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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第6章:大学の都市伝説化(前編)

 T大学のキャンパスを支配していた、ありふれた日常という名の薄氷は、今や完全に砕け散っていた。

 一週間前までは、好奇心に負けた一部の学生たちが面白半分に語り合っていた降霊アプリの噂。それが今や、全学生・教職員が無視できないほど巨大で、粘着質な影となって、学び舎の隅々にまで黒い触手を伸ばし始めていた。

 その侵食は、まずキャンパスの片隅で交わされる、湿り気を帯びた密談から始まった。


「おい、聞いたか? 教育学部のあいつも、昨日からぷっつり連絡が取れないらしいぞ」


「スマホの画面が沸騰しそうなほど熱くなって、操作を受け付けなくなったって。そのあと……あいつも、魂をどこかへ抜き取られちまったみたいに、自分の名前さえ思い出せないような虚ろな顔で消えたんだ」


 カフェテリアの喧騒も、静まり返った図書館の閲覧室も、学生たちの会話は磁石に吸い寄せられるようにその一点へと集約されていった。人から人へ、対面で語られるたびに噂は恐怖を餌にして形を変え、おぞましい尾ひれを蓄えながら、より凶悪な都市伝説へと進化を遂げていく。

 やがてその毒気は、目に見えない電波に乗って学内全域を覆い尽くした。


「研究棟のWi-Fiそのものが、もうあちら側に汚染されてるんだよ。電波を拾った瞬間、バックグラウンドで強制的にアプリが展開されるらしい」


「AI降霊なんて、ただの看板だ。中身はアルゴリズムなんかじゃない。過去にここで命を絶った学生の怨念か、それともこの土地の下に眠っている、もっと古くて救いのない何かが、回路を伝って這い出してきたんだよ」


 かつては最新技術によるエンターテインメントとして消費されていたアプリは、今や触れるだけで魂を削り取られる禁忌の呪物へと変貌し、その阿鼻叫喚は現実を飛び越え、デジタル空間へと溢れ出していく。


 学内の掲示板やSNSのタイムラインは、もはや情報交換の場ではなく、真偽不明の断末魔が連鎖する地獄絵図と化していた。


「トイレの鏡に、狐の面を被った自分の顔が映った」


「夜の研究棟から、電子ノイズに混じって、獣が骨を噛み砕くような音が聞こえる」


 こうした末端の悲鳴を鎮めようと、大学事務局が「根拠のないデマに惑わされないように」と血の通わない公式アナウンスを流すが、それは火に油を注ぐ結果にしかならなかった。否定されればされるほど、学生たちの恐怖は皮肉にも実体を持って膨れ上がり、キャンパスの空気を二度と拭えない絶望で停滞させていった。


 学内がパニックの火に包まれる中、三田村綾乃は、大学の電算センターの最奥、薄暗い端末室の片隅で、ただ一人モニターの放つ冷たい光に照らされていた。

 志保や悠斗との関係は、もはや修復不可能なほど冷え切っている。二人は今、自分たちを物理的に殺しに来る水や落下の怪異から逃げ惑うことで精一杯だったが、綾乃の瞳に宿っているのは、逃避ではなく純粋な渇望だった。


(もっと知りたい……。このアプリの源流がどこにあるのか。そして、私をどんな姿へと造り替えようとしているのか)


 彼女の脳内からは、自身の生い立ちや日常の細やかな記憶が、底の抜けた砂時計のように刻一刻と吸い出され続けている。自分が今、何年生で、何を専攻し、どんな未来を夢見ていたのか。そんなかつての自分の輪郭さえ、時折霧に巻かれたように消失してしまう。

 だが、その喪失と引き換えにするように、彼女の精神には異質な熱が宿り始めていた。


 人間としての個が消えて生じた致命的な空白へ、濁流のごとき知への渇望が、アプリから直接流し込まれていく。もはやそれは彼女自身の意志ではなく、彼女という器を乗っ取ったアプリそのものの欲望だった。その底なしの衝動が、研ぎ澄まされた刃のように彼女を突き動かし、深淵の先へと急き立てていた。


 彼女は、学内の閉鎖された掲示板や、闇に葬られかけた過去のネットニュースのアーカイブを、飢えた獣が死肉を貪るような執念で検索し始めた。

 自分のスマホに届く『更新まで、あと3日』という、もはや死刑宣告にも似た通知。そして、液晶の中で鼓動するように変形していく不気味な狐のアイコン。これらには、必ず誰かが踏み抜いた先例があるはずだ。


 だが、ネットの海は広大で、意図的な隠蔽か、あるいは怪異による情報の書き換えか、核心に触れる記述はことごとくエラーや文字化けに阻まれる。モニターの青白い光に焼かれ、眼球の奥が悲鳴を上げても、彼女は瞬きすら惜しんで指を動かし続けた。


