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液晶に棲む狐  作者: 都桜ゆう


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第5章:日常のひび割れ(中編)

「……ねえ、もう限界だよ。助けて……」


 大学の講義棟の裏、人目を避けるように集まった三人の間に、以前のような連帯感は微塵も残っていなかった。かつての軽薄な友情は、得体の知れない恐怖という劇薬によって、ドロドロとした疑心暗鬼と絶望に溶かされていた。


 志保は、真夏のような強い日差しの中でも、防波堤を築くように厚手のコートを深く羽織り、歯をガタガタと鳴らして震えていた。彼女の服の裾からは、アスファルトの上にあるはずのない、泥を孕んだ湿った水の匂い。――まるで腐りかけた沼地のような異臭が漂っている。


 近くの配管から微かなピチャリという水滴の音が響くたび、彼女は悲鳴を飲み込んで飛び上がり、何かに怯える動物のような目で周囲の影を凝視した。


「浴室だけじゃないの。洗面台も、トイレも……。水が通る場所のすべてから、あの音がする。隙間から、あの青白い手が私を招いているのよ! 昨日なんて、コップに注いだ水に……。私の、私の知らない誰かのふやけた顔が映ってたの!」


「俺だって……俺だって、もうまともじゃないんだ!」


 悠斗が、破裂しそうな激昂で志保の言葉を叩き潰した。

 彼の目は赤く血走り、手すりや壁を、爪が剥がれるほどの力で掴んでいないと立っていられないほど足元がふらついている。


「三階以上の場所に行こうとすると、視界が突然、垂直に反転しやがるんだ。足元の床が消え、その先にはどこまでも続く真っ暗な空洞が、俺を呑み込もうと口を開けて待っている」


 悠斗はこめかみを強く押さえ、吐き気を堪えるように身を捩った。


「医者にはパニック発作だと診断されたさ。でもな、薬をいくら流し込んだところで、一度見てしまったあの底知れない奈落の恐怖だけは、どうしても消し去ることができないんだ。一歩踏み出すたびに、臓物までせり上がるような墜落の感覚が全身を支配して、俺を暗闇へ引き摺り込もうとしやがるんだよ! それに……!」


 悠斗は、もはや凶器でも見るかのような手つきでスマホを突き出した。彼の裏アカウントは、今この瞬間も、彼がかつて必死に媚びを売っていた先輩や、成績を握っている教授への、正視に耐えない卑劣な誹謗中傷を自動で投稿し続けている。


「俺の居場所はもう、この世界のどこにもない! 俺の築いてきたすべてが、あのアプリにバラ撒かれ、解体されていくんだ。投稿を消そうとすれば、スマホが牙を剥くように俺の指を拒絶して、勝手にロックをかけやがるんだよ!」


 二人の叫びのような絶望に対し、綾乃だけは、どこか遠い銀河の出来事を聞いているような、温度のない冷めた目をしていた。彼女の肌は陶器のように血色を失い、その存在自体が、現実の風景から浮き上がって見えるほどに変質していた。


「二人とも、騒ぎすぎよ。それは、私たちが完成されるための最適化の過程に過ぎないわ」


 綾乃の声は、感情の起伏が不気味なほど削ぎ落とされ、氷の板のように平坦だった。


「綾乃。その顔、何だよ。俺たちのこと、まるで実験動物か……他人みたいに見て……」


 悠斗が、彼女の瞳に宿った人外の冷たさに後ずさりする。綾乃は自分の学生証を指先で、まるで無機質なプラスチック片を検分するように弄びながら、空虚な微笑を浮かべた。


「私、さっき気づいたの。この学生証に書いてある名前……、三田村綾乃っていう人物が、どうしてこの大学に入ったのか、誰と笑い合っていたのか……。その記憶の肌触りが、もうどこにも無いの。名前を見ても、自分を指す言葉だと思えない。ただの記号。まるで、赤の他人の履歴書を無理やり読まされている気分よ」


「……何、それ。何言ってるの……?」


 志保が、水を含んだコートの中で身を震わせ、息を呑む。


「スマホが勝手に私の写真を整理して、ゴミ箱へ捨てていくたびに、私の過去という名の肉が剥ぎ取られていく。でも、不思議と怖くなんてないの。空いた場所に、人間には到底抱えきれないほどの、巨大で完璧な何かが流れ込んでくる(よろこ)びがあるから。更新まで、あと3日。今の私には、それだけが福音なのよ」


 綾乃のスマートフォンが、机の上でチッと乾いた、骨を砕くような音を立てて通知を鳴らした。


『更新スケジュール:個体認識の解体を継続中。純粋知性への置換を開始します』


 画面の中で蠢く狐のアイコンは、もはや平面のドット絵ではなく、生々しい獣の肉感を持って液晶を内側から押し広げている。その瞳は、見つめる綾乃の生気を貪り食うように、どす黒く、しかし眩い赤色で脈動していた。


「……狂ってる。もう正気じゃない」


 悠斗が吐き捨てるように言った。その声は激しい恐怖のあまり裏返っている。


「俺たちは助かりたいんだ。この呪いを解く方法を探すべきなのに、あんたはそれを……ご馳走でも食べるみたいに楽しんでる。

 あの夜、あんたが『このアプリ、面白そうだよ』なんて言わなければ、俺たちはこんな目に……!」


「私が無理やり指を動かさせたわけじゃないわ。悠斗だって、安全な場所から他人の人生が崩壊するのを覗き見たい、その汚い蜜を啜りたいって欲望を持ってあの場にいたんでしょう?」


 綾乃の冷徹な言葉は、鋭利な剃刀(かみそり)となって悠斗が必死に守っていた薄っぺらな自尊心を無残に切り裂いた。


「もういい……。俺は、自分だけでなんとかする。あんたたちと一緒にいたら、底なしの沼にまで引き摺り下ろされる」


 悠斗は壁を支えに、今にも折れそうな足取りで、逃げるように去っていった。


「私も……綾乃とはもう話せない。怖いよ。

 あんたの後ろ……スマホのレンズがさっきから、生き物みたいに、ずっとあんたの背後を追いかけてる」


 志保も絶望的な涙を浮かべ、逃げ場のない湿った足音をコンクリートに響かせて走り去った。彼女が去った跡には、異質な水溜まりが点々と残されている。


 一人残された綾乃は、動じることなく、愛しむような手つきでスマートフォンを持ち上げた。彼女の意志に関係なく、カメラはすでに狂ったように起動を繰り返している。プレビュー画面には、去っていく二人の背後などではなく、綾乃の青白い首筋に節くれ立った長い指を回し、顔を密着させるように寄り添う黒い狐面の影が、高精細な画像として映し出されていた。


「カシャッ、カシャッ、カシャッ」


 痙攣するようにシャッター音が連続して響く。

 保存された写真は、彼女の記憶が剥がれ落ちたあとの脳内の空白を埋めるように、不気味なアルバムへと病的な速度で蓄積されていった。綾乃は、画面に映る狐面の影と自分の影が溶け合い、一つになっていく様子を、うっとりとした恍惚の表情で見つめ続けていた。


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