第6章:大学の都市伝説化(中編)
T大学のキャンパスを支配していた恐怖は、もはや一つのアプリという枠を食い破り、抗いようのない環境へと変質していた。
研究棟のWi-Fiから感染する、あるいは深夜の学内掲示板に特定のURLが現れる――。
そんな尾ひれがついた噂は、もはや最新技術の不具合といった理屈で説明できるレベルを通り越し、もっと禍々しい、正体不明の呪いの領域へと完全に足を踏み入れていた。
事態を深刻化させたのは、この異常をバグとして解明しようとした者たちが、次々と返り討ちに遭ったことだ。
「あれさ、実はAIなんかじゃないらしいぞ」
カフェテリアの片隅、青ざめた顔の学生が震える声でささやく。
「工学部のやつが無理やりソースコードを解析しようとしたら、とんでもないことが起きたらしい。
画面を埋め尽くした文字化けの羅列が、ある瞬間から、まるで意志を持っているみたいに整列を始めたんだって。意味をなさないはずの記号や数字が、不自然な余白を作って、モニター全体に巨大な経文の形を浮かび上がらせたんだ。
……解析していたやつは、その幾何学的な文字列を見ただけで、吐き気を催して倒れたらしい。音声フォルダの中にも、プログラムなんかじゃなく、数万本もの人間の呻き声がぎっしり詰まってたんだって」
「霊だよ。それも、ただの幽霊じゃない」
別の学生が、怯えたように自分のスマートフォンを裏返しながら言葉を継ぐ。
「この大学の土地の下に眠っていた、救いのない残留思念を、アルゴリズムがデータとして学習しちまったんだ。だから、インストールした瞬間に、そいつの運命もあっち側へ同期されちまうんだよ……」
こうした断片的な証言が、学内のあちこちでパズルのピースのように組み合わさっていった。
かつては合理性とエビデンスを重んじていたはずの理系学生たちの間でさえ、そんな非科学的な言説が、切実な生存本能として真剣に信じられ始めていた。もはや彼らにとって、スマートフォンは便利なツールなどではなく、いつ持ち主の魂を食い殺すかわからない呪いの発信機と化していた。
そして、その懸念を証明するかのように、アプリの暴走は画面の中という境界線を踏み越え、物理的な怪異となって学内を浸食し始めた。デジタルな不具合として処理できていた時期は終わり、今やキャンパスの至る所で、隠しようのない現実のバグが噴出し始めていたのだ。
まず異変が顕著になったのは、音と視覚の狂いだ。
誰もいないはずの閉鎖された講義室から、一斉に、何百ものスマートフォンのシャッター音が鳴り響く。静まり返った夜の校舎に、弾丸の雨のような乾いた音が連鎖する。異変を察して駆けつけた守衛がライトで室内を照らし、目にしたのは、机の上に折り重なるようにして放置された、おびただしい数のスマートフォンの群れだった。
持ち主たちが恐怖のあまり投げ捨てて逃げ出したのか、あるいは持ち主そのものが消えてしまったのか。それら無数の端末が、持ち主不在のまま一斉にフラッシュを焚き、狂ったようにシャッターを切り続けていたのだ。
やがて撮影が止まると、すべての液晶画面がどろりとした闇色に染まり、次の瞬間、一様に黒い狐面のアイコンを浮かび上がらせた。
あるものは冷笑し、あるものは憤怒に歪んだ狐の面が、何百という画面越しに、立ち尽くす守衛を一斉に凝視していた。その無数の瞳に射すくめられた守衛が、恐怖のあまり悲鳴を上げて逃げ出した頃、怪異の波はさらに深く、学生たちの精神を侵食し始めていた。
この狐たちに魅入られたのは、守衛だけではない。
深夜のキャンパスを、取り憑かれたように徘徊する学生たちの手元からも、不吉な異音が漏れ出し始めたのだ。
ポケットや鞄の中に押し込めたはずのスマートフォンが、彼らの意志を無視して、おぞましい死の記憶を再生し始めたのである。
