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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第6章:大学の都市伝説化(後編)

 日が暮れる頃、大学の空気はもはや学びの場のそれではなく、巨大な墓所のような静寂と、電気的なノイズに支配されていた。綾乃が最奥で引き起こした変質は、じわじわと、しかし確実に外縁部へと染み出していく。


 正門付近では、不安に駆られた数百人の学生が群れをなし、大学当局に対して休講を求める罵声や悲鳴を上げていた。しかし、その怒号さえも、キャンパスを包む重苦しい空気の中に吸い込まれ、霧散していく。彼らが命綱のように握りしめるスマートフォンの画面は、すでに持ち主の指先を拒絶するように硬直し、バックライトが心臓の鼓動に合わせて不気味に明滅していた。


「聞いたか、さっき工学部のメインサーバーが完全に沈黙したらしい。物理的な故障じゃない。中身の全データが、一瞬にして数千万枚の笑う狐の画像に変換されちまったんだ……!」


 青ざめた顔の学生が、吐き捨てるように叫ぶ。その声に呼応するように、別の学生が震える手で、研究棟の入り口に落ちていたという端末を掲げた。


「これを見ろよ! 失踪したやつのスマホだ。画面は粉々に粉砕されてるのに、スピーカーからはあの声が止まらないんだ。

 ……『次は、あなたの番です。お迎えにあがります』って、まるで耳元で誰かが笑ってるみたいな距離で……!」


 誰かが恐怖を口にするたびに、周囲の学生たちの手元で、連鎖的な反応が巻き起こった。

それは聞き慣れたアプリの通知音などではなかった。何百人ものポケットの中から、一斉にピチャリと、誰かがすぐ後ろで血溜まりを踏んだような生々しい水音が漏れ出したのだ。


 続いて、スマートフォンの薄い筐体(きょうたい)が内側から弾け飛ぶかのような、肉と骨がひしゃげる鈍い衝撃音が、不規則なリズムで重なり合っていく。

 そのおぞましい異音が最高潮に達し、学生たちの精神が限界を迎えた瞬間、すべての音がピタリと止んだ。異様な静寂を切り裂くようにして、一台の端末から狐の甲高い笑い声が弾け飛ぶ。


 先ほどまでの湿り気を帯びた死の予兆は、いまやキャンパス全体を震わせる巨大な哄笑(こうしょう)へと塗り替えられ、逃げ惑う人々を嘲笑っていた。

 AIがバグを起こしたという慰めのような解釈は、もはや入り込む隙すらなかった。

 大学という合理性の象徴だった空間は、数千台のデバイスを触媒とした巨大な呪いの増幅器へと成り果て、刻一刻と現実の(ことわり)を塗り替えていた。


 正門前で数千の悲鳴と哄笑が渦巻く中、その喧騒を背に、狂気の発信源へと引き寄せられる影があった。

 熱狂する外縁部とは対照的に、キャンパスの奥へ進むほどに生身の人間の気配は消え、代わりに耳鳴りのような高周波の静寂が領域を支配し始める。その電子的な静寂に導かれるように、綾乃は旧校舎の廊下を歩いていた。


 彼女の足取りは、記憶を失いつつある人間とは思えないほど確かだった。正門の方角から聞こえるはずの阿鼻叫喚は、もはや彼女の耳には届かない。代わりに、壁の向こうを流れるデータの奔流や、端末が発する微かな振動が、彼女を優しく、かつ正確に核へと案内していた。


「……面白い。みんな、あんなに惨めに怯えてる」


 ふと漏れた呟きは、もはや彼女自身の声なのか、それともスピーカーから響くノイズなのか判別がつかなかった。

 彼女は、自分自身の破滅がもはや秒読み段階であることを、全身の細胞が粟立つような感覚で悟っていた。


 生き物としての防衛本能が、逃げろ、と激しい警鐘を鳴らしている。しかし、その恐怖という激痛こそが、彼女にとっては極上のスパイスだった。指先からじわじわと体温が奪われ、存在が薄れていくその感覚を、彼女は掲示板で見つけた過去の失踪者たちと同じ境地へ至るための、確かな手応えとして受け入れていた。


