第1章:噂の種(後編)
その日の午後、綾乃は図書館の資料室にいた。普段なら過去の都市伝説に関する文献を漁る時間だが、今は手元の資料には目もくれず、机の上に置かれたスマートフォンをじっと見つめている。
不可解なのは、インストールボタンすら押していないはずなのに、ホーム画面の片隅に、あの黒い狐面のアイコンがすでに居座っていることだ。狐の目は、掲示板の画像で見たものよりも、心なしか精巧になっている。その瞳の奥には、小さな紅い点が灯火のようにゆらめき、まるで生き物の鼓動に合わせて呼吸しているかのようだった。
ふと、画面が脈打つように激しく明滅し、真っ黒な背景に白い文字が浮かび上がった。
『三田村綾乃さん。あなたの整理されていない秘密のフォルダ、最適化しましょうか?』
心臓の鼓動が耳元で跳ねた。
アプリはまだ起動すらしていないはずだ。それなのに、なぜこのデバイスは、彼女が誰にも教えていない隠しフォルダの存在を知っているのか。
厳格な教授の涙や、清純派学生の毒。彼女が密かに収集してきた他人の汚泥を、このアプリはすでにスキャンし終えている。その事実に、背筋を這い上がるような戦慄が走る。
だが、恐怖は一瞬で消え、それを上回る圧倒的な悦楽が、綾乃の理性をじわじわと塗りつぶしていった。
(このアプリは、私を知っている。そして、私が何を欲しているかも……)
自分以外の何かと、最も深い部分で繋がってしまったという全能感が、彼女の思考を麻痺させていく。
夕暮れ時、大学を後にする綾乃の視界は、すでにアプリの侵食を受け始めていた。
正門の掲示板に貼られたポスターの裏側、通り過ぎるバスの窓、そして見上げた夕空の雲。そのすべてに、あの嘲笑うような狐の形が、網膜に焼き付いた残像のように重なって見える。世界そのものが、巨大なディスプレイの一部に書き換えられていくような、不気味な錯覚に囚われていた。
その視覚的なバグは、アパートへ近づくにつれて、より鮮明に、より攻撃的に密度を増していった。街灯が明滅する間隔や、アスファルトを叩く自分の足音さえもが、アプリが奏でる不規則なノイズのように聞こえ始める。
逃げるように自室の扉を開け、暗い玄関に足を踏み入れたとき、彼女は喉の奥が凍りつくような感覚を覚えた。アパートに帰り着いた彼女を待っていたのは、消したはずの部屋のモニターが放つ、青白い光だった。
靴を脱ぐことさえ忘れ、導かれるように光の源へと歩を進める。カーテンを閉め切った暗がりのなか、準備が整ったことを告げるように瞳を細める黒い狐面が、静かに映し出されていた。
モニターの前に立つと、液晶の表面に、自分の顔がぼんやりと反射した。青白い光に照らされた彼女の顔は、好奇心で歪み、まるで狐面を被っているかのように見えた。画面の中の狐と、現実の自分の視線が、電子の海を越えて完全に重なる。
この一線を超えれば、もう後戻りはできない。その予感が、彼女の指先を悦びで熱くさせた。
「……さあ、始めましょう」
彼女の指先が、その冷たいアイコンへと吸い寄せられていった。それは、彼女の日常が更新され、後戻りできない狂気へと足を踏み入れる、最初の一歩だった。