鼓膜のすぐそばで囁くような「ポチャン、ポチャン」という重苦しい水音。あるいは、高所から生身の肉塊がアスファルトへ叩きつけられたような、心臓を抉る鈍い衝撃音。それらがスマートフォンのスピーカーから、まるでその場に実体があるかのような鮮明さで放たれ、絶え間なく静寂を切り裂いていく。
初めは断続的だったその異音は、やがて学内のあちこちで共鳴し始め、巨大なノイズの濁流となって校舎を震わせた。
数千台の端末が、数千通りの死の瞬間を一斉に奏でる――。その狂ったオーケストラが完成したとき、キャンパスはもはや物理的な教育施設としての機能を完全に消失させた。
大学全体が、目に見えない巨大な霊的サーバーによってハックされ、一つの意思を持った生命体のように蠢き始めている。学び舎を形作っていた鉄筋コンクリートの壁や床は、今や膨大な死のデータを循環させるための血管や神経へと成り果て、そこに留まる人間たちの体温を吸い上げながら、より強固な怪異へとアップデートを繰り返していた。
逃げ場のない焦燥が渦巻く一方で、キャンパスの空気には、破滅を待望するような異常な高揚感が混じり始める。日常という膜は完全に剥がれ落ち、かつて知の探究の場であった学び舎は、今や数千人の学生を一度に飲み込み、未知の存在へと昇華させるための巨大な生贄の祭壇へとその姿を変貌させていた。
この狂気のリズムに、最も深く、最も純粋に同期しているのが、電算センターの最奥に佇む綾乃だった。
周囲の学生たちが祭壇に並べられる家畜のように怯える中で、彼女だけは、自らがその儀式の中心に据えられた主役であることを、皮膚に刺さるような空気の震えから感じ取っていた。
普通の人間の感覚ならば、ここで絶望に震え、スマホを叩き壊して逃げ出すだろう。しかし、綾乃は違った。彼女の脳内からは、もはや自分を守るための防衛本能という古いデータさえも、無用の長物として消去されていた。代わりに彼女の魂を支配しているのは、都市伝説の真実をこの手で掴み取りたいという、焼け付くような、命を懸けた知識欲だった。
(私が消えた後、私はどうなるの? 私は誰の秘密を知り、誰を観測する特等席に座るの?)
その問いに対する答えを知るためなら、自分の存在が消えることさえ、彼女にとってはもはや代償と呼ぶべきものですらなくなっていた。
それは生命を失う痛みなどではなく、未完成な肉体というノイズをそぎ落とし、真理へと至るための清々しい手順に過ぎない。自分という存在が消去されることこそが、アプリを、そして自分自身を完全なものへと昇華させる聖なる儀式であると、彼女は盲目的に信じ込んでいた。
彼女のスマホの画面に、再び狐面が浮かび上がる。
アイコンの狐はもはや記号ではない。耳は鋭く裂け、その隙間からは電子のノイズが黒い煙のように立ち昇っている。何よりおぞましいのはその口元だ。釣り上がった端から覗く白い牙と、暗い愉悦を湛えた口角は、今や綾乃自身がモニターに反射させている歪んだ微笑と、寸分違わぬ形を成していた。
「教えて……。あなたの中に、どんな素晴らしい地獄があるの?」
綾乃が画面に触れると、指先からジリジリと肉を焼くような熱が伝わった。しかし彼女は指を引き抜くどころか、愛しい者の肌を愛撫するように、その熱を全身で受け入れた。
その瞬間、彼女の意識が激しいノイズを伴って明滅する。網膜の裏側には、これまでアプリに食い殺されてきた無数の犠牲者たちの断末魔が、至高のデータとして流れ込んできた。
痛覚は歓喜へ、恐怖は恍惚へと変換されていく。
彼女にとって更新はもはや、避けたい死などではない。それは何者にも汚されない究極の正解へと自分を書き換える、待ち焦がれた再誕の瞬間へと変わり始めていた。
綾乃が正解に指をかけたその瞬間、彼女を介してシステムへと流れ込んだ狂気は、電子の奔流となって大学中の通信網を駆け巡った。それはあたかも、彼女の歓喜が大学という巨大な臓器に火を灯したかのようだった。