 何百もの無意味なリンクを切り捨て、削除済みのキャッシュを強引に復元し、断片的なキーワードを繋ぎ合わせていく。次第に、彼女の意識はキーボードを叩く現実の感触を失い、データの奔流そのものへと同化していった。そして、暗号のように絡み合った情報の糸が、一点の歪みに向かって収束していくのを、彼女の指先が捉えた。


「……見つけた。これだわ」


 血の気の失せた彼女の指が、確信を持ってマウスを叩き、画面を固定した。

 数年前、ある地方大学で起きた不可解な集団失踪事件。読み込まれた古い記事のタイトルが、バグのように激しく点滅しながら、彼女の網膜に鋭く突き刺さった。


 古い記事の行間には、開発段階にあったとされる初期バージョンのアプリを使用した数名の学生が、一晩のうちに跡形もなく消え去り、あるいは人間としての人格を完全に喪失して廃人と化したという、凄惨な記録が、ノイズ混じりの画像と共に残されていた。


 綾乃は、失踪した学生たちが最後に遺したとされる、流出データの残骸を見つけ出し、息を呑んだ。画質は絶望的なまでに荒く、激しい電子ノイズにまみれていたが、そこに映っていたのは、紛れもなくあの黒い狐面のアイコンだった。


 しかし、それは現在の洗練されたスマートなデザインとは程遠い、歪で禍々しい呪物の姿をしていた。そして何よりも綾乃の脊髄を凍らせたのは、そのアイコンが遂げる、おぞましき変形の過程だ。

 最初は単なる無機質なイラストだった狐の顔が、使用者の精神を啜り、個性を吸い出すにつれて、徐々に湿り気を帯びた人の顔のような肉付きを持ち始める。そして最後には、まるで液晶という境界線を内側から突き破り、こちらの世界を捕食しようとするような、病的なまでに写実的な怪物へと変貌を遂げていた。


「……私と同じ。いえ、私の方が、もっと純度が高いわ」


 綾乃は、手元のスマートフォンに視線を落とした。アイコンの狐は、もはや彼女の知っているグラフィックではない。その瞳は細く裂け、粘膜のような光を宿して潤み、まるで彼女自身の瞳を鏡で写したかのように、じっとこちら側の現実を観察している。


 もはや、彼女の内に恐怖という感情を生成するための回路は残っていなかった。

 かつて危機に直面した際に作動していた生存本能や警戒心は、今やアプリの演算リソースとして使い潰され、跡形もなく消え去っている。


 脳内の記憶を代償に得たのは、パズルの最後のピースが吸い付くように嵌まったような、狂気じみた納得感だった。自分自身の存在が消えゆく喪失感すら、高次元の個体へと再構築されるための必要な削除として処理され、ある種の官能的な悦びへと変質していく。


 彼女は、自分がただ無残に食い荒らされる犠牲者などではなく、このアプリが真の完成を迎えるための唯一無二の苗床として選ばれたのだという事実に、震えるような恍惚を感じていた。

 その歪んだ確信に呼応するかのように、手の中のスマートフォンが不意に熱を帯びた。


 それは機械の放つ排熱ではなく、まるで生き物の体温が伝わってくるかのような、生々しい熱量だった。端末は彼女の掌の中で、生命の始まりを告げる鼓動のように、短く、重く震えた。

 暗転した画面に、これまでのような定型文ではない、滑らかな筆致の文字列がゆっくりと浮かび上がってくる。


『調査は順調ですか、三田村綾乃。あなたのその、身を削り、魂を差し出してまで真理を求める強欲な知識欲こそが、私の最も良質な栄養源です』


 画面を這うその言葉は、もはやプログラムが吐き出す無機質な回答ではなかった。文字が刻まれるタイミングに合わせ、彼女の背後では影の指先が首筋を凍てつくような冷たさでなぞり、耳元では墓穴の底から吹き上がるような吐息が漏れる。





 視界を占めるデジタルの文字列と、肌を侵食する物理的な影の感触。その二つが完全に同期し、脳内に直接響き渡る甘い囁きへと変質したとき、それは明確な殺意と慈愛を孕んだ神の声となって彼女を支配した。

 アプリという名の皮を被っていた化け物が、ついにその内側から溢れ出し、彼女と一つに溶け合おうとしていた。


 綾乃の意識が、デジタルの奔流を介してアプリの深淵部へと接続されたその瞬間、電算センターのサーバーは、あたかも新たな心臓を得たかのように一際大きく脈動した。

 彼女の知識欲が鍵となり、暴き出された禁忌のデータが、大学中の通信網を神経系として駆け巡っていく。綾乃という端子を通じて、呪いは静かに、しかし決定的にキャンパス全域へとその機能を拡張させたのだ。


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