なく鳴り続けていた。


「助けて……だれか……っ!」


 叫ぼうと開いた口内に、氷のように冷たく、ひどく錆びた鉄の味がする水が奔流となって流れ込む。直後、水面から突き出した無数の蒼白い手が一斉に、飢えた獣のように彼女の髪を、肩を、腕の肉を掴んだ。それらは一切の容赦なく、彼女を暗い水底へと一気に引きずり下ろした。


 それは、彼女がこれまでの人生で自分だけは綺麗でいたいと心の奥底へ押し込めてきた、醜い嘘や他人への嫉妬といったドロドロとした感情の澱だった。逃げ続けてきた自らの心の闇が、今、逃れられない黒い濁流となって、彼女の全身を飲み込もうとしているのだ。

 スマホの画面に、死刑宣告のような最後の一文が浮かぶ。


『志保、あなたの体液の100%をデータに変換しました。お疲れ様』


 激しい水飛沫が上がり、空間が歪むほどの衝撃が走った。だが次の瞬間、あれほど猛り狂っていた水は、まるで最初から存在しなかったかのように、一滴の染みも残さず畳の隙間へと吸い込まれて消えた。

 静まり返った部屋に残されたのは、全身をぐっしょりと濡らし、何かに中身をすべて吸い出されたかのように虚ろな目をした、抜け殻の志保だけだった。





 一方、悠斗の部屋では、志保の地獄とは対照的な音のない異変が起きていた。

 スマホが「キィィィィィン」という、脳の髄まで直接針で突き刺すような超高周波を放ち、発熱する画面にはただ一言、慈悲のないメッセージが表示された。


『飛べるよ、悠斗』


 その直後、ガチリ、と硬質な音が部屋に響き渡った。

 彼が死の恐怖に震えながら厳重にロックし、さらにその前に重い本棚を置いて塞いでいたはずのベランダの窓。その鍵が、まるで目に見えない透明な指によって弄ばれるように、勝手に解錠されたのだ。


「うわ……ああ、ああ、あああ!」


 悠斗の視界が、強烈な吐き気を伴ってグニャリと歪んだ。床が壁になり、壁が天井へとせり上がる。上下左右の感覚がドロドロに溶けて消失し、彼は重力という名の楔を強引に引き抜かれ、漆黒の宇宙空間へ放り出されたような錯覚に陥った。


 いや、それはもはや錯覚ではない。彼の持ち主を裏切ったスマートフォンが、本来の機能を凶悪に反転させ、通信回路を介して悠斗の神経系を直接ジャックしているのだ。平衡感覚を司る脳の中枢へ、耐え難い負荷とともに「今、お前は垂直に落下している」という偽りの情報を叩き込み続けている。


「助けてくれ! 落ちる、落ちる! 俺、今、落ちてるんだ!!」


 実際には無様に床を転げ回っているに過ぎない悠斗の目には、ベランダの向こう側に広がる漆黒の夜空が、自分を飲み込もうとする底なしの断崖に見えていた。開け放たれた窓が、貪欲な巨大魚の口のように暗闇の中で口を広げる。


 ベランダの縁に立った悠斗の目に映っていたのは、もはやありふれた夜の街並みではなかった。網膜に焼き付いたのは、果てしなく底が抜け、まばゆい幾何学模様が明滅する光の奈落だ。

 スマホから発せられる耳を刺すような高周波が、脳の奥底にある神経をじりじりと焼き、彼の平衡感覚は完全に上下を喪失している。

 ベランダの縁から踏み出す一歩。それは彼にとって、冷たいアスファルトへの転落などではなく、この歪んだ現実という重力から解き放たれ、光の海へ飛び立つための羽ばたきに他ならなかった。


「ああ……そうか、最初から……地面なんて、無かったんだ」


 悠斗はうっとりと呟いた。スマホの画面には、嘲笑うように翼を広げた狐のアイコンが躍り、『重力の制限を解除しました。そのまま、自由な高度へ』というメッセージが、網膜を刺すような輝度で点滅している。

 悠斗は、歓喜に震える足で最後の一歩を踏み出した。


 鼓膜を裂くような風を切る音が、スマホのスピーカーから異様な音量で鳴り響く。視界が激しく上下に揺れ、内臓がせり上がるような強烈な浮遊感が彼を包み込む。だが、彼が地面に激突し、肉の塊へと変わる直前――。


 スマホの加速度センサーが極限値を検知した瞬間、彼の肉体を縛り付けていた質量と重力は突如として消失した。絶叫を上げる間もなく、彼の意識と存在は、極彩色のノイズが荒れ狂う電子の奔流の中へと、無惨に、そして華やかに放り出された。


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