 人間としての肉を脱ぎ捨て、純粋な情報という名の霊体へ堕ちる道。それは本来、忌むべき終焉(しゅうえん)のはずだ。だが、彼女の心に芽生えたのは、本能的な恐怖さえも燃料にして燃え上がるような、倒錯した愉悦だった。


 自分という矮小な観測者が、アプリという神の視点を持つシステムと融解する。その瞬間、彼女はこの大学を、いや世界を覆う巨大な脳そのものへと作り変えられる。

 数万人の隠し事、数億の卑俗な欲望、あらゆる人間の裏側が、彼女の意識へと直接流れ込む情報の奔流(ほんりゅう)となって注がれるのだ。


(見たい。もっと、すべてを暴きたい)


 彼女にとって知るとは、単なる情報の獲得ではなかった。それは、隠されていた真実を引きずり出し、他人の喉元にナイフを突き立ててその中身を無理やり覗き込むような、野蛮で絶対的な支配だ。その際限なき加害欲を満たすためならば、自分自身の消失さえも、彼女には安い買い物に思えた。自己を消し去り、システムという強大な暴力と一体化することで、その欲望は永遠の全知という形で完成されるのだ。


 もはや彼女にとって、これは死という名の終わりではなかった。不完全な肉体という檻に閉じ込められた生物からの、あまりに甘美な強制アップデートに思えた。

綾乃が「人間を辞める」クライマックスであり、物語全体が次のフェーズ(完全な非日常)へ移行する重要な転換点ですね。


(さあ、早く私を書き換えて――)


 その歪んだ祈りが、システムの最奥に届いたのだろうか。ふと、彼女のスマートフォンが、これまでで最も激しく、そして重い振動を上げた。

 それは通知の震えなどではなく、巨大な心臓が一度だけ、力強く脈動したかのようだった。


 手に持つと、画面はもはや液晶の光を放ってはいなかった。底知れない闇を湛えた鏡のように、どこまでも深く、彼女の顔を映し出していた。画面の中の綾乃の背後には、あの狐面の影がくっきりと寄り添っている。漆黒の指先は、彼女の喉元を愛おしそうに撫で、そのまま皮膚を突き破って、内側の中身を確かめるように締め上げていく。


 現実の綾乃の首筋にも、氷のような冷たい指の感触が走り、彼女は歓喜に喉を鳴らした。

 突如、闇の画面に、網膜を焼くような鮮烈な赤で一文が表示された。


【更新準備完了】


 それは、猶予の終わりを告げる残酷な宣告であり、彼女にとっては救済の合図だった。

 アイコンの狐面は、もはや記号の体をなしていない。それは、綾乃の骨格をベースに、狡猾で冷酷な美しさを注ぎ込んだ新しい彼女の(かんばせ)そのものへと変形を完了していた。画面の中のそれが瞬きをすると、現実の綾乃の意識もまた、激しいノイズを伴って明滅した。


「……やっと、私を見つけてくれた」


 綾乃の口元に、狂気じみた微笑が浮かぶ。その瞬間、彼女の指先がピクセル単位で崩壊を始めた。

 肉体という、あまりに脆いデータの器から彼女自身が溢れ出し、端末の奥にある、無限の情報を湛えた闇の淵へと吸い込まれていく。視界はデジタルなノイズに侵食され、彼女が愛した他人の秘密が、万華鏡のように脳内を駆け巡り始めた。もはや彼女を繋ぎ止める現実は、どこにも残されていない。


 最後の瞬間、彼女の瞳に映ったのは、旧校舎の景色ではなかった。何万、何億というスマートフォンのバックライトが、星屑のように瞬くデータの海。


「――ああ、綺麗」


 その呟きとともに、彼女の意識は肉体という重い鎖を解き放たれ、電子の深淵へと深く沈み込んだ。

 次の瞬間、大学中のすべてのスピーカーと端末から、一度だけ、祝祭のような凄まじいハウリング音が鳴り響き――。

 激しい耳鳴りと共に、綾乃の視界は真っ白に染まった。


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