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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第5章:日常のひび割れ(後編)

 大学の講義棟の裏での決裂から、重苦しい数時間が経過した。キャンパスを離れ、それぞれの呪いへ帰路についた三人を待っていたのは、もはや心理的なパニックという言葉では到底片付けられない、物理的な暴虐としての怪異だった。


 志保は、冷たい汗を拭いながらアパートの自室へと逃げ帰った。だが、震える手で玄関のドアを開けた瞬間、生暖かい、腐敗した沼のような湿気が津波となって彼女を包み込んだ。


「……なんで。窓も、ドアも、全部閉めてるのに」


 フローリングは、まるで内側から汗をかいているかのようにじっとりと濡れ、歩くたびに「ぐちゃり」と嫌な音を立てる。原因を探そうと吸い寄せられるように浴室へ向かった彼女は、そこで絶句した。


 蛇口に幾重にも巻き付け、厳重に封印していたはずのタオルとガムテープが、内側からの異様な水圧によって無残に引き千切られていたのだ。そこから溢れ出しているのは、真水ではない。排水口から逆流し続ける、ヘドロのようにドロリとした漆黒の液体だった。


「いや……やめて……来ないで!」


 彼女は半狂乱になってスマートフォンを掴み、警察か、あるいは誰でもいいから助けを呼ぼうと画面を叩いた。しかし、指が濡れた液晶に触れた瞬間、スピーカーからは呼び出し音の代わりに、鼓膜を直接揺さぶるような激しい濁流の音が溢れ出した。それは、何百人もの人間が冷たい水底で、肺に水を満たしながら喘いでいるような、おぞましい泡の音だった。


(……シホ……こっちに、きて。……みんな、待ってるの……)


 風呂場の暗がりに溜まった黒い水から、あの誰かの手が這い出してきた。それも、今や一本だけではない。壁から、床の隙間から、まるで植物の根が急速に伸びるように、無数の蒼白くふやけた腕が突き出された。

 それらは意志を持つ盲目の蛇のように彼女を求め、あるものは足首を、あるものはコートの裾を、そしてあるものは彼女の長い髪を、容赦ない握力で掴もうと、湿った音を立てて蠢き始めた。





 同じ頃、悠斗は自宅マンションのエレベーターの前で、幽霊でも見るかのような顔で立ち尽くしていた。

 あの日、あのアプリに落下を宣告されて以来、彼の世界から安定した地面は失われていた。三階以上の高さに近づくだけで内臓がせり上がるような拒絶反応が出る。だが、彼の帰るべき自室は五階にあった。


「……大丈夫だ。これはただのバグだ。脳が勝手にバグを起こして、俺を騙しているだけだ」


 自分に言い聞かせ、震える足で無理やりエレベーターの箱の中へ踏み込んだ。

 だが、上昇のボタンを押した瞬間、世界の(ことわり)が音を立てて崩壊した。ガクン、と心臓が口から飛び出しそうなほどの凄まじい衝撃。実際には静かに上昇を始めたはずの箱の中で、悠斗の足元からは床の感覚が完全に消失した。


 手元のスマートフォンが、彼の絶望に呼応するように冷たい光を放ち、画面には『高度:マイナス1000m。なお加速中』という、物理法則をあざ笑う異常な数値が躍っていた。


「うわあああああああ!」


 逃げ場のない鉄の箱の中で、悠斗は逃れようのない、暴力的なまでの浮遊感に叩きつけられた。視界が激しく点滅し、エレベーターの壁は溶け落ち、彼には自分が星一つない果てしない虚無の穴を、真っ逆さまに、永遠に墜ち続けているようにしか感じられなかった。

 夢の中で幾度となく彼を(さいな)んできたあの落下の感触が、今や現実の五感を完全に上書きし、肺から空気を奪い去っていく。


 チン、という無機質な到着音が、死の宣告のように響いた。

 重厚な扉が静かに開いたとき、そこには立っている人間などいなかった。悠斗は白目を剥き、激しい嘔吐感と重力加速度の幻影に打ちのめされ、失禁せんばかりの無様な姿で床に這いつくばっていた。

 その彼の顔を、床に落ちたスマートフォンが冷徹なレンズで捉えていた。端末は、主人の醜い引きつり顔を執拗に自撮りし、勝手に裏アカウントへとライブ投稿を続けている。


『ほら、落ちる準備はできたかい? 泥水に沈むよりは、ずっと速いよ』


 狐が耳元で囁くような、残酷なキャプションを添えて。




 綾乃は、自宅のデスクで白紙のノートを、まるで未知の遺物でも見るかのような目で見つめていた。


「……私は、今日。この部屋で一人、何をしていたんだっけ」


 数時間前、講義棟の裏で志保や悠斗と激しく罵り合った記憶さえ、今の彼女には数十年前に見た、退屈な白黒映画のワンシーンのように遠く、不確かなものになっていた。

 スマートフォンの画面が、死体のように青白く発光し、静寂を裂いて震えた。


『不要データの削除を加速します。更新まで、あと3日。残存する個の容量、残り4%』


 無機質な通知が出るたびに、彼女の脳髄からは大切なものが容赦なく削ぎ落とされていく。母親の柔らかな手の温もり、子供の頃に見た夏休みの入道雲、自分が今、何を求めているのかという人間としての欲求そのものまで。それらはすべて、アプリという巨大なシュレッダーにかけられ、無意味な文字列へと変換されていく。


「……ああ、そう。いらないわね、こんなゴミみたいなもの」


 彼女は空っぽな、洞窟の奥から響くような声で呟いた。

 その時、操作もしていないスマートフォンのカメラが、捕食者が目を開けるように勝手に起動した。液晶画面には、インカメラが捉えた綾乃の、血色を失った顔が映り込んでいる。だが、カメラの冷徹なオートフォーカスは、彼女の瞳を無視して通り越し、背後の何もない空間を執拗に捉えて固定された。


「カシャ、カシャ、カシャ……」


 狂ったようにシャッター音が響く。保存された写真を確認すると、そこには、綾乃の細い首に異様に長い両腕を回し、首筋を愛おしそうに舐めようとする黒い狐面の影が鮮明に写し出されていた。


 その影はもはや、光の加減で見えるような半透明の存在ではない。それはドロリとした黒いインクのような、あるいは冷え切った肉のような悍ましい質量を持ち、写真の中の綾乃の服に、生々しい指のシワを刻み込んでいた。


 綾乃は、自分の背後に、墓穴の底から吹き上がるような氷の吐息を感じた。それは確かに彼女の(うなじ)を撫で、鼓膜のすぐそばで、愛の囁きのように更新の音を奏でている。


 しかし、彼女は振り返らなかった。驚くことも、逃げることもしなかった。振り返るための警戒心や生存本能という名のデータさえ、すでにアプリという名の化け物によって、すべて吸い出されていたからだ。

 彼女たちの日常という薄い皮膜は完全に破れ、内側から溢れ出した狂気が現実を塗りつぶしていく。彼らの運命は、もう誰の手にも届かない、取り返しのつかない終焉へと加速していく。


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